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そう云えば、30万回の閲覧ありがとうございます。

先月、30万回の閲覧が達成されてました。

病気で、書くの忘れていました。

10数年で、ここまで見ていただき(読んでいただきだろうと・・・)ありがとうございます。

書き始めたときから、読んでくださっている方々、検索で読みに来るようになった方々に、わざわざ読んでくださってありがとうございますと・・・

多少の情報提供になっている点は、

「役に立っているのかなぁ?」

という気もします。

会社の元上司は、私の事を、

「ドライである」と云ってのけた。

「アメリカ大好きだろうと?」ともいった。

公正にやるべきことは、やればいいと思う。

CG CLUB中部支部は、一度なくなった支部である。

そこを再結成したのは、私の意志である。

そうして、なるべく広く意見を聞き、独善的、独裁的にならない様に運営をしている。

頭を下げるべき処には頭は下げる。

ゴマをするわけではないが、良い関係を継続できるように努力をしている。

非常に少ない仲間内で、決めた事を押し付けるという事はしていない。

イベント後には、必ず、反省会を開いて失敗した点、改善点を常に吸い上げるようにしている。

これは、来てもらった人に楽しんでもらえる、ボランティアのスタッフも楽しめる構造を考えていく上で重要だと考えているからです。

不正はしたくないし、情実的な事もしたくはない。

そういった観点でものを見ている。

役人的な発想かもしれないが、一部の人間だけが得をするよなことをしているのは、不公正にしか見えない。

すべて、公平にできるわけではないが、少なくとも、機会は公平にしてもらいたいと思うのである。

また、書くことでたらたらと書いていることでも、意外と一次資料に当たって書いていることが多いことをお断りしておきたい。

二次三次資料を重視しないわけではないが、廿年も卅年もたった時点での思い出話てな話は、参考に値しないと考えている。

以前図面の話が出たことが有る。

図面の日付は重要である。

しかし、第何次図面のなのかがわからなければ、「その時点でその図面があったんだね。」という事実と、書き始めは何時なんだろうという想定しかできない。

当時の人は判ったかもしれないが現在から見ると、どの図面が、初期稿か、最終稿かわからない場合もある。

表面いでている図面がすべてではない。

また、その車が現役時代に書かれていた技術雑誌、技術会のレポートは参考になる場合が多い。

しかし、後年、誰かの引き写しの、引き写しの引き写しの記事は、参考にならない。

丁度、民話の原話を探すような話である。

当時の残された資料を複数読むことで判ることも沢山ある。

現在、「デンソー号(日本電装が、昭和25年に、50台販売した電気自動車)」の事を調べている。

日本電装 15・25.35.50年史を読んだ。

トヨタ自動車 20,.30..50.75年史も読んだ。

荒川車体 25年史、トヨタ車体20年史

戦前の代用燃料車輛関係の書籍を読みあさっている。

戦前の電気自動車の解説書まで読んでいる。

(少々、お疲れではあるが、いずれは、所属する学会の発表をしたいと思っているので頑張っている。)

それだけの量の本を読んでも、工業新聞系は読んでいなのと、三河版の新聞を読まなければならないと考えている。

適当なことを書いている訳ではない。

 

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泥棒について

先般、ある車の復元で、パーツをお持ちではないですかというお話が有ったようである。

しかしながら、パーツがなくて困ってる連中の集まった会にはパーツはないだろう。

その車、パーツは一応ついていたそうである。

おまけに、色んな部品もなかったし、使いものにならなくて困ったそうである。

結局、ある専門店さんに頼んで融通してもらったそうである。

車を直そうにもパーツがなくて大変だという事である。

ある会社、というか、トヨタから生産を委託されていた会社の社員の事である。

表面上は、その会社には、その古い車のパーツは残っていないことになっている。

しかし、生産していた関係上、倉庫の某所には新品のパーツが残っていた。

古い車に乗っているという事で、古参の社員から管理を任されているとも言っていた。

管理の意味は、在庫を売りとばして、個人の小遣い稼ぎをしていいと云う訳ではない。

ちなみのそのパーツは、昭和50年代から誰も管理していない。

台帳にはすでに載っていない。

不良在庫で、破棄扱いになっていた。

財務上は、在庫にカウントしないという事は、破棄した云うことになる。

某社員は、誰も管理していないことをいいことにパーツを盗んで、兄弟の古本屋経由でヤフオクで故買していた。

盗む方法は、ポケットに入れて持ち帰るのである。

基本は、ポケットに入るパーツに限定とか言っていた。

ある自動車のイベントで店を開いていた時に、本人から聞いた。

ひでえ話というか、とんでもない話である。

一時期、自身の中古部品を売るとともに、その古本屋がパーツの故買を手伝っていた。

当時、本当に、レアなパーツが出ていて、何個も買ったが、盗品と知ってからは買うのを止めたし、そのパーツは装着していない。

今でも時々こんなものがあったと見せることもあるぐらいだから、いまだに手癖の悪さは残っている様である。

ある車を直すときに余分に作ると、そいつが盗んで、販売する可能性があった。

専門店でも、ある車もパーツがなくて修理が思うように任せないそうである。

ヤフオクで出てきたのを買ってはそろえて、という事らしい。

こんな状態になって、若い人に乗ってもらいたいと云うのは、無理な話であろう。

上代で、250万円までの金額なら何とか若者でも買えるかもしれない。

300万円を超えて時点で、若い人が趣味で買いたいという車ではなくなるような気がするのですが?

