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ちょっと考えている

またまた、台風到来である。
で、何となく家の雑用・・・正直、資料読むの飽きました。
ここ1か月ほど、戦前の資料ばかり読んでいるので脳味噌が旧字に慣れ親しんでしまい・・・現行の当用漢字を忘れそうです
で、先週から読んでいるのが、「日本自動車史(昭和17年 自研社)」
途中まで読んで…法令関係無視しても、長いので疲れた・・・・
「豊田喜一郎(昭和30年 自研社)」も読んでいるのだが、肝心の事は書いてない・・・
現在の仮説は、中京デトロイト計画は存在していないという仮説である。
現在は、「中京デトロイト計画」、「中京デトロイト構想」と云う言葉が、いつから文章に出てきたのかを検証中
中京地区のデトロイト化と云う言葉は、戦前の文書の若干ではあるが、現出している。
「計画」「構想」という文言は出てこない。
で、戦前の昭和10年以降の自動車史関係をしらみつぶしに読んでいる。
きまった項目を見るので、全部読む若ではないのですが、一日2から3冊が限度・・・・
で、関係ないのですが、自研社の出版物に、豊田喜一郎氏の電気自動車研究を批判する記事があるのは驚いた・・・表紙が日産ばかりなので、日産にべったりだったことがわかる。
読んでいて気が付いたのであるが、昭和10年から17年までに出版された自動車歴史関係の書籍には、「中京地区自動車工業化」「中京地区ののデトロイト」と云う言葉が出てくるのみである。
戦後は、昭和25から30年には、多くの書籍が発刊されるのであるが、25年ぐらいまでは、戦前の重版が多いが、ここにも記載がない。
大体、アツタ號の完成の記事は、新愛知、名古屋新聞紙、(毎日新聞も記事があるとに記載があるが、当時の名古屋版の確認ができていない、大阪版は記載なしに)にしか記載がない。
キソコーチ号も、同二社の記事しか確認できない。
在京新聞、都新聞(当時の新聞には珍しく2週間に一度自動車の記事があった)等にも記載はない。
愛知県史に、新愛知のキソコーチ号の記事の上にある、昨今の中京地区の自動工業の動向の記事はある。
肝心のキソコーチ号の記事はオミットされている。
よく、愛知県史や、名古屋市史に、中京のデトロイト化という事が議会で昭和11年に報告されているという記載がある。
名古屋市市政資料館収蔵の議会報告の綴りに確かに現物はあった。
がである。
報告は「秘」報告である。
アツタ號とみづほ(瑞穂、旧ローランド号)の2台を以て中京のデトロイト化と云う記載がある。
しかしである。
名古屋での自動車工業を志向したのは、昭和5年ごろである。
中央(東京)で話題になるほどの指向があったようである。
当時、自動車を製造したいと思っていた川越庸一氏(のちの大同メタルの創設者、キソコーチ号の設計者)をそのうわさを聞きつけて名古屋へ移住したぐらいである。
思考した理由は、第一次大戦後の不況、大恐慌による全産業の存続への危機感からである。
(軍需産業は、まだ勃興していないというか、不安な発注状況で、軍縮もあり、軍需よりも民需を当て込んだ方がよいという判断があったと思われる。
名古屋市、市役所、市長が、アツタ號、みづほ号についての製造に直接的な援助をしたという事実はない。
財政状況が厳しので、資金援助はなかった。
議会議事録を、昭和5年から12年まで読んでみたが、自動車振興に関する討議はなされていない。
つまり、議会を通した資金協力はなかったという事は判然としている。
各企業を周旋したという記事は散見せらるるが、当時の大岩市長は、名古屋の名だたる企業の役員に就任していた。
それに、企業間の横の連関を使い、自動車を生産できないかとと云う検討をし、かつ、すそ野の広い産業を興し、軍需に頼らない、中京地区(当時の感覚では名古屋市のみ)の安定的な工業生産地域へ脱皮を図ろうと画策くしたことは事実でああろう。
現実問題として、市長が、各企業の首脳を説いたとしても、当時の邦貨で100万円(現在換算で30億~40億円)を投資する気なるかという事である。
資本金100万円の会社の、100万円出せというのはいかにも無理難題である。と云うようなことを考えながら・・・資料を読んでる。

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うーん、ルートでお悩み

トヨタ博物館から「切山の大杉」まで行って、岩村は・・・無理っぽいルートだと判りました。

岡崎市切山町は、ほとんど設楽・・・・まっすぐ行けば新城・・・・である

新城(設楽)から岩村までは・・・・おおまわりを考えて、3から4時間ぐらい・・・なんだか、耐久ポイ

あまり元気ではないので、無理はできないし、年寄が多いのでゆったりコースで・・・二日とも晴れてくれればいいのですが・・・

ここ数年、雨にたたられています。

11月で雨が多いのは異常な感じさえしますが。

しかも、香嵐渓を抜けるルートが使えないので・・・当然様に茶臼山を抜けるコース・・・・

かなり厳しい・・・なぁ

安易に、博物館→道の駅土岐美濃焼き街道(どんぶり会館)土岐市肥田町肥田286-15経由で、岩村へが楽ちんかな?

ただし、どんぶり会館から岩村へ行くのが…ちょっと面倒・・・

まぁ、それほど下見に行かなくてもよいルートなので、図上演習で何とか過ごすつもりです。

今年は、中部産業遺産研究会のパネル展のお手伝いをしていますので、結構多忙です。

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なんとなく、たのしい

もう30年近いおつきあいのお友達がいます。

師匠なんですが、1年ぶりぐらいに話をしたら楽しかったなぁ・・・

昔から、「友遠方より来る、又楽しからずや」と追う言葉がある通り、

友達との会話は楽しい。

すぐに時間が過ぎるのである。

多分どうでもいい話である。

でも楽しい。

楽しいことの少ない日々である。

元気でいることが大切なのである。

楽しいことは何か?

