生きててもと思うこともある。

生きていて、つらい事ばかりだと思う。

死んだ方が、ましだとは7年前から思っている

心のどこかに常に座っている、「死へのいざない」

メキシコの芸術によく骸骨が描かれている。

その図柄の明るさに驚いたことがある。

先日、宿のテレビでパリの地下のカタコンベ(埋葬所)を放映していた。

30年ほど前に見たことを思い出した。

死のにおいのしない場所だった。

死が一番近かったのは何時だろう

ある仕事・・仕事と云う云い方は語弊があるが・・・

ある場所に居たときに一番近かったような気がする。

三島由紀夫が、戦時中が一番死に近かったと感想をのべた。

が、空襲という他人からの無作為による死が近かっただけで、現実的な戦場の死があったわけではない。

猪瀬氏は、三島についての著作がある

読むと

三島由紀夫の仮面

平岡公威の仮面

三島への崇敬を減らしたという欲望で書かれていることがよく判る。

猪瀬氏の内容は、死者への冒涜に満ちている。

取材を受けた側も、特別視しないような証言をしている。

徴兵検査を受けたときの、「土嚢上げ」について滔々と語る老人

農民ならできて当たり前

都会のアオジロ(三島由紀夫のあなだ)にはできない。

出来なかったことを笑う口調である。

頭脳労働と、肉体労働の単純比較をして笑う

ドウなんだという気がする。

三島は、「三熊の詣」で、他人に、伝説を作り、見せるという事を書いた。

初読の時(15歳ぐらい)に驚いた。

これは、見せると云ことを考える、行動するという事が如何に計画的でないといけないかという事を教示していた。

そうして、最大の見せる行為は、「自死をもってする」と考えあった時に、三島の死は近しいものとなった。

三島由紀夫氏の死

自分の死すべき姿

自死の行程

死のいざない

メキシコの芸術で、骸骨が出てくることが多い

底抜けに明るい

北斎の書く、コハダ小平治へ自のような陰湿な、現実味を帯びた骸骨ではない

死ねば、骸骨

一休宗然ではないが、死ねば、骨である

笑いかけた手も、目も、カルシュウムの塊の残骸になる。

知人の死は遠い

友人の死は、近くて寂しい

親族の死は、重く暗い、そうして寂しい、寂寞感が押し寄せてくる。

死ぬという事

近しい死

いつでも死ねると思うことは不幸であろうか。

死への重さは、生きていることへの重さでもある。

近しい死を、と云うか、死にたいという気分を解消するためには、前へ

前へ、前へ向かおうとすると腹が立つような現実

現実は、自分が蒔いた種である

種は、自分への悪意となって育って返ってきている。

敵にしてはいけない人というのがいる。

嫌った人間を徹底的に貶めることに長(た)けた人間がいいる、言わゆる「クズ」なんだか、うちの職場では飲酒をしない奴はこいつにはかなわない。

自分で、思うよりも、他人に理解を求めれば、力が持てるかもしれない。

しかし、それらの悪意

を「はね返す」余禄を持つことができるかもしれない。

何時も思うのだが、

「God With you」

これは、「It My JOB」と云う感覚と似ている。

これは、自分の信じている八百万の神々と共にと云う感覚である。

死は近しい。

イエスキリストや、ブッダ、マホメッドとiいった紙に書かれたものとは違う、スピチュアルな感覚への親近感である。

20190516

20190517加筆訂正

 

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ああ、なんだか、死にたい

色々と考えると、生きててもしょうがないような気がする。

色んなことを考えても、いいこともなさそうだ。

子供の事を考えると、死ねないが、このままの状態では、精神が崩壊しそうである。

あんなの奴が

そう思うことが多い

昇進もない

ただダラダラと、あと10年ほどこのまま過ごすかと思うと

いやいなる

友人が

「能力があるのに、そんなつまらん仕事をさせるなんて、もったないよなぁ」

とはいってくれても、何の気休めにもならない。

「つまらん人生だった」

とは言いたくはないが

言われると気分は悪い

一生懸命に仕事をしても意味がない。

頑張っても報われない。

ふと、上司運が悪い?と思ったことがある。

運が悪い

運てなんだ?

上司運なんて、うちの組織では運ではない。

でも、普通の評価から低評価へ下げられ、転勤。

転勤先で、他の系統の支社長、副支社長から非常に高評価を連続してもらった。

本店では、困惑したらしい。

自分たちの一押しが低評価で、高評価をもらうと困る奴が評価が高い。

すると、評価を下げる方向へと云うか、私を嫌っている者の下へ配属して、評価を下げる方向へもっていく。

 

 

こんな仕事につかなければよかったと思うことが多い。

死と隣り合わせだった1年間の海外生活は、ある意味充実していた。

海外へ行く恐怖に打ち勝ち、へらへらと海外へ行った事もあるが、何のプラスにもならない。

性格はある意味楽観的である

でも、こう意に染まない、嫌なことが多いと嫌になる。

 

救いは友人である

友人が居て、心が休まることが多い。

いい友人もたくさんいる

死んでしまった友人の言葉が突き刺さる

生きててもしょうがない。

彼とは違って、子供も家族もいる

でも

山椒魚の様に

寒いほど一人だ

そう、うつぶやいてしまう自分が悲しい

今は、いい

来年はどうなる?