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大変な一年が過ぎました

平成29年も暮れていきます。

前半は、仕事もお気楽でした。

上司が、元同勤者でしたので気心が知れていました。

途中で転勤、田舎へ

通勤時間は、朝90分(バスの時間と、直通電車になるための時間調整的な面が大きい)、帰りが70分(接続がいいのでね。)

仕事は、複数の前任者の懈怠分を取り戻そうと奮励努力・・・

通常の倍くらいの勢いで仕事してました。

おかげで、ストレスと過労でぶっ倒れて・・・入院

約一か月たってようやく通常に復した感じである。

時々くらくらするので、睡眠をやたらとる体制になった。

9月ぐらいから、学会の資料集めと、論文作成のためのために休日の大半を消費

図書館通いを続いた。

図書館へ行く前に、というか、早朝起きてツーリングの下見をして、帰宅、寝る、起きる図書館へ行く、トヨタ博物館へ行くという生活を継続するうちに、疲労は蓄積・・・

おまけに、クレーマのばあさんに絡まれて大変なことに。

そのババアの所為で、私以外に、もう一人、軽い卒中になった人もあった。

母体の団体は、トラブルに巻き込まれたくない一心で逃げの一手であった。

それは仕方がないと思う。

慣れてないからね。

ストレスがたまる一方で、下見に行く時に友人のLEXUS LC(ハイブリッド版)に数回載せてもらった事は幸運であった。

非常にいい車だと思った。

久々に、欲しいなぁと思ったが、価格的には基本的にはムリである。

でも、あまり大さんを感じさせない運動性は良かった。

これは古い友人に感謝したい。

模型は、相も変わらず買う量にたいして作るスピードは遅い

100個以上買って、作ったは10個程度である。

在庫は膨れ上がっているが、実は気にしていない。

買ったかどうか覚えていないという、老化現象の始まりが怖い。

だが、探すよりも買った方が早い気もするのである。

模型を買うという行為は、ストレスの発散になる。

脳内で、こうして作ろうかとかいろいろと考えるのだが、手は進まない。

1/32雷電2機と、ゼロ戦2機完成するのかしら。

トヨタスポーツについていえば、乗るのは、トヨタ博物館へ行くときと、ツーリングぐらいしかのらない状況が続いている。

年間1000キロ超えることがなくなった。

パーツもチマチマと買うのであるが、リプロのパーツを買っても、箱も開けていない状況が続いている。

ウエザーは、13万円とのことで、まだ買っていない。

ただ、オリジナルを、使ってしまおうかという気もする。

来年は、ユルユルと行こうと?

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欠点豆

生のコーヒー豆から、ローストする前に、生豆を選らなければならない。

選る理由は、出来損ないの「欠点豆」を取り除くといいう目的である。

未成熟なもの、虫食い、発酵して黒ずんでいるもの、かけて居るもの、なんかいろいろあるらしい。

時々、同じ大きさの石なんかもある。

(以前、小豆の選別工場を見学したことがある。

小豆バーの製造工場へ納品をしている会社だった。

小豆バーに小石が入っていたら大変だから、入念に検査するそうである。

そうして、納品先でも再度、検査をするそうである。

熱い夏は、出荷量が半端ではないので大変ですと語ってた。

選別装置も完全機械化なのだが、昔の脱穀機を流用したりしてなかなか壮観であった。)

取り除く理由は、コーヒーをに含まれてしまうかもしれない「まずい成分」の除去することである。

友人某が、黙々と生豆を選る際に、

「欠点豆だって、欠点豆になりたかった訳ではなかろうに。」とぽつりと言った。

「欠点豆はどうするのか?か」と聞くと

「基本は捨てるんだが、もったいないと思って、一度、欠点豆だけでローストしたら、まあ、まずくて飲めなかった。」

「同じ木になって、どうしてこうも違うんだろい」

そりゃあと、いろいろと天候だとか、花、葉の位置だとか話をしたら、

「結局、運ということか?」

そうだと、相槌を打つと

「運が悪いのは何ともならないなぁ」

何でだ?と聞くと

「不幸は、自分で種をまくことが多いじゃないか。

 運は、風向きみたいなもんで、時任せだろう。」

彼は、自分の順風そうに見える人生について、

「途中でよく歯車が違うとうことが有るけれど、なんか痛感しているよ。

もしかしたら、彼女(彼の自殺した奥さん)と出会ったもの運命の出会いなんて思ってたが、考えれば、あれが不幸の始まりだった。」

そうしてそう思うと聞き糾すと

「だって、それはよく知ってるだろう。

 出会って、結婚して、子どもが出来て、自宅を作らなければ、子どもの事故死、妻の発狂、妻の自殺はなかっただろう。」

まあそう考えれば、そうだが、幸せだった時期もあったんだろうにと云うと

「今から考えると、付き合うときに少し迷ったんだよ。

 親戚の人から、あの人は、人を不幸にする相だって。」

でも自分的にはいい人だったんだろう?と聞くと

「まあ、平穏無事なころは、

 発狂した後は、別の何かが、人ではない内にかが、家の隅に居る様な感覚だった。」

私は、「元気そうだったけどなぁ」

と答えると

「元気を出してなんていわれて、元気が出るならだれも困らないわよ、と言って激怒してたんだよ。

怒った後は、如何して、私に触れもしないのと云っては泣くんだよ。

ほとほと参った。」

「変なことを言って、済まなかった」

「謝るようなことではない。

 誰もが掛けてくる言葉をすべて否定していた。

子どもが死んで意気消沈しても、生きてる人の方をもう少し見て欲しかったとは思ったので、その手の言葉を掛けたが、その言葉は届かなかった」

そうして、欠点豆を選び終わると。

半紙に乗せた欠点豆を、ごみ箱に捨てた。

 

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臭いひと

昨日、図書館へ行くために電車に乗った。

結構すいてはいた。

時間帯、時期的なものもあるんだろうが、老人が多い。

白い清潔そうな爺さんと、妙齢の女性の間が空いていたので、そこに座った。

すると、このジイサンがきょーれつに臭かった。

加齢臭どころではなくて、何となく腐敗臭に似たような嘔吐を、もよおす匂いだった。

丁度、ルンペン(乞食ね、乞食、家なき人などとは言わない)の様な強烈な臭気だった。

そこで、仕方なく、鼻をつまんで本を読んで気を紛らわした。

となりの姉ちゃんは、香水臭い・・・・

加減を知らないらしい。

加齢臭は、刺激臭である。

大体、顔が接近しなければ匂わない。

しかし、この時の匂いは、服は外見はきれいだが、汗がしみこんで発酵した様な匂いである。

若い兄ちゃんの汗臭さも、加齢臭もある意味仕方がないと思っている。

年齢だからである。

自分としては、若いころからその辺りは非常に気にしていた。

おかげで、香水(パヒューム)には詳しくなった。

今でも、パコラバンヌ、シャネルの製品は愛用している。

ほんの少しつけるだけでよいのである。

過剰につけることは、単なる刺激臭になるだけである。

で、隣の妙齢の女性が降りたので、席をずらしたら匂わなくなった.