最近、調べていることばかりですが、調べることもまた楽しいのです

昔、トヨタスポーツの事を知らべるのが面白かったです。

ても嘘が多くて、二次三次情報はほとんど信用できず

乗ってる人間もいい加減で、自分の車に、43の車に、古い部品が付いていると

「昔はいい加減だから、その辺の部品を部品を使ったんだわ」と云う人がいた

こういう奴は、一番自分の脳味噌がが一番いい加減という事に気が付いていない。

マスプロダクトの製品と云う感覚がないのだともうのである。

その辺のパーツを使う、戦前のいい加減な国産の少量生産の車ならあったかもしれない。

米国からの輸入車の修理部品としての国産部品はあった。

が、精度が悪くてすぐに壊れる。

中古の米国製のパーツがあれば、修理して使うという事は多々あったのは事実である。

国産車の生産が、月産何台から100台程度の時代の話である。

普通(普通と云うは私の感覚でのフツーである)

新車で、車を買った。

同じ車の人と仲良くなった

ドライブ(当時風)に行った。

自分の車の方が新しいのに、古いパーツがいついていた。

・・・・普通はクレームである。

その感覚がわからないという事は、その人の頭の規格がいい加減という事である。

そんな人の与太話も含めて信用できなかった。

ので、ちまちまと当時の資料を漁ったがそれほど出てくるわけではない。

当時のどーでもいいような車雑誌を大量に取得したがそれでも状況は変わらなかった。

で、研究は停滞したが、当時、パブリカ店でトヨタスポーツを売っていた人いに出会っていろいろな疑問が解消した。

トヨタ自動車内部の2Uエンジン資料を、ある親戚知人友人関係をフルに活用して、閲覧だけ(複写撮影禁止、メモOK)させてもらったことも大きい。

改修項目(青焼きコピーでしたが・・・)、生産台数、移送先一覧

でも、発表できないので、公的にトヨタが発表していた資料をあたることにしたら、意外とすんなりと分かった。

生産台数等は・・・・出てきませんが・・・

やはりトヨタの壁は大きかったのである。

しかし、資料を駆使していけばある程度の事は判ることに気が付いたのは良かったのである。

おかげで、今は、電気自動車((1900年から1952年まで)、アツタ号、キソコーチ号の調査をする上で大いに役立っている。

友に感謝である

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何となく、夏休み

正に、だらだらな夏休み・・・・

9月末までに取らないと怒られるので仕方なく?

夏休み

部屋の掃除をしたり・・・本読んだり、、模型を作ってみたりである。

一応、ツーリングの下見に…へらへらと・・・

トヨタ博物館から、猿投グリーンロードから東海環状道 豊田松平ICまで行き

岡崎市の桐山の大杉までドライブ・・・・・・するつもりでしたが・・ちょっと雨がひどいので断念

それに、豊田から岡崎へ行って岩村は、厳しい・・・・ナビからは2時間と云ううので途中まで行き、松平から岩村まで、二時間・・・

うーん厳しいなぁ

あんまりよるところがないのですが、どこかいいことないですか?