また遠方へ通勤するのも嫌である。

なんだか、面白いこともない。

仕事もするつまらない・・・

 

 

 

 

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降りる理由・・・・スケールアビエーション(scaleaviation,SA)とか、買わなくなる時期の選択

このブログで人気なのが「さらばスケールアビエーション」( http://flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-ec40.html )と

「あきれた爺さん新幹線の中で」flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-6479.html である・・・

さらば「スケールアビエーション」創刊号から買い続けていた。

2年ほど、購入を止めるか止めないか悩んだ・・・けれども結果、名機100戦の終了と同時に止めた。

悩んだというか、やめる決意を翻意する否かを検討していた。

ちなみに、この間は、模型屋さんの定期購読だった。

この期間は、ある降りることのモラトリアムであった。

要は、購入を中止するかしないかの猶予期間であった。

結果、内容が悪くなるばかりで、もラトリアㇺの意味を途中で考えてしまった、名機100が終わる前に95機目ぐらいで、本当に金の無駄という感じがしていた。

もう1年ぐらい、買う理由がなくなったということである。

この名機100選も、仄聞によると、途中で連載中止の申し入れが新編集長から打診があったそうですが、100機まで作るのが契約だらと云って続けたそうです。

この名機100の終了とともに、私は、「スケールアビエーション」(通称「スケビ」、最近は、「SA」)の購入をやめました。

まあ以前延々と書いたので理由は再度かきませんが、読むところのない雑誌はいらないと云ことである。

コラムを書いてる女性モデラーが、フェイスブックでも人を舐めた態度だったのも拍車をかけました。

この人、途中でフェイスブックからいなくなってましたが、最近復活しているの気が付いたが、どうでもいいやと云う感じである。

模型が雑誌の「(お刺身の)ツマ」と云う感じを感じてしまうのは、「なとなくつまらん」と云う気が起きる。

時々、大手の書店では見かけるが手に取ることはまずない。

画面が暗くて、コスプレなおねーちゃんの写真が出ている・・・

一般紙として読むのなら問題ないのかもしれない。

それでは、残された時間の短い者は、読む気にならんのである。

ある雑誌で編集を業としている人と話をしていたら、多くの場合は、最盛期(バブリナーな頃)と比べると大体多くの雑誌が5から10分の1ぐらいの部数にの落ち込んでいるそうである。

10分の1を切ると非常に危険だそうである。

5分の1を維持するのが大変で、読者の年齢層が上がるにしたがい、皆さん、降りる理由を探しているという事になる。

如何に降ろさないかが最大の懸案事項と聞いた。

現在は、模型雑誌は、老舗のHobbyjapan Modaelart、後発ではあるが老舗になりつつあるModelGrafix、ちょっと古いScalAviation、ArmarModelingぐらいしかいない

後発で、電撃ホビーマガジン、マスターモデラ―なんて雑誌もあったが、今は休刊と云う名の廃刊である。

マスターモデラーは、人が居なくなったという理由で休刊

編集、作例を作る人が同じと云うひどい職場だったようである。

電撃ホビーは、古き良き時代のホビージャパンをカラー化した感じだったがあえなく沈没

アーマーモデリングは、一般企業に勤めていた人を、製作者に引きずり込む、編集に製作者を引きずり込む。

数年で退社、

酷いと死亡させるという雑誌である。

友人某は、編集に入る時に、特別な条件を出して入社したが、その条件と云うか、約束が反故になされた。

ものすごい重労働であったそうである。

そうして、異邦地で急死してしまった。

模型雑誌は、情報を得るためだけに買っている感じがする。

それも、新鮮なものではないのでどうかなと思う。

車関係はほとんど買わない、お義理で飼っているのは1誌飲み、義理がなければ止めたい気がある。

車雑誌で、なくなったのが残念だったのは、SuperCG、Naviかな。

Naviは編集長が引き抜かれてからはグダグダ・・・内容がとたんに悪くなった。

元左翼の活動家でも能力があるというか、車と他の物のコラボレーションというか、生活スタイルとしての車との生活を紹介した点は目新しかった。

前例を墨守しないから面白いのだろうと思っていた。

いつの間にか休刊していたが、編集長が引き抜かれて、従来の踏襲ばかりになった時点で「終わったな」と思って買わなくなっていた。

だから何時休刊になったのかも知らない。

某雑誌の社長は、資金繰りのためにほとんど個人で持っていた車を売り飛ばしたようである。

スケールアビエーションは、模型とその他の趣味の結合、生活にまで・・・範疇で大幅に客層を広げたいという思いがるのかもしれない。

何十年買っても、数十万円である。

うちの子の車のデフ1個、定価でも13万円(25年前)ぐらいだった。

あるお店では、純正の新品は、45万円(10年前)ぐらいするらしい。

そう考えると、模型の雑誌買うのを止めてもさほどの収支を改善するわけではない。

が、やめたというのは、どぶに金を捨てるような気になっていたからである。

 