多分であるが、以前、着用時に汗をかいてそのまま放置して、年数がたち汗が発酵して、カビて、こういったに置いを発したのではないかと思うのだが?

時々、口臭のひどい人が居る。

大体、歯がキタナイ、茶色のはもうダメである。

独り者に多いし、あまり人と接しない人に多いようである。

鼻が利くのもよし悪しだなぁと思うことが有る。

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生豆のコーヒーの事など。

先日、生のコーヒー豆を貰った

炒ってないから緑色である

生豆というのだろう。

この生豆、マチュピチュ産だそうで・・・おすそ分けでいただいた。

いきなり「ロースター持っている?」と聞かれた

「ロースター?、焙煎機??そんなものないよ」と答えると

「じゃあ焙烙は?」

「焙烙なら、戦前のが有るけど・・・土器ぽい小さいのがあるよ」

一間あってから

「ならできるかな?」

「なにが?」と聞いてみた

「うーんとねぇ、生豆が有るんだけどいらない?」

「どこの?」

「ペルー、マチュピチュの遺跡の近くで取れる豆だそうな」

「うまいのか?」

「何となくパンチはないね。」

「酸味弱いの?」

「弱いね」

「苦味は」

「薄いね」

「甘いとか・・」

「甘味は、あるかなぁ」

「で、パンチには欠けると・・・」

「うん、10キロもあるんでね」

「なんで?」

「まぁ、色いろと訳があって・・」

「間違えて注文したとか?」

「まぁ・・・もらってもらえると嬉しい」

「何グラム?」

「1キロぐらい」

「生豆でしょ?いらないよ」

「あげるよ・・・・買ってくれると嬉しいけど」

「えー、いらないよ。ちなみにいくら?」

「1000円ぐらいかなぁ」

で、1000円で1キロ買う羽目になった・・・

大体、ペルーの珈琲て飲んだことがないのだが・・・

そうして、ロースーター(生豆の焙煎する道具)と豆が届いた

焙煎する道具を見たら、昔の事を思い出した。

東京の別の友人を訪ねた後で、友人某の家に訪問を要請されて訪れたことが有ることを思いだした。

その友人は、その頃、もう少し精神が壊れかけていたころだった。

口癖は、「コーヒーを飲みに来ないか?」であった。

訪れると殺風景な部屋のテーブルの上に生豆が並んでいて、彼は選別をしていた。

何百個とある豆をつまんでは、眺めて、良い豆、悪い豆に選んでいた。

厳しく選べば、悪い豆は全体の1割から2割ぐらいだと云った。

「きれいな形をしていないとダメだと」云った。

眼は虚ろで、部屋が殺風景なだけに、

「なんとなく大丈夫か?」という気がした。

「もしかして、生豆から造るのか?」と聞くと

「ああ、少し話もしたいので作業しながらでもいいかと」云う。

「帰りの電車の時間があるから」と答えると

「駅まで送るから良いだろう」と答えた

豆をよりながら

「独りになると、寂しいものだなぁ」と豆を見ながら言った。

「会社の寮に居ると、結構、にぎやかで気がまぎれたけれども、こうして帰郷して一人で暮らしだすとさみしいものだなぁ。

寒いほど一人だという感じがする。」

豆を選び終わると、銀杏を焼く道具を出してきて

「これで焙煎するだ。」

ベランダで、コーヒー豆を炒りながら

思い出話を聞いて、豆のロースとが済むと荒熱を取リ、冷やして、豆を手で挽いた。

ネルのフィルターでコーヒー淹れてくれて、テーブルに座ると次々と

「誰が悪いかったんだろう」

「運が悪かったのか、運て、なんだろう」

「やはり結婚が間違いだったのか」

「死んだうちの子に怖い思いをさせて死なせたのは、業だろうか?」

と、哲学論争の様な問いかけをし、彼は吐き出す様に一方的に話をした。

コーヒーを飲んだが、いい香りがしたことを覚えているだけだった。

その時の手間のかかったことと、

「暇つぶしにはいいわなぁ」と云いながらと寂しそうな顔をして、別れ際に、泣いたような顔で笑った友人の顔を思いだした。

彼は、その後、会社では辞めるまで、仮面をかぶっていた。

快活な顔をかぶり

いい人を演じて

怒りを面にださず。

好意を無視して過ごした。

最後の電話では、「疲れたよ」云った。

その時「また、コーヒ飲ませてくれ」というと

「ああ、いつでもいいよ。

 親の介護が忙しいんで、生豆からは作ってないけどな」

そういったが、その後、一度も彼のコーヒーを飲むことは無かった。

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笑いというか、どーなんだと思う

ある時、メールが来た。

初め、ある会社主催のイベントへのお誘いの様なものが来た。

このイベントのお誘いは、以前、某氏の紹介で一度呼ばれたことが有る。

参加す売る気でいたが、その時は、家人が入院したので、いけなかった。

その旨を伝えると嫌味たらしいことを言われた。

ので、それ以降お誘いはない。

大体、その時だって、某氏の代役の様な形であり、その人の顔お立てるために呼んだという構図だった。

進言がが無ければ絶対に呼ばなかかったであろうことは判る。

以前、このイベントへの参加者の選任は、オーナーズクラブが某会社から要請を受けていた。

今は、元社員が仕切っている。

末尾にこんなことが書いてあった。

既に、お誘いのメールを受信されている場合には、返信されなくて結構です。」

これは、登録者全員へのメールだと判ります。

つまりは、事前に、お誘いメールを送っている人が何人かいるという事です。

ここで、疑問に思ったことは参加台数が決まっていると書いてありながら、何台参加可能か書いてない。

すでに決まっている参加者の台数も書いてない。

裏読みができない体制をつくっている。

参加者の多くの顔触れは何時もほとんど同じだと仄聞したことがある。

ちなみに、社員のFは、何回も参加でしている。

ちなみにこの社員「なかなか出られないから」と云いつつ何回も出てる。

遠慮という言葉はないらしい。

元社員には、参加したい人が居るのなら前回参加した人はご遠慮願うとかいう配慮はない。

常に、忠実な仲間を優先する。

受信者を区別していることがよくわかるメールです(w)

ダブルスタンダートの好きな人だから仕方がないかな?