で、松平から豊田市内に入り、夕方で込んでたので・・・そのまま豊田ICから家まで・・・

1時間かかりませんでした・・・

トヨタ博物館から、長久手IC高速で、豊田南IC、豊田松平なら40分かかかりませんねぇ

と思いつつ

自分を含めて年寄りが多いので、無理は良くないな・・・と

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セロ弾きのゴーシュ 異聞 その1

みんなんちょっと、赤くなった目をこすりながら、森の集会所へやってきました。

今度、新しく、小川に架かる古い水車小屋へ引っ越してきた男の事で相談するために集まってきたのでした。

みんなは、古い水車小屋の近くに住んでいました。

野ネズミ、狸、フクロウ、カッコウなどが家族や、一族を代表してきていました。

引っ越してきた男の奏(かな)でる、たまらなく下手な音に、みんな困っていたのです。

夜は、寝静まる時間、食事をする時間でもありました。

寝入いった頃に、がーがーごーごと調子はずれな音を出すのです。

びっくりして目を覚ましてしまいますし、獲物は逃げてしまい・・・みんなへとへとでした。

みな、住み慣れたところは離れたくないし、かといって、夜眠られないのも困る。

夜、狩りができないのも困る。

そう思って、みんなでいい知恵を出そうと集まったのでした。

最初は、追い出そうという事になりましたが、みなそんな力はありません。

先回は、引っ越すべきか、否(いなか)を語り合いました。

皆は、それは難しいという事になりましたので、引っ越さないくて良い様に、どうしたらいいのかという事になりました。

森の集会場は、郊外の森の中です。

みんな、寝不足だったり、空腹だったりしていい意見が出ません。

「ねぇ、水車小屋に、最近、越してきた男はなんであんなに下手なんだい❓」

とカッコウが聞きました。

そうして、一呼吸おいて

「夜中から朝にかかて、がーがー、ゴーゴー音を立てているんだけれど、あれは下手になる練習をしてるのかい?一体何だい?」

と云いました。

狸の親父さん、大きな腹を抱えながら苦しそうに、

「この間から、夜になるとがーがーごーごとうるさくて、眠られないのだよ。」

時々日向ぼっこに来る猫がしたり顔で

「どうも、町の金星音楽団の団員らしいね」

狸が、目をパチクリさせながら

「あれで、音楽団楽員だって・・・・」

カッコウが

「あんなだらけた、音程のずれた楽員なんているのかねぇ」

野ネズミお父さんは、

「夜、巣穴に響いて眠られないんだよ。

前みたいに、水車が、ギギギバタン、ギギギバタンという音なら、丁度、子守唄ような感じで聞けましたがね。」

とパチクリした目をくりくりとさせて云いました。

猫がこんなことを言い出しました。

「下手だから練習するんじゃないかなか。

昨日も泣きながらぶつぶつ言いながら帰ってきたよ。」

カッコウが、「なんか、文句言っていたねぇ」

猫は、音楽というものは上手ければ大変精神衛生上よい効果をもたらすという事を聞いてきました。

そこで、住人は、上手くなれば引っ越さなくてもいいのではないかとというお話になりました。

みんなは、何が悪くてあんなに下手なのかわかりません。

原因がよくわかりません。

楽団員なんだから、そこまで下手ではないと思うのだが・・・

音程がずれている。

間延びする。

テンポが悪い。

口々に云うのですが、なんとなく、要領を得ません。

そこで、皆は、猫は、町に住んでいることもあり、耳もよく、音楽には詳しいので、値踏みをしてもらおうという事になりました。

カッコウが、「最近は、夜中から明け方まで弾いているので眠ることもできない」

ぐったりしたとしたか顔で言いました

猫は、したり顔で

「もうすぐ町の音楽会があるんじゃなかったかな。

だから余計に練習をしているんだね。」

みんなは一同に、「それは何日だい?」と声をそろえて言いました。

猫は、自信がなさそうに、「来週か、さ来週じゃないかな」

フクロウが一番げんなりした顔で、

「あと二週間も続いたらわたしゃ飢え死にですよ。

あの音のせいで、ネズミもモグラも夜出てきません」

ネズミのお父さんは、首をすくめました。

フクロウは、

「もう少しましな音で、聞きほれるぐらいなら、ネズミもモグラもそのそでてくるんそのそでてくるんですがね」

猫が、茶化すように

「出てきて、喰われてしますんですか?それなら出てこない方がいいじゃないですか」と嫌味たらしいことを目を細めながら言いました。

フクロウは、

「我々は、紳士協定で、ちゃんと縄張りがあるんでね、猫みたいにどこへでもうろうろ入って行って人のものをちょろまかしているのとはちがんだよ。」

すると猫は、背中を赤くく光らせながら

「じゃ、私は帰った方がいいようですね」とぷんぷん怒り出しました。

すると狸のお父さんが

「ねこさん、あなたがいなけりゃ困るじゃないか」

とちょっと目をしばたた出せながら困ったように言いました。

そうして

「最初にどの程度の腕前か、どの程度の楽器なのか判断をするという重大な責任があるじゃないですか、それをお忘れですか」

とさも重そうな腹を抱えて言いました。

ねこは、プンプンしながら

「今晩行ってきますけど、あとはご自分たちで何とかしてくださいね」と云った

ネコは、気を取り直したような顔で

「ところで、あの男の名前は何と言うんだい?