 

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関東電気自動車・・関東自工と中島製作所SKS型

中島製作所の製のSKS型の資料がありました。

関東自動車工業10年史には、最初の製品第一号の記事が以下のように記載されていま

「六浦工場には20名の従業員が集まり、武蔵野乗合自動車株式会社から電気バス1台が、さっそく、修理車として運びこまれて、仕事がはじまりました。

 物を生産する槌音は、こうして六浦の一角から起りました。

   1

 六浦工場と名付けた仮工場で手掛けた1番目の仕事は、東京都武蔵野市にある武蔵野乗合自動車株式会社から運びこまれた電気バスを再生することでした。

 戦争という至上命令のために、休止していたバスを,元通りに直して走らせようというのが初めて与えられた仕事でした。 

 現場の人たちは,分解することにその構造を学びとりました。

 長い間、風雨 にさらされていたこのバスは,商工省(現通商産業省)の工業奨励金で作られた、通称SKS型電気バスと呼ばれるもので、 流線型でスピードは遅く(表現ママ)、名実ともに代燃車でありました。 

 バッテリーは6ボルト 40個をホイル間のフレームにとりつけたものでしたが、当社 ではこの再生作業の中から、新しい電気バスへの構想を生みだしたといっても過言ではありません。

 六浦工場に集った現場人は,豊富な経験の持主でしたが、こと電気自動車にかけては, ズブの素人でした。

 しかも、自動車を作るための,すべての職種の者が集っていた訳ではありません。

 塗装という仕事はそのよい例で、汗水流して板金を修正したホワイトボディを塗装するために、東京から専門の職人が送られてきました。

 そして六浦工場の人たちの前で始められた塗装作業は、彼らが目をまるくして驚くほどていねいなものでした。

 外板 を底光りするほど磨きあげ,何回も手袋でなでてはパテで修正する。この当時の自動車の 塗装についての知識はその時初めて得ました。     

 この驚きから、自動車の塗装はこういう やり方でやるのだ」ということを、 SKS型電気バスから知りました。

  新装なったバスは,六浦工場の門をでて東京に送られました。

 それは創立から5カ月目 昭和219月であり、六浦工場で生産したただ1台の自動車でした。

  再生といわず、生産という気持の中に、ここに述べた苦労からの表現があるのです。

 この写真は、関東自動車工業年史記載のSKS型です

 よく見ると、E-2/E-3です。

10_2

都バス90年の歴史記載の写真、E-1と記載があります。

この車両が関東電気自動車工業の再生車だったと思われます。

90

終戦時にはガソリン車68台、木炭車841台、新車26台、電気車2) の計960台が在籍していたが、実際に使用に耐えるものは196台にすぎなかった。

1946(昭和21)年に将来は300台まで増やす計画を立て、まず中 島製作所(SKS3)8台、神戸製鋼所(EB46)21台を発注した。完成した車両は新 谷営業所に配置されて、1946(昭和21)111日に浅草寿町~~三河島~西新井橋 6.5kmで運行を開始した。

電気自動車武蔵野乗合自動車株式会社

関東電気自動車製造の社史に乗っている写真が掲載されおりキャプションがついている。

代燃バス(表現ママ 代用燃料バス)の一種類として電気バスも作られた。

写真は中島式SKS電気バスを千歩関東電気自動車で再生したもの」

戦前の東京電気局(都バス)の電気バスの運用実績は、2台との記載がありました。

戦後残存車両台数の明細がありました

(出典 都バスの90年史 佐藤信之著 グランプリ出版 ISBN978-4-87687-299-2 )

 

 

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昔の話など、一部加筆

アルバムを見てみた・・・

5歳ぐらいから12歳ぐらいまでのアルバムである。

修学旅行は奈良京都(当時としては、べたである。)

服装を見て驚いた。

まぁ、なんというか、男の半数以上はみんなジーパン、ジージャンである。

では自分はどうか・・どうかと云うと・・・チノパン(もどき)とフード付きの長めアノラックのようなジャンパーである。

別の家族旅行は、ジーシャンジーパンであるから持ってなかった訳でもないが・・・やはり同じは嫌だなぁという気が働いたのかもしれない…天邪鬼だからねぇ。

女の子の服装はカラフルで、なぜかチェック柄が多い

普段、結構地味目の子が・・・派手な色を着ている

みんな幼い。

今見ても、見てもほとんど名前がわからん。

 

判るのは少々いる。

仲が良かったか、嫌いだった奴である。

仲の良かった子は名前、嫌いだった奴は、苗字である。

私は、幼稚園ではなくて、保育園だから、小学校に上がった時にカタカナが上手く読めなかった。

(おかげでものすごく恥をかいた気がしたので、その後猛然と勉強した・・・とはいえ、興味の向くことは勉強するがそれ以外は全然だった。)