書けばいいと思う。

「私のやることに反抗的な態度の人間は呼びません」とね

私が、書いているブログを見て一喜一憂しているのだろうか(w)

20171223

20171224

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入院後の事など

入院するのは嫌なもので、点滴、薬の点滴目をつむってひたすら寝る。

食べられないので、ほぼ3日間絶食。

脱水症状を起こすので、点滴で水分は補給

でもその所為で、トイレは近い・・・

3日目の朝の回診で、「若干症状は出てますが、収束方向ですから、まぁ帰ってもいいでしょう」と言われて退院

退院後1週間は家で休養。

2日ほどはひたすら寝て、と言いつつ、家の中では歩いてみたりもした。

そうして、少し歩いて感覚を戻すことを主眼にしました。

近所の車の来ない、廃道のような処をセッセと歩いたりしてましたが、ふらつくので休み休み歩いていました。

ふと、ここで倒れると誰も助けにくれないことに気が付いて・・・普通の道を歩くことに。

感覚が戻ったので、自転車も試しで乗ると、ちょっとふらふら・・・危ないので

押しながら歩いて練習

歩くこと以外はOKだったので、PCで、ブログなんかを書くのは比較的簡単であった。

平衡感覚がずれてしまったので、それを復元するのに、脳みそがそのずれを調整しているのだろうか、歩くたびに、前頭葉部分に非常な疲労を感じたりした。

ちょっと面白かったのは、倒れたときにの体の故障があって、一部に炎症があった。

左手がばね指と腱鞘炎である。右手も少し腱鞘炎である。

立ち上がれなくなり、公園の芝生の上に倒れ込んでいると、体温がどんどん下がるのがよくわかった。

地面の冷たさもあるのだが、とにかく、体温は下がり続けた。

すると、腱鞘炎になっている部分と今回の病気の原因となった耳の付近だっけ異様に熱を持っていることが実感できた。

両手首と耳の付近だけ熱を持った感じがしていた。

炎症と云うから、やはり、熱いんだななと実感したのは、今回の唯一の収穫であった。

とはいえ、原因は何かと云えば、過労とストレスである。

ちょっと、体力的に無理をしたかな?という気はしていたし、残業しないと間に合わないので残業もしていたが、ある時、残業をしたくない気がしたことがった。

これは体からのサインだった様である。

注意しないといけない。

ツーリングから帰っても十分休養を取らなかった。

十分反省しなければならないとおもった。

で、発病から1か月ほど経過したのであるが、大体、旧に復した感はある。

ここ3週間は、以前の半分ほどの仕事量に減らしている。

特に文句は言われていない。

というか、無理をしないで!

と言われ続けている。

あんまり頑張っても、何んの反映もないのに頑張ることもないなと・・・

ここへ来て痛感している。

まったりとユルユルト生きよう。

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みっともない元市長

最高裁で、有罪が確定して失職することが決まった市長(被告)は、失職する前に辞職を表明した。

ただこれも異議申し立てをして、失職する前に、辞職をした。

この一連の行為には、整合性を感じない。

異議申し立てをするのであれば、退職せずに待つべきであろう。

それは、自分の無罪を自分で信じていれば待つべきである。

しかし、退職した。

今までの被告になってからの一連の行動には、パフォーマンスしか感じない。

この市は、失職の場合と辞職の場合だと退職金の規定がどうなのか知りたい。

被告になった原因は、業者からの金銭の授受が原因である。

市議会時代の30万円もらったという事で、受託収賄で有罪。

かいつまんで言えば、市議会議員に当選した後、

「震災時のために太陽光発電が可能な浄水器を公立中学校のプールに設置する」

という業者からの提案に、強い魅力を感じ、その実現のために積極的に動いていた。

 導入に、積極的に動いた始まりが、震災の時に感じた不安を解消する為だったか、業者からの現金の授受が原因だったのは、本人にしかわからない。

 ただ、議員としては、業者のから申し出で動いた時点で基本的にはダメであろう。

 自身で、色々と調らべてから、、複数の業者に打診をしていろいろな状況を確認していたのならこんなことにはならなかかったと思う。

 間の悪いことにその業者は巨額の詐欺事件を起こし、その取り調べの途中で市長に金を渡したと証言したのである。

 そこで、詐欺罪で捕まった者の告白と、市議会時代の質問の内容、行動で、一業者への特別な便宜を図ったという点から受託収賄に問われた事件である(と思う。)。

 1審は無罪。

 2審は、逆転判決で有罪

 最高裁は、有罪に対する上告を最高裁は、 被告の受託収賄などの罪の上告を棄却

(ここで、2。審が確定する。)