こーしゅ、とかゴーシュとか言うように聞いていたけれど?」

カッコウが

「ゴーシュ」と云いました

「ねじれ者?左利き?」

「コーシュてなんだい?」

「よく夜中に訪ねてくる、彼の友達、と云うか恋人だね」

「夜中に忍んで来るなんて変だね」

「でも最近、来ないみたいだよ」

「別れたのかなぁ」と口々に言いはやしました。

猫が突然

「わかりました、ゴーシュさんですね、今晩行ってきます。

野良になってから人間の家の床下はお気に入りだが、部屋の中は剣呑だね」

と云いながら猫は、帰っていきました

残った狸のお父さんは

「では、とにかくここから出ていっいてらえないなら、うまくなってもらわないとね。」

カッコウは言いました

「猫さんの観察眼に頼るしかないですね。

で、次はだれがいきますか?」

みんな黙ってしまいました

すると野ネズミ父さんが

「演奏が下手すぎるなら、みんなで引っ越すしかありません。

 何とかなんる様なら・・・何とかなるようにしてあげましょう。

 猫さんの報告を聞くしかありません」

狸のお父さんが、「今日行きますかねぇ」といった。

みなんかをお合わせて見まわしました。

そうして、ふーと息を吐いて

期待しましょうと言って別れた。

その日の晩、猫はあくびをしながら、小屋屋根の上でねそべっていました。

この上で寝るのが一番気持ちいがいいなぁと嘆息を漏らしました。

すると、町の方が、月夜に照らされて大きな荷物を抱えた人間が歩いてくるのに気が付いた。

足を引きずるよにして歩いていきました。

猫は、人間は、人のところへ行くときは「おみやげ」とかいうものを持っていくんだったねぇ。

口の中で

「おみやげおみやげ」と云いながら歩いていると、水車小屋の前に来てしまいました。

お土産なんてありません。

きょときょとと見まわすと、青いトマトが見えました。

これでいいやと思って、茎を歯で食いちぎって1個手に持ちました。

翌日

森の中には、背中をぶるぶると青く光らせて寝込んでいる猫の周りにみんながぞろぞろ集まると、猫は開口一番

「あー、ひどい目にあった。

 人間てやっぱり怖いや

 うちのおばあさんの家に蓄音器があって、いつも、トロイメライを聞いていたので、これならよくわかると思って注文したんだ。

 ロマンチックシューマンのトロイメライを弾いてくださいてね。

 すると、弾いてあげるみたいなことをことを云っていきなり、大音響でインドの虎狩りを弾きだしたんだ。

 ずんずんバンバン。」

 猫は、いろんなところをぶっけたみたいで、ところどころ青く光っていました。

 おまけに最後、親切そうなことを云うので舌を出すと、火をつけられてね・・・」

カッコウは、せっぱつまった感じで

「どこが悪いと思う?」と聞くと

猫は「うーん・・・・基本ができてないね。

ドレミの音程も変だし、テンポもおかしい、腕が悪くてテンポがおかしいのか楽器が悪いのかわからない。」

床下で聞いていた、みみずくのおばさんが、

「音が変だねぇ、なんだかズレているよ」

すると、狸のお父さんが、

「ドレミが一番、上手なのは、カッコウさんですよね・・・・」

カッコウは、ふるふるっと震えて・・・「私の順番ですか・・・・・・仕方ないですね」

猫が意地悪く

「窓を閉められると、捕まって焼き鳥にされてしまいうかもしれませんよ」

カッコウは、灰色の胴体を、いよいよ薄く沈んだ色にして

「今晩、屋根裏から入ってみようと思います」

猫が云いました

「人間は、鳥や、動物なんて馬鹿にしているから、おだてないとだめだよ。

こちらが教えてやるなんて言った日には、それこそ何にも聞きやしない。

いうななら、教えてくださいとでもいった方がいい」

カッコウが、「何を教えてほしいと言えばいいんですか」

猫は、「ドレミの音階も少しおかしいから、カッコウさんの正調なドレミを聞かせれば、自分で気が付くのじゃないかな・・・」と焦げた下で苦しそうに云いました。

カッコウは、不安げに「気が付きますかねぇ」といった

狸のお父さんは、

「何せ、人間は、あとから来たくせに自分たちが一番偉いと思い込んでるやつらです。

でも、おだてられると気持ちよくなって、いい人になります。」

カッコウは、もうすぐ南の国へ留学することになっていたので、

「留学前の復習とでもいえばいいんでしょうか?」

猫はめんどくさそうに

「留学なんて言うと、生意気だって怒るから、外国に行くからとでも言っておけばいいや」

と云いました。

そうして、みんな眠そうな顔ををして、ぞろぞろと帰っていきました。

カッコウは、昼の内に、屋根の軒の破れ目から天井裏を抜けていく方法見つけていました。

屋根裏は暗くてここちよかったので、寝不足も手伝って、うとうと眠り込んでしまいました。

あたりがシーンと静まって寝込んでいると、急にバタンと音がして

天井裏に光が漏れてきました。

なんだか、もしゃもしゃパンを食べて、

「さて」と云いながら、大きな箱を開けて楽器を取りだしました。

カッコウは、明け方になってようやく帰ることができまた。

ズキズキ痛んでいるくちばしが気になりましたが、焼き鳥にされてしまうのはたまらないと思って逃げて帰っていきました。

その日の夕方

森ではまた皆が集まってカッコウの話を聞きました。

カッコウの腫れあがった顔を見ながら、みんなは、口々に言いました。

大丈夫かい?

どうだった?

カッコウは言いました。

「ドレミファの音階は何とかなるみたいです。

でも、なんか音がズレて変です。

楽器が変なのか、弦が悪いのかはわかりませんでした。」

狸のお父さんが

「では、うちの子を今日は行かせましょう」

フクロウが、「大丈夫かい」

猫は、「丸々しているから捕まって食べられちゃうかもね」

狸のお父さんは、「いざとなったら、化かして逃げますからいいですよ」と笑って言いました

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新聞の社説など

毎日の定期購読新聞は、日本経済新聞である。

読むに堪えるギリギリ最低のレベルの新聞であるから読んでいる。

それ以外は論外という事である。

が、最近、呼んでいて、とみに思うというか、感じていることなのだが社説には随分と偉そうなことが書いてある。

〇日(×京)新聞、△日新聞、■〇新聞の社説は論外な話しか書いてないので偉そうとか、くだらないととかいう以前に読むに値しない暴論しか書いていない。

大上段に構えて、自分の意見(社説)は、皆の意見よりも高いところから見て書いているという風情がする。

ただ単に事実を報ずれば良い新聞に、なぜか感情が入り、おまけに指針的なご高説を述べている。

大体、反対意見的な論調が多い、ひどいときは、この社説の意見に従わないと先行きは暗い的な話が多い。

だがどうだろう?