保育園(給料安くて、貧乏だったので保育園でした。)の時の写真に、母親ご丁寧に名前を書いていてくれた子は判ったが、それ以外は皆目わからない・・・名前を見てもだらが誰やらわからい・・・

ちょっと頭の弱かった‥この子

特殊学級ではないが、ちょっと反応が悪い子がいた。

特殊学級の子は怖かった

ものすごい勢いで怒る

「バカ」と云ったら家まで追いかけてきて、謝れという

当時、特殊学級の先生は浅岡(浅丘?)という先生だったが、この人、産休補助教員だった。

産休の絶えない学校で、結局3年ほどいたが、産休補助教員でも、何年か勤務すると、本採用の試験が受けられた様で、3年目の終わりに本採用になった。

でも何回か、課題を提出しなければならなかったようである。

そんな中で、美術関係の課題は、ほかの先生が造ったものを提出していた。

私の担任だった黒田先生(美術系出身)が、何回か教室で作品を作っているのを見たことがある。

美術関係の課題は、浅岡先生は、美術が不得手と云うことで、うちの担任が造っていた。

土曜の午後、先生が教室で内で作業をしているの見たことがあり、他言は無用と云われた。

忘れもしないのは、蝋燭の蝋を垂らしてドットを作り渦巻きの模様を作っていた。

ほかの先生に見られると困るからと云って、教室で作っていたのでよく覚えている。

考えてみれば、産休補助教員自体が、免許はあるけど、採用試験に受からない人である。

偉そうに、馬鹿の前で訓戒を垂れて、私に無理やり、謝罪させた。

何となく、くるくるパーは怖いと思うようになった契機でもある。

普通の先生だと思っていたら、産休補助教員と聞いて、何となく、気分的に馬鹿にした感じを持ったことがある。

それは、産休補助教員て何?と聞くと、親は、教員関係者であるから・・つらつらと答てくれた。

ついでに、そのころ、私の親は、先生たちを管理する仕事をしていたので、帰宅後再度聞くと、制度についてつらつらと教えてくれた。

この先生、うちの親の勤務先を知ると態度がコロッと変わった。

ここで、大人は自分の為には嘘をつき、ズルをすると思った。

嫌な小学生である。

変な中華料理屋と云うか中国料理屋の子供…ベビースターラーメンの図柄そっくりだったI君

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珍奇な中華料理屋で、なぜか2店舗並んでいたうちの1軒を親父さんが経営していた。
バリバリ昭和な、なんかちょっと変な中國料理屋・・・安っぽい机、ボロッチイ丸椅子。

べたべたするようなビニールカバー

隣の中華料理屋を正当派に類するなら、和風テイスト満載な感じだった。
彼が住んでいいたのは、川向うのものすごーくぼろい集合住宅、母親はいなかったのではないか?

本当にぼろかった
中学は、いわゆるマンモスこうだったので10クラスもあった。
クラスが変われば疎遠になる
ある時、奴の親父さんの店に閉店の張り紙・・・ほどなくして‥隣の中華料理屋がその部分を借りて店舗を拡張
ほどなくして、件のアパートの近くを通りががったので、彼の住んでいた部屋を見に行った(野次馬根性)
部屋はもぬけの殻であった・・・そこに住んでいた小汚いおばさんに聞くと、先週引っ越したという、そうしてこのアパート自体が取り壊されると聞いた。
どこのクラスか知らなかったし興味もなかったので、行方を追う気もなかった。
結局、転校したことを後から聞いた。

また、H君とい彫金師だった人の子供がいた。
このお父さんに最初の結婚の時の指輪を彫ってもらったが、後年、かのお父さんは失明して、どこかへ行ってしまった。

Y君と云う子がいた。
うちの親は、結構、友人関係にはあまり文句を言わない人だっが、ある時突然、Y君とH君とは付き合ってはいけないと言い出した。後に判明したことは、Y君は、スーパーで万引きをして捕まった。

その捕まった場面を親が見たようである。

その後も何か悪いことをして捕まったと聞いた。

H君は、彼の家の近くの資材置き場の材木への放火犯であった。

H君は、男三人兄弟の末っ子で、上の二人はものすごく勉強もできていい人であった。

H君は鬼っ子で、出来がものすごく悪かった

よく、映画なんかに出てくる出来の悪い末弟を地で行くような人だった。

この二人は本当に悪かった

二人とも、中卒で働いて、結局、放火犯はヤクザになり死んでしまったという事である。

親族には随分と迷惑をかけたという事は聴いた。

ちなみにY君・H君宅はもうない。

勉強の良くできたM君は、後に東大を出て銀行に行った、現在はどこかの証券会社にいるらしい
お兄さんがいたが、この兄さん、途中(高校)までは良かったが、結局いい大学には行けなかった。
彼の母親は、この次男坊が自慢の種である。
彼の家は兄さんが継いで住んでいるようである。