弁護団(弁護団である・・)は、最高裁に異議申し立てを行う意向を示し、かつ、証言した側の社長に損害賠償請求をするとのことである。

 異議申し立てが認められなければ、高裁が被告に下した懲役1年6カ月、執行猶予3年の有罪判決が確定する。

 その場合は、被告は、自動的に失職する。

 被告は、今も一貫して無実を訴えている。

 市政を停滞させたり混乱させないため、異議申し立ての結果を待たずに辞職を選択したと語っている。

 個人的な意見ではあるが、2審で有罪になった時に、辞職、再出馬、当選をしている。

 別に辞職しなくても、任期まで続けることは何ら問題がなかった。

 いやらしい政治家がよく使う「けじめ」という事らしかったが、上告の棄却の判決が出てから市政の混乱を招くとしてまたもや辞職である。

 はっきり言えば、潔い風を見せた策士であると感じるのである。

 再選した時には、裁判所への

 「市民の信任がある市長を有罪にするのか?」

 という投げかけをしたようにしか見えない。

 市長が居なくなればそれだけ、市政は混乱するし停滞する。

 選挙になれば、選挙管理のために職員は休日に駆り出される。

 当然、代休を取らせる。

 その分、一般的な事務はその日の分は停滞する。

 前回の選挙をしたことは、単なるパフォーマンスにしか見えない。

 大体、財政が豊かでない市で、任期の途中で辞職、選挙を行う金は、はっきり云って無駄な出費ということになる。

 今回も、異議申し立てをしながら辞職をする。

 支援者は潔いよいと思っているかもしれないが、実際は、消去法での選択肢である。

 実際に、政治家の資質を見て投票するなんてことはないと思う。

 ○○党だから、組合が支援しているから、会社の指示があるから・・・何となく若いから何かやってくれそう(勝手な思い込み)で選択して云事が多いのではないだろうか?

 この場合は、若いからという点が最大の売りだった。

 確かに、この地域は、長期低落傾向の地域である。

 外国人が10%近くを占めている地域でもある

 問題は山積している。

 そこに、行政手腕は・・?な人がいきなり市長になって何ができるのだろう。

 関市、可児市、美濃加茂市の各市長は、本来地域をまとめ上げていく能力が必要であろう。

 外国人が、多くて、その生活保護受給率が高ければ、市民の不満は増すであろう。

 その対策はできるのか?

 工業誘致と云ったありきたりの手法が使えない昨今、どうしたら地域を活性化できるのか?

 そういった難問が山積している中で、整合性の無い辞職を繰り返いしている。

 これは、無責任と云うのではないかと思う。

 隣接の関市、可児市、御嵩町、加茂郡七宗町、坂祝町、富加町なぜか町が多い。

 平成の大合併で合併をしなかった地域である。

 合併しなかった個々の理由は、地域の争い、因襲に根差すものもだから、外部のものは何とも言えないが、本来、合併すべき地域だったと思う。

 岐阜県は、東濃、西濃、中濃と云われる地域に分かれる。

 郡上高山は、別の経済圏なので含めないとしても、もう少し、規模を大きくしないと市町村の運営は、金不足、人不足で立ち行かなくなるのは目に見えている。

 古い人は、直ぐに地域のしがらみを主張するが、これは単なる既得権の主張に過ぎない。

 小さな市町村は、職員数が少なく行政を十分に廻していけないところが増えている。

 また、あまりに小さい自治体であれば、近隣は合併さえしてくれない。

 負担ばかりが増える合併には反対だろう。

 災害に強い自治体と云いながら、小さな自治体ではなんともならない。

 地域全体が、地震で壊滅的な被害を受けたときを考えたらいい。

 地震が有れば、近隣の自治体は同じ様に被害を受けるだろう。

 近隣の大きな自治体は小さな自治体を助けること自体ができないし、積極的に援助を行なうことを選択しないだろう。

 市長は、災害の事だけを考えればいいのではない。

 小さな意見を取り上げるのだけが市政ではない。

 大きな視点でものを見て、かつ、小さなことにも気を配る。

 そういったことを念頭に置いていたら、自己保身的に辞職を繰り返す人は、どうも信用ができないと思う。

 

 

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デンソー号を調べつつ・・・

ここ数年、会社の社史をせっせと読んでいる

ここ2週間ほどは、日本電装15年史、25年史、35年史、デンソー50年史を読み、複写しています。

関東自動車工業15年史、30年史も読み複写・・・

チマチマと、デンソー号について調べている。

すると意外なことに、昭和15年にトヨタ自動車では、電気自動車を小数試作し生産していたことが判明した。

昭和15年に、トヨタ自動車刈谷工場(後の日本電装)で試作、翌年16年にこのEC型電気自動車を完成させた。

小数台数が生産され、宮家等に献上されたようである。

このEC型電気自動車が、後のデンソー号EA型となった。

EC型は、航続距離が短く一充電で、60キロであった。

電気自動車の研究は、戦時中も継続され、日本電装35年史には、昭和18年ころ、電気自動車の試作に従事していた人々という写真が掲載されている。

試作は、軽量化のために車体は木製上面にレザーを張ったものだった。

EC型電気自動車

あつた(アツタ)號関連で

トヨタ自動車25年史、30年史、50年史、75年史

豊田式自動織機製作所15年史

日本車輛75年史

なんかはバイブル化している。

読んでいるといろいろな発見がある。

あつた(アツタ)號関連で、昭和元年から25年ぐらいまでの社史をせっせと読んでいたら、日本特殊陶業の耐酸性容器の技術が、東陶が生産したロケット戦闘機の燃料精製用の「ロ号大甕」の生産技術に転用されていたことが判った。

ロ号大甕は、常滑市内、四日市市内には散見される。

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(常滑の森 収蔵品)

理由は、常滑は生産地、四日市は、旧海軍燃料工廠があったからである。

しかし、岐阜市内で大窯ほど大きくはない(高さ1メートルほどの甕)を2個発見した。

1個は、会社の看板、1個は民家の庭先である。

これは、民家の庭先の大甕である。

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この排出口が、常滑の森のものと同一である。


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(常滑の森の展示ジョイント)

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日本電装 EA型 電気自動車について(電気自動車 補足資料追加)

昭和25年に、日本電装は、電気自動車EA型を生産している。

日本電装の展示スペースには、復元したEA型が展示されている(らしい)。

外面図(青図)も展示されています。

Dsc_0179

(パネルは、中部産業遺産研究会の展示より)


日本電装の特別寄稿を読むとこんなことが書いてある

特別寄稿

「デンソーHV/EVの歴史のスタートは,やはり1950 年に発売したEA型電気自動車「デンソー号」に遡る (Fig. 1)

詳細は「デンソー50年史」に書かれている ので省くが,少し抜粋すると,当時は石油不足対応と して木炭車や電気自動車が開発され発売された.