戦前から戦後、というか新聞ができて以来、国民をミスリードしかしていなかった新聞がなにおかいわんやである。

まぁ、読んで感じることは、綺麗ごとに輪をかけた理想論だけを大上段に振りかぶて、書いているだけのような気がする。

外国のというか、卑近な例でいえば米国の大統領の行動に対して物申す的な論調が多いが、書く意味があるのか?と云う気がする。

最近は、報道しない自由と云う行為がある報道しないことを是とする言葉である。

基本的には、左翼、半島関係、半島出身者の犯罪、野党のスキャンダル等々、自分たちが是とする団体のマイナスイメージになることは報道しない自由である。

そのくせ、自民党、政府関係者のスキャンダルは針の先のようなことを丸太の様に書く、嘘であろうが、関係なくである。

日本の新聞は、明治の途中から翼賛的な新聞が大手を振るい、戦後は、反政府系の新聞しかいないというのが事実である。

戦後、GHQのニューデイラーの策謀が成功したと言える。

だからではないが、最近の新聞は、肝心なことは書かない。

最近、しきりに外国人労働者を導入しなければ労働現場が…が干上がる的な表現が多い。

農業、漁業、林業、工場労働者の話かと思えば、この間は調理師、美容師の話だった。

現実的な話で、現在のサービスを維持することは困難であるという事をいい加減に追認してはどうかとおもうが、基本的には、現在のサービスは維持すべきとの考えである。

昔から想像できたことをその時点で書かない

先日、東京近郊の平均収入が減った事を大々的に報道していた。

そんなの事は十分承知していたことであるが、さも新しい事の様に書く。

これからの50年は、昔の遺産を食いつぶす50年である。

国内産業の空洞化を訴えるが、そんなものは、20年前から始まり、現在は総仕上げの段階である。

最終局面は、事業主の高齢化である。

親は、苦労していることばかり子供に言う。

子供には継がせたくはないと思う

子供も継ぎたいとは思わない・・・

従業員が居なければ廃業への道しかない。

トヨタを叩きたい人は、下請けの悲惨さを訴えるが、普通に納品していれば、潰れることはあまりない。

皆無とはいなわないが、批判する人たちが云うほどひどくはない。

なぜかと言えば、システムとして成り立って永続的に継続しているからである。

では潰れた会社がないかと云えば、ないことはない

つぶれた原因は、多くの場合放漫経営が多い、自己責任的にいてば、その人、その家族に能力がなかったのである。

この手の人は、夢見がちである、一獲千金を狙うのも好きである。

要は、非現実的な屑という事になる。

こうした人間が経営すれば、どんな会社でも早晩潰れる。

親が頑張った会社をつぶすのかこのタイプである。

(大体、継ぎたくない子供を無理やり継がせるのもよくはない。)

会社を引継ぐ人が立派な経営者になるとは限らないのである。

大体、三代目でつぶれるというのはこの手の世界世であるが、昨今は、2代目でつぶれることの方が多い。

まぁ、昔の常識は通用しない状況になりつつあるのは事実である。

例えば、名古屋市内(郡部に近いところも含む)に、普通に農業をを行っている者がいるのか?

例えば、名古屋市で周辺に近い水郷地帯、丘陵地では、いまだに農業は行われている。

とはいえ、農業で生計を立ている人は非常に少ないと思う。

前にも書いたかもしれないが、以前は、小作料は、面積収量によっても違うのであるが、大体一俵だったらしい。

途中で、1年10万になり、3万円になり、1万円になり、一時期は、タダであったが、現在は、農地を管理しているんだから金をくれである。

農業従事者自身が稲作農業で儲からないからそうなるのである。

それに、自身の高齢化による体力的な問題もある。

そこで、金払ってまで他人の農地を耕すこともないだろうという事になる

外国人を増やすことでいいことがあるのか?

ある第三国人系の電話会社はのCMは、戦後の外交の立役者を馬鹿にしたCMを流し続けていた。

国辱ものである。

でである、現実的に、在留資格を有する外国人の犯す犯罪は非常に多い。

免許なし、車検なしの車の運行なんて平気の平左である。

その昔、パキスタン、アフガニスタン、イラン人が増えたとき田舎の地方都市で起こった犯罪の多くは、婦女暴行である。

見境がなかったようで、瑞浪市なんかは、ワンボックスに連れ込んでと云う犯罪が横行した。

犯罪なんか増加しないと、行っている者がいるがどうなんだ?と思う。

口で言って、実際に犯罪が増えたら頬かむりをするれば済むと思っているのなら、それは確信犯的は流言の流布である。

ある意味内乱予備罪を適用すべきである(笑)

警察は、と云うか、警察庁は、外国人のとんでもない犯罪事件関しては多くの事例を把握しているが表だっては出してはない。

だって、外国人への人権侵害だとおっしゃる方が多いからである。

国内の治安を悪くして喜ぶのは革命勢力である。

共産主義ファシスト、社会主義シンパの連中の事である。

考えてみればよい

自動化が進み人が要らなくなった職場は多い

だか、戦前もっと人が少なかった人が頃でも社会は廻っていた。

コンビニに従事する人数より多くの人間が販売という商売に従事していた。

例えば事業承継者がいないから困る適な発言が多いように感じるが、後継者居なくていいと思っている人もあるし、現実的には、衰退産業はあるわけである。

衰退した産業から別の産業へ人は流出しただけである。

「コンクリートから人へ」というスローガンを立てた屑のような政治家が居た。

鳩山一郎が見たら嘆くであろう、屑である。

この屑が、公共事業の削減を訴えた。

理由は簡単だ、自民党の支持基盤である建設業の力を弱めることのみが目的だった。

ついでに言うのであれば、小泉純一郎時代から公共工事を減らした。

小泉は、敵対勢力の力を弱めるために建設業界への締め付けを行った。

おかげで、中小の建設業社の倒産があいつだ。

転業という言葉はかっこいいが、実際は、撤退を、転進、全滅を玉砕と言い換えたような感覚である。

おかげで、事業者は激減した。

市町村は、道路工事が一通り済んだ時点で、箱もの行政を行うようになった。

ここで、土木業が減り、建築土木が増えた。

この箱ものは、役人にとっては、役職者の行き所を増やすという利点があり、かつ、職員を増やす理由にもなったので喜んでこの方針を受け入れた。

ところが、財政が悪化するとまず困ったのが、この箱もの

置いておいても管理費用が掛かる。

管理費用には、固定費、 人件費が要る。

で、公共工事の予算を削りすぎても困ったものがある。

ある意味、公共工事で中小の土木会社を存続させていたという面がある。

云わゆるフェールセーフ的な面である。

(地方の土建屋の悪辣な方法での金儲けも公共工事がらみと云う悪弊もあった。)