同級生の女の子の行方はほとんどわからない
Facebookで、現況を知りえるのは1名のみであとは知らない…と云うか興味もない。
うちの小僧さんと同学年だった子の母親の一人が同級生だったが・・・保育園で会おうが、小学校で会おうが・・話した事がないので現状は知らない。彼女とその家族が中学まで住んでいたアパートは20年以上前に取り壊されて宅地に替わっている。

中学のころ、定期試験中に、ゲームセンターで朝鮮人と喧嘩して補導されたMN君は、外国人の奥さんがいるらしい。
これも、彼の保険証を拾ったことで分かっただけである
住所は違う場所だったが、旧宅に行くと、彼が出てきた・・・
名のならずに、「これはあんたのかと?」と聞くと
「そうだと」というので
「じゃあ」と云ってそのまま帰ると、四時間ほどして菓子折りを持って礼に来た。

また、不良だった男・・苗字さえ思い出せないは、チンピラになっていた。

そういえば、カリスマ講師になったのが一人いた。
高校の教員になったとは聞いていたが、いつの間にか講師に転身していたらしい・・

F君は、中学に上がると家庭環境の急激な変化で、疎遠になった。


ちなみに私をいじめ、苛んでいた女教師は存命だと聞き、ものすごくはらが立った

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パゼロ製造

パゼロ(わざとです)製造と云う会社がある。

岐阜県の某所に…国道を進んでいると大きな看板で「パゼロ製造」と云う名前が出てくる

その会社が存在する町の収入の4分1から3分の1近くは、この会社のからの税収と云うことになる。

その昔は、東洋航空機と云う航空機関連の会社であった、一時期とトヨタのトラックボデイを作っていたこともある。

現在は、三菱自動車と三菱エレベーターの製品を生産している

以前は、東洋工機とっていたし、岐阜市内の会社だった。

三菱エレベータの製造を開始し、パゼロの生産も始めた。

有名どころでは、シテイカブリオレの生産もしていた・・・。

1995年に、パゼロ製造と云う名称に変更した。

これを聞いて、三菱自動車の社員の方は・・・かなりのけぞったようである。

いつなくなるかわからない車の名前を会社名につける神経が理解できないという事である。

現在は、車としては、パゼロ、アウトランダー、デリカ、73式小型トラック(新型)を生産している。

そのうちアウトランダー製造?とか、三菱自動車坂祝工場とか社名を替えるのではないかとかと・・・

アウトランダーは、岡崎の生産が間に合わないので・・・という事である。

アウトランダーは、開発期間が非常に長く、外部の意見を取り入れたので良い車に仕上がったようである。

外部の者は、各部のギア比の変更をし指示したりして、今までの三菱の車とは一味違った車になった。

本来の予定よりも2年も余分にかかりましたが・・・

ちなみ、エクストレイルとアウトランダーを比較したところ、日産の方々は、アウトランダーべた褒めだったそうである・・・

ここで比較であるが、トヨタのハイラックスサーフを、100点とすると、アウトランダーは、75点ぐらいである。

広告のような使い方ができるのか?と云う疑問を持たせるエクストレイルは・・・・赤点かな。

で、そのパゼロの国内向け生産は8月で終わるという。

海外向けはそのまま継続するというのだが大丈夫か?

社名変更した理由の一つが、パゼロ製造をしている会社として認識されれば従業員の募集に有利と考えたという・・・・・

現在は、パゼロて・・・・みんな知ってるか?

と云ういレベルである。

パゼロは、パリダカールラリーが最高峰だった…けど

実際は、パゼロの皮(川)を被った、不整地走行の化け物のような四駆だった。

ちなみにノーマルのパゼロは勝てない

ノーマルで優勝するのは、ランドクルーザー・・・こちらの方が随分と偉いと思うのだが

外見が何となく似てるというだけで、パゼロを売りまくた三菱はすごいと思う。

パゼロミニは、水島工場製で、パゼロ製造とは全く関係がない・・・

パゼロミニベースのPX33もどきも、戦前の、自称、三菱重工初の四輪駆動車がモデルであるが・・・資料は、三菱の社内にしかない。

公表していないのだから、ちゃんと、四輪駆動だったのかさえ怪しい。

時期的には、陸軍の要求のあった指揮車(くろがね四駆、岡本号、ホヤ:瓦斯電)として応募する予定だったかもしれない。

悪く言えば、日産が軽自動車の四駆に、くろがね四駆のノーズつけて、うちの製品でした見たいな感じである。

(高速機関は、現在は日産の子会社)

で、肝心のパゼロの実力派どうだったのか・・・四輪駆動車としての性能は、四駆乗りの人に言わせると、普通だったそうな。

で、実際多くの人が使用した街乗りではどうだったのか?