「デ ンソー号」も80V鉛電池を使った直流モータ方式で, 制御は抵抗切替で設計された.

シャシーと電池以外の 動力部は全て社内で設計製造された.

社会事情から生産は1年足らずで中止となったが,約50台のデンソー 号が街中を走ったと記載されている.

(原典 デンソー技術論文誌「デンソーテクニカルレビュー」Vol. 16 2011年12月号のなかから、特別寄稿「デンソーにおけるHV/EV向け製品開発の歴史」(執筆者:デンソーEHV機器開発部 山田 好人))

(ちなみにデンソーの50年史は読んでいないのので、読まないといけないと思いつつ書いている・・・忘れそうであるから・・・あとから訂正する可能性大です。)

中部産業技術研究会のパネル展示で、デンソー号についての記事を読みました。

でそこで、ふと疑問に思ったことあります。

当時トヨタ自動車は、占領軍の指定会社で米軍の管理下にありました。

生産が許可されていたのは、輸送力を確保するためのトラック。

乗用車の生産は、小数のAE型、SA型が特別に認められていただけである。

では、日本電装はなぜ車が造れたのか?

一つは、昭和24年に日本電装はトヨタ自動車から独立した会社です。

新しい会社ですから、占領軍の指定会社ではありません。

関東自工も同じです。

それは、旧中島飛行機関係のたま自動車(後にプリンス自動車工業と合併)もおなじです。

電気自動車のは、現在の電気自動車メーカーと同じで、車体があればモーターとバッテリーでできてしまう簡易さがある。

「シャーシ、電池以外の動力部はすべて社内で設計製造された」との記載があります。

でも、トヨタ自動車でさえ乗用車のの車体の製造がままならない状態で、あった点を考えると、日本電装がどうやってボデイ、シャーシンを製造したのかという疑問がわいたのである。

それと、トヨタスポーツに関係の深い関東自動車工業社史(30年史)を読んだ記憶があり、関東自動車工業が、たま自動車には遅ればせながら、電気自動車を作っていたとうことが思いこされた。

で、読み返してみると、日本電装の要請で電気自動車を製造したという記録がある。

関東自動車工業は、このころ、トヨタ自動車の下請けのボデイメーカーであったし、オオタのボデイも製造していた。

オオタの最後の試作車も作っている。
Dsc08208

(関東自動車工業30年史 より転載)

関東自動車工業30年史には、日本電装から要請で製造した車の側面図がある。

SBボデイに、Eつまりはエレクトリニック(エンジン)を搭載した車両という事であろう。

Dsc08200

(関東自動車工業30年史 より転載)

25年1月 SEB  セダン 日本電装 
SBシャーシにSBEボデイ
10台製造 

ちなみにトヨタの「トヨペットSD」という車がある

トラックと同じシャーシを利用した乗用車である。

外観はこんん感じ。

トヨタ自動車75年史のページ↓を参照してください。

https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/vehicle_lineage/car/id60011308/index.html

関東自動車工業では、1949年9月~51年8月にSD型乗用車を105台生産した。

それと並行して、同社はSD型シャシーのトレッドを広げ、ボデーを拡大したSDX型の開発を進めた。

この改造型車種は、正式にSE型乗用車シャシーとなり、1950年6月から生産が開始された。

(トヨタ自動車75年史のホームページより転載)

SDEX

E.は、エレクトロニック

Xは、上記の通りSDのワイド版であり、SDの試作型を電動化したという事の様である。

Dsc_sdexsedann(関東自動車工業30年史 より転載)

25年9月 SDEX セダン 日本電装 
SDXベース
5台製造

日本電装には、当時自動車自体を作るノウハウはなかったが、親会社のトヨタ自動車にはあった。

しかし、電気自動車は新しい技術の集大成でなく、既存の車体に、電気モーター、バッテリーを積んでの運用であった

SEDボデイを見ると、フロントのエンジンが搭載されるべき処、トランクもバッテリーが満載状態である。

また、当時のモーターの防水状況はあまり褒められたものではなかった。

(完全密閉型ではないのでカバーを装着したのではないかと想像するのである。)

日本電装は、自社で製造した電気自動車の試作(?)は、関東自動車工業がおこなたということかもしれないで。

疑問としては、SEDの側面図から、ノーズはのグリル形状は、SEB型とは相違点がある。

EA型のノーズ写真を見ると、関東自工のSDEX型のグリルを外して、プリンス風のグリルを付けた風な感じがする

EA型のベースは、SDEX型だったのだろうか?

ボデイブレス、シャーシの部品をどこから持ってきたのか?
当時のトヨタ?であろうか?

謎は深い・・・

参考

関東自工の生産していた電気自動車

Dsc08216(関東自動車工業30年史 より転載)


24年11月 BA セダン 日本電気自動車製造
24年11月から26年2月までに90台製造

Dsc08217(関東自動車工業30年史 より転載)


25年02月 SKライトバン
神鋼電機(株)が電通省(旧電電公社)に納車
関東自工のライトバンが好評で、製作
18台製造

記事追加

 

戦前電気自動車についての規定がありました。

 

昭和8年の自動車取締令に記載があります

 

「電動機(モーター)を原動機とするものは、1時間定格出4.5キロワット」

 

電気自動車は、小型車に属しない特殊自動車に属する。

 

自動車取締令は、昭和22年に廃止となっている。

 

デンソー号は昭和25年製造なので、この自動車取締令の規制は受けていない。

 

 

 

自動車取締令(大正8年内務省令第1号、全面改正)

(昭和8年内務省告示第23 •公布日:昭和8818

•施行日:昭和8111

•被改正法令(大正8年内務省令第1号))

上記の条文中には、

自動車は、以下の三種類に分類している

普通自動車

特殊自動車

小型自動車

 

条文ママ

第二條 自動車ヲ分チテ普通自動車、特殊自動車及小型自動車ノ三種トス

本令ニ於テ普通自動車ト稱スルハ燃原動機、差動裝置及前二輪ニ依ル操向裝置ヲ具備シ車輛重量三百六十瓩以上ニシテ主トシテ人又ハ貨物ヲ運搬スル構造ヲ有スル自動車ノ小型自動車ニ非ザルモノヲ謂フ

