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漱石 夏目金之助 「こころ」 考察2

「作品の構成」

 

「こころ」の三部の短編の構成は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」である

 

 

「先生と私」「両親と私」の視点は、主人公の私の目である。

 

 

しかし、「先生と遺書」には、主人公であった筈の私は出てこない。

 

 

遺書だと言いつつも、先生の告白の体(てい)であるである。

 

 

懺悔とも、告解とも取れない、救いを求めている節(ふし)がない。

 

 

「こころ」は、この先生の遺書で終わるのである。

 

 

主人公の気持ち、行動が現れるのは、第2部の「両親と私」までである。

 

しかも、感情の発露はない。

 

主人公の私が、遺書を受け取り三等客車の汽車に乗ったとある。

 

先生の遺書を受け取り、すべてを投げ捨てて「先生のもとに駆け付ける」という行動の発露は、強い意志を感じるが、止めに行きたいのか、事後の面倒を見に行きたいのか、それはわからない。

 

もうよくもって、23日の親の危篤を見捨ててまで行くようなことか?という気がする。

 

このことで、主人公の「私」と家族の関係は悪くなることは明白である。

 

手紙を書いて、車夫に渡して、家に持っていってもらうようにした、とある。

 

この時代、家父である父親の臨終の待たずに、よくわからない「先生」のために東京へ帰る心持は、誰にも理解されないであろうことは理解されるべきである。

 

東京へ戻る(帰るのではない。)理由としては希薄である。

 

しかし、先生への関心というよりも、先生の奥さんへの関心と、先生の死の後始末をすることを目的として、戻ると考えるのは至当ではないかと思う。

 

 

 

本来的には、「先生と遺書」の後に、先生は自殺して、残された「奥さん」に何か書くべきであったと思うが、記載はなく、何とも尻切れトンボ感がある。

 

 

 

若い頃に読んだときに、この話の結末には何か納得ができない感じがした。

 

 

 

「いわゆるこれで終わり?」という感じである。

 

 

 

「両親と私」の最後の本文は以下の通りである。

 

 

 

「私は停車場の壁へ紙片(かみきれ)を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。

 

 

 

 手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅(うち)へ届けるように車夫(しゃふ)に頼んだ。

 

 

 そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂(たもと)から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。」

この文で、「両親と私」は終わったのである。

 

 

「先生と私」

 

「先生と私」には、鎌倉での先生との出会、なぜ、「先生」の本宅へ伺う気になったのかが事と細やかに書かれている。

 

 

最初の訪問で、先生は不在、その外出先を「美しい奥さん」に教えてもらう。

 

そうして、先生とは墓地の近くで逢うことができた。

 

しかし、「先生」に近づいて、だしぬけに「先生」と声を掛けると

 

 

文中はでは、以下の様に「先生」異様な反応をする。

 

 

先生は、突然立ち留まって私の顔を見た。

 

 「どうして……、どうして……」

 

先生は同じ言葉を二編(にへん)繰り返した。その言葉は森閑(しんかん)とした昼の中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応えられなくなった。

 

「私の後をつけて来たのですか。どうして……」先生の態度はむしろ落ち付いていた。

 

 声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。

 

私は、私がどうしてここへ来たかを先生に話した。

 

 「誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名をいいましたか」

 

 「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」

 

 「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」

 

その時の先生の表情は、後に語られる。

 

「落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。

 

私が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは雑司が谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。」

 

眉間に暗い曇りを見せた理由は、他者への、秘密の暴露を恐れてれているような風であろう。

そうして墓地中を歩きながら私は、「先生」に、

 

「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。

 

「いいえ」

 

「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」

 

「いいえ」

先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町(いっちょ)ほど歩いた後で、先生が不意にそこへ戻って来た。

 

 「あすこには私の友達の墓があるんです」

 

「お友達のお墓へ毎月(まいげつ)お参りをなさるんですか」

 

「そうです」

 

先生はその日これ以外を語らなかった。

 

ここで、「私」は、先生の友人「K」(この時点では、名前を知らない)と邂逅したのである。

 

そうして、先生の宅に、足しげく通うになった。

しかし、「先生」の「私」への態度には親近感が増すとった感じの付き合いには発展しなかった。

 

ある時、私は、先生に、雑司が谷の墓地にあった銀杏の木を見るために、墓参のついでで、「銀杏の木を見る」散歩を追加しましょうと訴えたが、「先生」、散歩を追加することを拒絶する。

 

その拒絶は、日本の巡礼とでもいうべき伊勢参り、高野詣でがその実、観光旅行に過ぎなかったこを批判しているようにも聞こえる。

 

神聖な贖罪のための墓参には、「遊び」を加えてはならないという姿勢が明確である。

 

だいたい、「先生の奥さん:元下宿のお嬢さん」は墓参には付き合いわない。

 

この点に於いても、「奥さん:元下宿のお嬢さん」には、罪悪感はないし、かつ、「K」への贖罪の感情もないということになる。

 

 つづく

20161229

20161230 加筆 訂正

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