友人某の奥様が、友人(旦那)のプラドからの買い替え時に、パゼロに乗ってみたいと言い出した。

仕方なく、奥様のご希望を受け入れて、パゼロを購入、プラドは、実家の納屋で冬眠となった。

奥様、身長158センチ・・・・

体重 秘密らしいが、デブでも、やせすぎでも普通体形である。

来て早々乗った・・・・ショートボデイだったが・・・取り回しが、すべからく重い

小回りが利かない・・・視界がよくない・・・

バックが怖い・・・・

子供の送り迎えに厳しいという理由が最大、あと危険・・・で、通勤に使う予定が、1か月で断念

結局、前使っていた軽自動車で通勤・・・・

1年後、購入後5000キロほどでは売却、買値の10分の1以下だったそうな・・・

で、プラドが復帰・・・

友人曰く、イヤーパゼロは無理だろうと思ったんだけどね・・・・・奥さん乗りたいっていうから仕方ないよね・・・

ここ10年ほど、路上でパゼロを見ることがなかった。

日本の四駆は、トヨタ以外は‥ホント、カスだったなぁと

いすゞは、ランドローバーそっくりな車を作っていた。

ビークロスは形は面白いが・・・車としては・・・どうだったんだと思う。

樹脂の外装は、現在は、白化して結構ボロボロである。

日産は、パトロール(サファリ)があるが、国内販売はしていない。

既に、珍車の域であるが、近所のヤブ歯医者が乗っいているので見かけるか、それ以外は、航空自衛隊の基地でしか見たことがない。

現行の73式小型トラック(1/2T)は、シャーシ等は前のパゼロのママである。

8月に国内販売中止になる、パゼロとはモノが違うのデアル。

この73式、部隊ではすこぶる評判が悪い。

悪い内容は書けないのであるが・・・根本的な問題点で治しようがないのである。

73式も、ランクルベースに替えたらどうだとおもう・・・

現行の73式は、時期的に高機動車の開発時期と重なったので、予算が少なくて、新型ではなくて、改良型という位置づけであった。

だから、名称は73式をそのまま踏襲している。

こう見ていくと、パゼロ製造の名称は、先行きは不安である。

東洋工機に戻るか、三菱自動車坂祝工場になるのか・・・それとも・・・消滅するのか、実は興味津々である。

三菱は、日産の先行きを不安げに眺めているが、1月以降、6月の株主総会終了まで、日産案件は棚上げと云う。

さすがは、三菱商事の出身である。

 

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公差ゼロで・・・・

日産の設計のいい加減さ

35GTRの設計時


馬鹿な担当者がミッションのパーツを製造することを要請に行った会社の担当者にいきなり


「公差ゼロで」お願いします・・・・


これを聞いて。
目があんぐり・・・
イケイケの腫さの設計していた35GTRダカラかどうか知らないが・・・
「公差ゼロ」を、連呼したらしい。


「気温、湿度、温度何度で・・・・という条件は?」


「いや、公差ゼロで・・・・」


設計ですよ・・いちおう、GTRの・・・


そこで部品メーカの人が、切々と説明したそうな・・・・


相当頭が悪いというか・・・バカだったみたいで大変だったみたいです

おまけに、ねじのトルク計算表がないそうな・・・


基本は、前と同じぐらい・・


ここ注目ですが、「同じ」まではよい、そのあとに「ぐらい」・・・・


新規は、ひずみ計をつけてわざわざ計測・・・・


日産のエンジンが余裕を持たせたエンジンの意味がなんとなく分かった


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さようなら・・・

私の車人生は、平成とともに始まりました。

で、今日はちゃんと、MTカローラ・・我が家の17台目であるで、トヨタ博物館へ

今日は・・・すいてるかなぁ・・・で行くと9時半で第一駐車場満杯。

11時に図書館から眺めると、第二もいっぱい

12時15分に来たお友達は、第四駐車場へ・・・

いつもなら2時半過ぎにはガラガラのレストランが・・・30分待ち・・・

メニューも、ほとんど残っていない状態・・・・すうげえぇなぁ

である

聞けば、9時半に本館前から新館迄長蛇の列であったとのこと

図書館で資料を漁っていたが・・・子供がうるさくて断念・・・

御友人と、12時20分ぐらいから16時まで談笑

今朝疲れていたので、今日は、模型は作れんなぁと思ったので、TAMへ

瓦斯電関係の資料を見つけて喜んでみてました。

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で、帰宅し爆睡・・起きたら20時・・・・平成最後の日に‥何をしてるんだか?