本令ニ於テ特殊自動車ト稱スルハ普通自動車又ハ小型自動車ニ非ザル自動車ヲ謂フ 牽引自動車ハ之ヲ特殊自動車ト看做ス

本令ニ於テ小型自動車ト稱スルハ左ノ制限ヲ超エザル自動車ヲ謂フ

一 車輛ノ長 二・八米、幅一・二米、高一・八米二 

燃機關ヲ原動機トスルモノニ在リテハ四行程式ヲ用フルモノハ氣筒容積ノ合計七百五十立方糎、

二行程式ヲ用フルモノハ氣筒容積ノ合計五百立方糎三 

電動機ヲ原動機トスルモノニ在リテハ一時閒定格出力四・五キロワット

第三條 本令ニ於テ車輛重量ト稱スルハ燃料油槽、潤滑油槽及冷却水槽ヲ充滿シタル狀態ニ於ケル自動車ノ重量ヲ謂フ

また、戦前名古屋でも電気自動車が生産されていた模様である

ナゴヤ号(1939) ナゴヤ号は名古屋自動車製作所が 1930 年(昭和 5 年)に試 作を開始し、1939 年に発売された。

最高速度 35km/h、一充 電走行距離 75-80km である

昭和 15 年に発行された国産電気自動車の規格

昭和 15 年(1940)に電気協会から「電気自動車設計基準」 が発行されている。

この設計基準は次の仕様書から構成さ れている。

電気自動車シャシ標準仕様書、

電気乗合自動車車体標準仕様書、

電気小型運搬車標準仕様書、

電気自動車用電動機標準仕様書、

電気自動車用制御装置並付属器具標準仕様書、

電気車動力用蓄電池標準仕様書

電気自動車シャシ標準仕様書には次のように記載されている。

「自己積載の蓄電池を電源とする電動機に依りて、走行する 電気乗合自動車用(電気貨物自動車用)に適合するものにて 構造堅牢、取扱簡便且つ安全なるものとす。 

 「走行速度は前進 4 段以上、後進 2 段に変化せしむることを 得るものにして、水平舗装道路上に於ける速度は下記を標準 とす。 常用速度(定格加重のとき) 毎時 20km(市内の場合) 最大速度(空車のとき) 毎時 40km

(戦前の国産電気自動車  森本雅之 稲森真美子(東海大学)より引用)

とはいえい、これれの標準仕様を、デンソー号は受け継いでいない。

20191210初出

20191211加筆

20191213加筆

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時々思う事

私は、時々、こんな事を聞かれる

「まだあの車乗ってんの?」

「はあ(ココハ、ヒマラヤサンケイの様に気の抜けた「はぁあ」である。)」

(内田百閒先生の阿呆列車参照の事w)

大体あきれ顔に「へー」で、

「クーラーとかついてないでしょ」と来る

「ないねぇ」とそっけなく答える。

「年間どれぐらい乗るの?」

「1000キロぐらい・・ここ数年、700キロぐらいかな」

ここでさらにあきれた風に

「なんで持ってるの?」

「さぁ、なんでだろう」

・・・・・

ここで大体会話は終わる・・・

大抵は、あきれている。

でも・・・何十年持っていても飽きてない自分がここに居る。

ほかの車では味わえない楽しさがあるのだるだが・・・どうも理解されない。

オープンエアーモータリング

最初のオープンカーは親戚のトライアンフTR4だったと思う。

その時は小さかったけれど、何となく楽しい感じがした。

風景がい後ろへ飛んでいく。

人も、市電車(路面電車)も、バスも、トラックも・・・どんどん後ろへ後ろへ

楽しかったのである。

そうして、大学時代スバル450(外観360)を、親に黙ってこっそり買って乗っていた。

これも小さくてきびきび走って楽しかった。

彼女には不評で、遠くへ行くときは彼女のスターレットだった。

外国に行くと、レンタカーでオープンが結構あったりする。

オープンは楽しい感じがするのである。

でもである

夏は死ぬほど暑い

冬は・・・・これまた死ぬほど寒い・・・

冬は、革のロングコートを愛用していた(今でもあるがあまり着ない・・・)。

でも何となくワクワクする。

ワクワクする理由は・・・単に楽しい感じがするからだろう。

持ち続けている理由は、楽しいからという単純な理由でもいいのではないかと思うが、いかがだろう。

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ノーリツ号 岡本自動車自転車工業

ある年齢以上の人は、ノーリツ号を、覚えているだろうか?

(給湯器のノーリツとは、関係がない。)

自転車のノーリツ号である。

戦前の名古屋の軽工業の基礎を担った自転車のメーカーである。

明治時代に、日本で最初に自転車を生産した会社です・・・知らないよね・・・

ちなみに、大正時代から航空機の車輪を作ってました。

サムエルソンを生産していた熱田の陸軍工廠は、隣接した地域であり、スポークを利用した車輪だったので、生産に関与したようです。

当時、熱田陸軍工廠では、飛行機の生産も行っていました。

途中から、兵器の生産に特化します(資料の名古屋陸軍工廠史が出てこん・・・・)

自転車を製造するといっても、部品はそれなりに多く、堀田近辺に強大な工場群を有していたました、大規模工場であった。

日本車輛に隣接して存在した工場もあった。

が、名古屋市内のほとんどの工場は、戦災によって消滅した。

終戦間際に、創業者の急死も戦後の復興には暗い影を投げてしまっていた。

戦前の名古屋商工会議所の輸出に関する資料を読むと、膨大な量の自転車を、アジア、中東、アフリカに輸出している。

その主体は、西ノーリツと呼ばれた、岡本自転車工業(後に、岡本自動車自転車工業、岡本工業と社名を変更する。)の製造する自転車であった

戦前は、自転車、軍用側車、航空機の脚関係の製造を行っていた。

私が興味を持ったのは、アツタ号の足回り関係を製造していたことからである。

戦後は、労働争議で会社が傾き、紆余曲折を経て、倒産しそうになる。

しかしながら、トヨタ自動車販売の神谷正太郎氏の協力の元、トヨタノーリツ号(折り畳み自転車)を製造販売する。

トヨタ自販と自動車工業が合併した時に、会社をたたんでいる。

ノーリツ財団がその後衛である。

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トヨタスポーツの値段など

最近のトヨタスポーツの値段ていくらなんだろう?