ここで最大の問題は、土木工事業者が激減したことで、災害への対応力が低下したことである。

東濃のある市では、災害が起きたときに、予算を使い果たしてしまい、道路の補修工事さえできない有様となったことがある。

市が、最大限に守らなければいけないは、市民の生活、インフラである。

ところが、市の職員の最大の目的は、自分たちの生活、権利の確保であり、市民は二の次である。

滅私奉公すべきとはいなわないが、自己中心的な、自己のプライドを守ることに腐心している吏員(地方の職員)が多い。

多くの市役所の職員組合は、共〇党系である。

事務局が共〇党員が牛耳っている。

市民の生活よりも、職員の権利を守る方が大切、さらに云えば、共ら〇党の事務員の生活を守り、党本部への上納金のような金の確保が大切ななのである。

ある市の市議会議員が、配られもしない赤旗の強制購読を止めさせたことがある。

現物の新聞さえ配らずに購読料を取る。

その辺の、やくざ、右翼の新聞購読料より程度が悪い。

右翼の団体でも定期購読になると、年数回でもよくわからない新聞を送ってきた。

年間數千円から3万円ぐらい(だったと思うが…今の値段は知らない)で、年2回、4回、6回とか送っては来ていた。

対価性を有しているから、まだ許せるが、共産党の赤旗は金をとるが、人数分の新聞を印刷交付しない・・・つまりは、これは詐欺と同じである。

でもこれに文句を言うと、職場内で個人攻撃、主に人格攻撃をするのである。

さすがに、日本経済新聞はあからさまに個人攻撃はしないが、何となく、間接的な人格攻撃を続けたり、左翼系の肩を持つ記事が多い。

新聞は、昔から、販売部数の延ばすためには何でもやる(書く)と云う姿勢がある。

それは、羽織ゴロと呼ばれた恐喝者に体現される姿であった。

純粋のこの羽織ゴロを受け継いでいるのは、小さな新聞社(右翼、左翼、暴力団系、総会屋系:ほとんど無いけど)である。

トランプ批判をしても、中米の貿易戦争の緩和にはならないし、日本の出る幕はない。

それに新聞の記事は、おおよそ1日から2日ほど遅い。

既に速報性はない。

書いてあることもプロバカンダ(政治宣伝)的である。

多くの事実が、ネットではすぐに流れる、間違った情報の是正さえ速い。

新聞はもう終わるのだろう

戦前国民を誤った方向へ導い根幹は、戦争報道は自社の新聞の売り上げ増加につながるから、宣伝を頑張って行ったという事である。

戦争報道は派手に、高揚するような記事、見出しを書いて国民をだましたのは、誰あろう。

新聞である

この複雑な国際政治、経済を、珍奇なイデオロギデーと云うフイルターを通さないとみられない人間が、大上段に書く社説、論説に意味があるのか?

そう思うのである。

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2018 SPRTS TOURING

今年も、だらだらとした、ツーリングを開催します

SPORTSTOURING ですが

スポーツカーぐらいの意識です。

11月24日・25日の二日間

集合場所 トヨタ博物館

集合時間 11時

出発時間 13時30分

宿泊場所 岩村山荘

晴れれていれば、奥三河を走りましょう。

参加可能車輛 出来れば ふるいオープンカー・・・新しくてもかまいませんが。

          車種不問

参加費用 15000円ぐらい

連絡は、コメント欄に記載してください。

メールアドレスを記載していただければ返信します

気の張ったツーリングではありませんので、お気楽コースです。

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夜の食事後のお話が主なツーリングです。

ここ数年、天気不順ですので、11月後半です

寒いのですが、よろしく願いします。

 

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精神的に疲れているので・・・・車の与太ばなし

先日、初めてR35に載せていただきました・・・・

ほんの少し運転させていただきました。

ついでに、待望だったR34も運転させていただきました(w)

R32、R33は、出て数年ほどで運転する機会があり運転させていただきました。

運転すると、いきなり、自分の運転技術が上がったような錯覚に襲われました。

我慢して曲がるという感じではなくスーと周る感じがした。

加速感もいい。

途中で、人間が偉いんじゃなくて車が偉いと気が付いたら・・・なんとなく、FDの方がいいなぁと・・・

この辺が天邪鬼(あまのじゃく)である。

R32は、乗って珍しく感動したのである・・・手放しでびっくりと云う感じでした。

世代が違う感じがしたのは事実である。

最初に乗ったのは、名古屋高は、次が首都高速・・・・

よく回るエンジン(RB26は、プリンスG型系だからよいのだと思うのだが・・)、良く廻る車体・・・旋回性能が良くて、足元もしっかりしている感じがした・・・・

が、下りのカーブが何となく前のめり感があった。

ついでに言うのであれば、動き出すときの重さが気になった。

この車重いんだなぁ、と気が付いた(当たり前である)。

オーナー曰く、ブレーキパッドの減りが早い・・・さもありなんと思った。

(彼は、今回のR35のオーナーなんですが・・・R32に、長年(出てから2年ほどで購入している)乗って感じたことを聞くと、

金がかかる・・・車体が重いので、足回りのメンテに金がかかる…とぼやいてました。)

結局、この人、R32→R35なんですが・・・もう爺(64歳)さんなので、最後の車はと思ってて、車検の時に、R35試乗したらいい感じでさぁ・・・・

で、買ったらしい(金があるからいいなぁ・・と)。

おかげで、乗せてもらえましたが・・・

R32は、最初からノーマルである。

ブレーキパットが純正じゃないそうである。

10年ぐらい前に、足回りのオーバーホールを行ったら・・・100万円超えの請求が来たそうな・・・交換可能なパーツは全部交換したそうな・・・

五年おきにマウント、ブッシュ類は交換・・・

現在、中年の息子さんが通勤でご使用中・・・・息子さんはいつもお父さんのお古・・・R32の前は、ハコスカのGTR(クーラー付き)であった。

そのあと、運転したのが、もう少し古いR32のブーストアップ版でした。

首都高速を走らせもらった時

そんなにスピードは出ていないのですが・・・・

まぁ・・・100プラス…キロぐらいで・・・

目が悪いので、夜は結構怖いし、

ものすごーく速い方がいるので、ドキドキしながら運転しましたが・・・

直線ポイ下り坂は、変な重みは感じませんが、ゆるーいカーブの下り(どこと云われるとよくわかりませんが・・・・もう忘れた・・・・)だと、エンジンが前にである感じ・・・表現が難しいのですが・・・なんとなく、ノーズが押し込まれるような感じがしていたと思う。