 

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つまらんと思う事・・漫画など

所謂青年誌(成年ではない、笑)といわれる漫画を定期的に読んでいる

わざわざ、オンラインではなくて紙媒体の奴をである。

ちまちまと、スマホの画面で読む気はないというか・・小さすぎて見えん・・・(なごやべん)というのが正直なところである。

ここ最近、なんだかおもしろくない漫画が増えた・・・爺さんだから仕方がないのかもしれない。

単に、若い衆が喧嘩する漫画・・・

野球・・・高校野球・・・

ゴルフ

真実ぽく見せるために嘘くさい設定がある

ビットコインで儲けました・・・・

ビットコインで、儲けいるようなタイプの人間には見えない絵柄・・

エロ過ぎて・・・車内で読めない・・・ヤング何とかはひどい・・・

正々堂々と、成年漫画(18禁のやつね)を読む兄ちゃんもすごいと思うが・・・

ちょっと、エロ場面があると困る。

航空母艦のマンガがあり、中国と開戦するのであるが・・・最近読む気がしない。

出てくる人物の全部、顔で性格を表す。

なぜが、西郷隆盛風、熱血系、うりざね顔で、無表情・・・

複数の高級幹部クラスの自衛隊の友人に聞いたら、

「あれねー、ひどいよね。」

「あんな風には戦争はしないだろうし、F35Bで艦隊攻撃・・・・ちょっと無理じゃない?」

「なんで35Bしか使わない設定なんだろうね」である。

だって、ばかみたいだもの。

映画はもっとひどくて、相手は、不明・・・・

映画は多分最低である。

雑誌として盛り上げたいんだろうけど見る気もしない。

沈黙の艦隊という漫画があったが、これも滑稽無トウである。

沈黙の艦隊の売れた状態を思い出して「夢よ、もう一度」なんだと思うが・・

馬鹿みたいに若くて、冷静指揮官、平和を愛する姿勢、相手の気持ちを思いやり、忖度して戦争する・・・・

沈黙の艦隊は、情報が少ない時代のマンガである。

「気分はもう〇〇」のリバイバルが載った

友人の紹介で気が付いて、30年ぶりぐらいにア〇ションを買ったが・・・・

漫画家さんは、漫画映画つくる間に画力が落ちた…と云うか平行移動しただけだという事に気が付いてほしかったねぇ。

30年前から進歩がない・・・意味不明・・・

原作も・・・・進歩がない、発想が学生運動・・・もう少し考えろよと・・・。

NAVIに連載していた「スズキさんの・・・」は、第一次学生運動世代には受けた。

展開が軽快で読みやすかった・・・が中身は、権威を持っている人間が、権威に対抗しているすがたが痛かった。

また、NAVIも、投稿欄にその手の話が載るようになって、偏向している感じがしたのと、鈴木編集長が、エンジンに引き抜かれてぐずぐずになった…その後、休刊だか、廃刊になった。

最初面白い雑誌だった、途中で、編集者と記者が前に出てきてつまらなくなった。

あんたの感覚を聞きたいわけではないとおもった。

間違いだ‥を書いた杉江君をほめる人が多いんだが、糖尿で、デブで、心臓病のおっさんがいう良い車ってなんだよと。

ついでに言うのなら、杉江君は、トヨタを嫌っていたけれど、レーサーをクビになったうらみがあったあったようですねぇ。

杉江君の書く、インプレッションは、読んでてどうなんだと思ったのは、事実である。

スバルはいい車をつくっているとほめていたが、トヨタはけなす

トヨタは70点主義という事名を流布した罪は重い

長谷川主査が、出来栄えは?と聞かれて

70点ぐらいと答えたというが

長谷川主査の思う完ぺきな車から見たら70点ぐらい述べたと言っている。

70点主義という言葉を批判に使いところが薄っぺらである。

その当時のスバルが、最高級の車をつくっていたとは思えないのにである。

閑話休題

漫画の原作も、同じ話の焼き直し・・・感が強い。

最近、漫画が原作のテレビドラマが多いらしい。

漫画連載中に・・・テレビドラマ化・・・なんだかなぁと思う。

大抵出てくるのは

型破りな、一癖も二癖もありそうな主人公、たいていは、ゴーイングマイウエー(我が道を行く)

で学会の重鎮・・・・(このあたりで出てくるのが、最高峰の人の養護がある・・・ありえねー…と思うのだが)

型破りなキャリア公務員(地方警察、警察庁、厚生省、経産省・・・)

よく判らない支援者、

よく判らない関係の金持ち

関係の不明な取り巻き

弁護士のドラマが多いようであるが・・・これも、こんなイソ弁が居たら大変だろうな…という事を聞いたことがある。

また、弁護士事務所内のよくわからん奴が出入りしている・・・

事務所の親分は、寛容、自己保身が強い癖に寛容

ある弁護士事務所(実話)で、弁護士事務所に、弁護士の奥さんが旧姓で働いていた。

素晴らしいぐらいの「やきもち」で、自分の夫である弁護士が少しでも気に入った子ができると・・・いじめて追い出してしまう。

ここでは、数名の女性が、追い出されたらしい。

女性の定着はひじょに悪い。

有名な先生なのだが。

その旧姓で働いている奥さんは、がっばって美人という人である(化粧は上手、スレンダーである。)