私は、27年前なんだかんで200万円ほどで乗り出した。

でも数年で、ボデイの板金を行ったので、これで200万円

エンジンを壊しに壊したので、これで150万ぐらい・・・

ミッションのオーバーホールも2回もした・・・

最近は、ボロッチイのが、平気で200万円ぐらいしたりする。

コーションプレートと車体の打刻部分抹消書類で何十万とか言う値段もみたことが有る。

数十年前に、数万円で売っていたものだろうと思うが・・・

ある専門店では、500万円は当たり前であるらしい。

新品のデフが70万円という話も聞いたことが有る。

古い人(古くからヨタに乗っている人)は、安けりゃ買うんだがとおのたまう人が多い。

でも、安くは売らんだろうと思う。

以前、44の放置車両を載せたらわざわざ電話があった。

100万以下なら・・とか

年金生活で、金がないから・・とかのたまう人が多いが、そんらわざわざ買う必要性がないと思うのですが?

私より古くから乗っている・・いわゆる古い人は、感覚がずれていると思う。

レストレーションもせずに大事に乗っている人に多い。

最近乗り出した人は、比較的高価で乗りだしているので、あまり貧乏くさいことは言わない。

古い人は、繰り返しになるが、

「トヨタなら、○○円で出ていた」

とのたまう人が多い

「だったら、その値段で買ってこい」

と云いたい気がする。

壊れやすい筆頭のパーツで思いうかぶのに、ドアのインナードアロックがある。

オリジナルは、強度無視の設計である。インナ―ドアロックの製品自体がは、無理な嵌合なので、必ず外すと破損する。

金属のネジの部分に、硬質プラチックがかぶせて溶着してあるだけである。

折れて当たり前である。

ちなみにこれは27年前、190円ぐらいだった

自分で、20年ほど前に、このインナードアロックを製作したことが有る。

耐久性を第一に考えて製作を依頼した。

何回でも取り外しをしても破損はない。

金属の削りだし、メッキ加工、焼き付け塗装で、1本5000円

最低ロッド10本・・・・

頃消費税3%で、51500円・・・実費が1本5150円である。

でもこれを見た人が、別に作ったシートベルトアンカーを買うから2割引けと云った。

この辺の頭がおかしいと思う。

トヨタスポーツのパーツを作っても売れないと云事を良く聞く、勢い注文を集めてからということになるが・・・

まぁいい加減に、パーツは高いという認識を持ってほしいと思う。

タマに思うのは、そんなに金がないなら、止めたら?と云いたい

今のオープンを買えば良いと思うが?

ついでに言えば、トヨタスポーツに常時オープンでの乗っているのは何人いるんだろうか?

20171205加筆

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珍しく感謝

 先日、ツーリングに参加していただいている「Iさん」の車にヒーターが付いた。

 最初は、ヒーターは、未装着であったが、某S氏に頼んだところ入手出来て車へ取り付けることができたのである。

 ヒータなくて寒い!と云っておみえでしたので喜ばしい限りです。

 最近、パーツの製作情報が度々来るのですが、これも何となく買っておこうかなと云うものが来たりするので、散財の原因となっています。

 まあ、色々な手法には、肯首できない点が多々ありますが、他人の役には立っている点についてのみは感謝の辞を表したい。

 トヨタ自動車の生産廃止パーツの再生産は非常に厳しいと思う。

 以前は、チマチマとパーツを作ったこともあるが、最新の技術で作ったものの方が性能は良いのではないかと思う。

 20年ほど前に製作をしたトーションバーは問題がないようである。

 これは、試作品の試験をおこなったので、まるっきり赤字であった。

 また、トヨタスポーツとパブリカのトーションバーの左右が反対だという事も製作過程で判明した。

 シートベルトアンカー、インナードアロックなんかも作りましたが、ほぼ原価での販売で自分の使った時間経費を考えるとほとんど赤字でしたねぇ。

 まぁ後悔はしてませんが。

 まぁ、トヨタスポーツと2000GTに関していえば、専用の修理工場を立ち上げてはどうかという意見も重鎮(豊田の一族)から出ているという情報もあるのですが・・・

 値段的にむつかしいのかなぁと云う気がしています。

 2000GTも商売的には成り立たないと思うし、トヨタスポーツも高田2800台程度の生産台数である。

 先日完成したトヨタスポーツの費用は、千万を超えている。

 予算の出どころがあるからできた企画である。

 パーツの再生産の費用等(設計代等含めて)も、試作品の製作に近いもので1個で何百万円である。

 以前、トヨタの関連会社でトヨタスポーツを復元したときのトータルの費用は、数千万円である。

 その時の、新聞の字ずらは、「技術の伝承」という言葉が使われている。

 パーツの単品生産で請求額がどんどん加算されて行くという事である。

 ジャガーのEtypeの完全リプロダクションが、28万5000ポンドである。

 Etypeならクルマも多いし、需要はあると思う。

 新車のEtypeに乗ってみたい気もする人は多いのではないのだろうか?

 フロリダ、サンフランシスコで、Etypeの中古車屋を見たときに車の多さに驚いたことが有る。

 以前、356のカーンポルシェと云うものがあったがこれも結構なお値段がしたと思う。

 例えば、トヨタスポーツの完全リププロ品が、2500万円と云ったら買う人が居るのか?

 2000GTが、6000万円とか言われて買うう人が居るのか?

 という疑問がある。

 それに、トヨタスポーツのパーツ数に比べて、2000GTのパーツ数はけた違い多い。

 まぁ、でも期待しないで待ってみたい気もする。

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