当時の手帳を見ると、「重い」と書いてあるだけである・・・・

昔もう20年ぐらい前ですが‥乗せてもらったR33は、旅のお供でした。

名古屋高速と東名阪から阪神高速・・・への旅に同乗、途中で運転させられましたが・・・・R32よりも、私的には好きである。

デザインは・・・・ちょっと勘弁してほしいレベルであるが・・・

何となく、旋回性がいい感じがした・

クー・・・・と廻るのではなくて、

クイ・・という感じがした(ような気がした・・・・)

ただ、やはり急な下り坂の旋回は前荷重で、重ーい感じと、ノーズの重さが前面に出るような感じがした。

R33で、東名阪から、神戸まで行き、神戸から大阪を抜けて京都へ行きましたが・・・何となく、街中をひょいひょい走る車ではないなぁ・・・と

何となく、自重がじわじわ来る感じがしました(もう10数年前)

で、今回のR35は、当然様にドノーマル・・・・

外は40度を超えるような日でしたが・・・快調でした。

でも、なんか、自分向きではないなと・・・でかいし、重い

でも速いし、快適である。

いい車だと思うが、欲しいとは思わない・・

何となく、エンジンの感じが好きではない。

エンジンで走っているという感覚ではなく、ようやく、シャーシとエンジンが程よくマッチングした感じがしました・・・が・・・

高速の運転では気にならない大きさですが、東海北陸道みたいに対面交通があるところはちと怖い感じ・・・・ちょっと大きいなぁと、

追い越し車線の加速は、感涙ものである(後ろにパトカーが居ない前提ですが)

名二環、東名、東海北陸自動車道を・・・・びゅーーーーーーんと行きました。

ストレスのない加速は気持ちいいいいいいいです。

運転中の話の中で、34乗ったことないいですよねぇ・・・というと、爺さんの後輩(大学の後輩、62だそうである)が、持ってるから聞いてあげるわ・・・

と・・・携帯で即電、たまたまいました…家に・・・

東海北陸道を途中で降りて・・・その人の家へ行くとエンジン掛けて待ってました・・・

再び、東海北陸自動車道へ・・・・・この車は、ブーストアップバージョン・・・

色ブルーメタリック・・・

無理無理3人乗りで・・・

オーナー「踏んでいいから・・・」っとおっしゃいますが

交通違反も怖くて踏めませんが・・・

何と云うのだろう、買いたいとは思わないが・・・ええ車だぁと

重い点は変わらないが、エンジンの突出した重さの悪癖は感じられなかった。

ついでに云うのであれば、旋回性能が、異様にいい感じがした。

R33のクイ、ではなくて、キュッキュッという感じである。

何となく、R32.33.34の系列は、34で、完成形かなと云う感じがしました。

非常い僭越ですが、35は、32から34とは違う世代の車であるなぁと・・

でも、重い車は好きになれないなぁと・・・

で、一番最近のお気に入りは・・・と云えば・・・LCのハイブリットが普通に乗るには一番いいかなぁ・・・と

それこそ、40年ぐらいの腐れ縁の方車に乗せていただきました・・・街中を乗るにはいい感じではないかと・・・

で、最近珍しく、今売っている車で欲しいと思った…が

貧乏で買えない・・・なぁと

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久々に車の事でも・・・・

先日、SAというかサバンナRX7を見た・・・

オリジナルぽい緑色でしたねぇ

SAは、一度だけ運転したことがあります。

もう30年以上前の事です。

たまたま知り合ったおじさん(もうん死んでしまいましが・・・)のお友達が乗っていた関係でFC乗りのご友人と車を見せてもらった。

そのおじさん、ノーマルのRX-3も持ってました・・・・

SA乗ってみる?と云われて、FD乗りの兄ちゃんは、喜んで・・・乗りました。

蟹江の近くの人でしたので、東名阪走っておいでよと・・・

私、同乗で、東名阪を・・・・・・

桑名まで行きました。

帰って来る時私の運転

回転音が金属的で、加速がものすごくよかった

ハンドリングは。。。当時語るほど乗ってなかったのですが・・・軽い

丁度、良い感じで旋回する感じでした。

そのあとで、友人のFC運転するとノーズが軽い

ちょっと怖い感じがした。

で数年後、FDが出て、これまたご友人がお買い上げ

東京にいたころだったので、新車のFCを夜の首都高へ・・・・・

ひたすら怖かったんですが・・・

ノーズは異様に軽い、何となく、接地感がなくて、スパンスパン動く感じがした・・・

で、個人的には、SAが一番いいかなぁと

RX-3は、暴走族仕様ではなくて、普通の乗用車バージョンでした。

珍しかったんですが、その人のお父さんが持ってた車で、その前は、コスモスポーツに乗っていたお父さんだったそうで・・・ロータリー命みたない、当時得云えば暴走ジイサンだったらしい。

コスモスポーツは、追突されて廃車になったそうで、そのあとはロータリークーペで、その次がRX-3だったそうです。

SAも元々は、その人のお父さんの車だったそうですが、納車されて3か月目に卒中で亡くなっしまい、そのままそのおじさんが乗ることに。

RX-3の方が乗りやすかったそうですが、暴走族に絡まれるので、SAが主になったそうです。

土蔵に、RX-3はしまわれてそのまま年月が過ぎて、SAが故障したときに、そういえばという事で復活させたそうです。

で、RX-3は、これは、車体も程よく重くて、エンジンの出力とマッチングした感じでいい感じでした。

RX-7よりも、何となく乗ったら楽しいかなぁ?と云う感じでした。

で、先日、RX-7(SA)を久しぶりに見たので、何となく懐かしくなって、その人の家を探し探し行ったら・・・・・・

更地で、草ぼうぼう・・・・・近所の人に聞いたら、10年以上前に、息子の保証人だったので、家も土地も取られて、破産して、近所のアパートに住んでいたが、数年前に亡くなったと聞かされてショックを受けました。