そこのイソ弁は、基本、破産事件しか受けない・・破産管財人で儲ける・・・

イソだから・・・自分の給料分×3倍ぐらい稼がないといけない・・・

確実にもうかるのは・・破産管財人・・・だから硬軟取り混ぜた破産事件の管財人を受ける・・・

郡部の破産管財人・・・というか、法科大学卒業の弁護士はものすごく能力が低い

詐害行為案件の可能性を示唆しても・・・スルーである。

裁判所は何にも云わないから・・・スルーである。

法科大学卒の弁護士は、程度の悪い人が多い気がする・・・

程度の悪い弁護士をドラマにはできんだろうと、言うと、

「いやー、脚本家の劣化も激しいから一般受けするのしかないよねという。」

漫画も、編集者に言われたことを書いてるのがアリアリと思う事もある。

うーん

何か面白い漫画が読みたい。

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岡本工業製航空機ホイール

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某所の航空機用(天山?)のホイール刻印に昭和19年岡本工業株式会社と記載があった。

現物を見たことはなかったので少々うれしい。

岡本工業は、もう忘れ去られて自転車メーカーである

戦前、丸石と人気を二分したメーカーである。

 

この会社は、明治時代に、岡本兄弟商店を設立して自転車を製造していた。
 この時の自転車が、ノーリツ號である
1919(大正8)年1月22日 株式会社岡本自転車自動車製作所設立
(1919(大正8)年1月26日登記・岡本兄弟商店の 改組織
【目的】
1.自転車、自動自転車、自動車の製造販売及同付属品の製造販売
1.兵器の製造並びに飛行機の付属品の製造販売
1.自転車、自動車付属品及び原料の取次販売
改組織前の目的は、「自転車の製造販売」のみ。

資本金は50万円(1919(大正8)年4月 1日資本増加決議、100万円に増資)8)。

(合資会社岡本兄弟商店、株式会社岡本自転車製作所 登記簿謄本)

岡本自転車自動車製作所は、組織改編とともに、自動車の生産をもくろみ社名に加えた。併せて、自動車産業への足掛かりとして、利益を度外視して航空機用車輪の製造を開始。

大正8年当時陸軍航空部に、6000個の部品を納入。

(自転車万歳(ノーリツ80年の歩み)1974(昭和49)年岡戸武平 中部経済新聞社 64頁)

しかし、現実的には、自動車の製造は行っていなかった。

同社の広告には、自転車と自動車(車種不明)の絵は載っていた。

実際に自動車関係の事業を行うのは、中京工業化(通称、中京デトロイト化構想、計画)で、アツタ号のパーツの一部を生産したことに始まる。

1920(大正9)年

 岡本自転車自動車製作所

 日本最初の飛行機用車輪を完成、同年陸軍省指定工場の名を受け、「モ」式軍用飛行機車輪を生産する。

((自転車万歳(ノーリツ80年の歩み)1974(昭和49)年岡戸武平 中部経済新聞社 ノーリツ号小史 沿革及び推移5頁)

1926(大正15)年725

岡本自転車自動車製作所は、関連会社を設立

「株式会社 名古屋自動車工業所」

目的 自動車、自動自転車(オートバイ)製作売買及び修理、自動車の賃貸 

 (出典 同社商業登記簿) 

1933(昭和8)年中

 1 岡本自転車自動車製作所の製作したパーツを使用した、国産大型車アツタ号の生産開始、3月末完成

   1号(フェートン力軍テスト用)、2号車(日本車輛使用の社用車)完成

 1 岡本自転車自動車製作所、側車付自動二輪車とオートバイの製造を開始

   一般向けは「ノーリツ」号、軍用は「95式側車付自動二輪車乙」の名称で販売。

  (「名古屋工業の現勢」名古屋商工会議所 発行 1936(昭和11)年5月 64頁)

 2 「95式側車付自動二輪車乙」の発注時期は、不明、昭和初頭に陸軍の命令で始まったのではないかといわれる。

 (論文「日本内燃機”くろがね“軍用車両史95式”側車付“と”四起“の技術と歴史背景」 2004(平成16)年 坂上茂樹 第10237頁)

1934(昭和9)年

  側車付自動二輪車(サイドカー)完成し、陸軍省へ納入

  自転車万歳ノーリツ88年の歩み 岡戸武平 1974(昭和49)年刊行  

1936(昭和11)

  ダイハツ、くろがね、陸王各社と競合小型乗用車(指揮官用乗用車:岡本号)を完成、陸軍へ納入

1937(昭和12)

  岡本航空機工業株式会社を設立

  名古屋市南区笠寺に12万坪の工場設立

1941(昭和16)年

  岡本工業株式会社、岡本航空機工業株式会社を合併 

  航空機の脚柱、及び車輪の最大メーカーととなった。

  国内7か所に工場を拡充、3万人余の人を要した軍需工場として稼働

  なお岐阜県の垂井町の工場のみ国内唯一の自転車専用の軍需工場として自転車の生産を継続した。

1945(昭和20)年8月

  敗戦、生産中止

  7工場のうち、本社、笠寺、樽井工場を除いて戦時賠償指定工場として閉鎖

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