車は?と聞くと

そのおじさん・・・サバンナなぁ・・・と

SAは、最後まで持っていたそうで・・・アパートの駐車場で朽ちていたと云っていたのを聞いてこれまた、ショックで・・・

ねぇ

最近、コスモスポーツに乗りたくて仕方がないのだが・・・

金額的にちょっと無理で、

SAがよかったという感じがあって、SAいいなぁと・・・・

ヨタ最近乗ってませんねぇ…そういえば・・・

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名古屋国技館なんて知らんわぁ・・・・

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大正3年から大正13年までに東区南外堀町(最終の町名)に存在した、国技館です。
東京の國技官の盛況に揺り動かされて、全国に数か所、国技館が建設されました。
名古屋でも、現在、名城小学校のある場所に存在していました。
相撲専用の場所と云うわけではなく、式典集会場サーカスの会場として利用されました。
名古屋市史のよると、政治的な集会には何度も使われた模様で名古屋普通選挙運動、労
働運動等の集会にも使用されました
名古屋市市政30年記念の式典も開催されており、記録写真があります。
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収容人員8000人でした。
8000人の収容人は過大でした。
おかげで10年で取り壊されしまいました。
この後、名古屋には名古屋市公会堂が完成するまでは大規模な演舞場は存在しませんでした。
当時、電飾が流行りだったようで電飾の写真があります
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取り壊された資材は、関東大震災の復興資材に使用されました。
地図で確認できるのは、大正4年松岡明文堂 大正7年(中区富田屋書店)
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大正9年(大阪の旅行案内)の地図には記載がありません。
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中京デトロイト構想の終焉である キソコーチ號について

学会の関係でせっせと資料を調べる日々が続いています。

で、他の本の引き写し的な記述の多い本には辟易としています。

昔、トヨタスポーツの事を調べていたころ、昔に書かれたものは間違いが少ない。

当時25年ぐらい経過していた時点で、その時点の記述にはやたらと誤りが多いことに気が付いたことがある。

ルーフが、プラスチック・・・と云うのが結構多かったかな。

まぁ、どうでもいい事なのだが、雑誌に書いてあるとそれが本当だと思う人が多くて困るという事である。

ここ数か月は、電気バス、電気自動車、アツタ(あつた)號関係と、キソコーチ号について調べを進めている。

キソコーチ号とは、本邦初の乗合自動車専用シャーシで作られたバスの事である。

「キソ・コーチ」(「キソコーチ」「キソ」と云う記載もある)号である。

コーチは、バスの意味である。

製造元は、豊田式自動織機(現在の豊和工業)である。

このキソコーチ号は、「アツタ號」「みずほ號」に続く「中京デトロイト構想」の仕上げと云うか終焉を飾った車輛である。

中京デトロイト構想自体は、当時の名古屋市長の大岩氏が、市議会の演説で、中京地区における、次の産業として軍需ではない民生の産業をどう興していくのかを訴え、次の中京地区の産業として自動車工業の設立提言したと言われている。

大岩市長自身が、自動車に造詣が深かったわけでも、自動車が好きだったわけではないようである。

あくまでも、政治家の地域の産業振興とと云う点で尽力をしたと云えるのだと思う。

名古屋市公報で、昭和4年から7年までの年頭の所感では一切触れられていない。

(ちなみに、中京とは、現在の感覚の中京地域ではなくて、東の京、東京に対抗して、京都と東京の間に位置する中間の「京」という意味合いである。名古屋イコール中京である。)

当時の名古屋地区は、主たる産業は、繊維、木工、時計、自転車のような軽工業に毛の生えた程度の産業であり、世の中の好不況に直接的に打撃を受ける工業であった。

大岩市長は、裾野の広い自動車の製造で、軍需ではなくてはなくて、民需の産業を興すべきであると訴えたのである。

その民需の目玉として登場したのが、自動車工業であった。

 大岩市長の演説(昭和7年)よりも以前の昭和5年に、中京地域の当時の大企業(資本金 当時の100万円、現在換算すれば30億円の規模の企業)は、自動車産業への参入を計画していた。

 そうして、昭和5年ごろ名古屋地区での多くの企業の自動車工業への進出がうわさされ、川越庸一氏(大同メタルの創業者)に、自動車産業が興りつつある工業都市というイメージを植えてけ、呼び寄せるまでにもなっていた。

名古屋市は、自動車工業への具体的な支援は何もしていない。

と云うか、予算的にできなかったというべきである。

単に、市長が、産構振興の一端としての希望を演説で行ったのみである。

自動車工業が金がかかることは誰もが衆目した意見である。

三井合名会社は、大正10年以降、自動車工業への進出を考えてはいたが、現実的には、三井グループの資金融通が厳しかったので、進出を断念したという経緯がある。

当然の様に、中京地区でも、一社では資金的に厳しいと判断して、四社が集まってとりあえずコピーを作ってみようという事で完成したのが、アツタ號である。

アメリカのナッシュの1931年型(8か、10なのかよくわからい)完全コピーを目指したのである。

よくわからには、すべてを自家製、と云うか国産品で生産をするという発想なのか、主要部品は輸入品を使用すると考えていたのかひょく判らない。

(原型のナッシュは、一部で撓(たわ)みベアリングを使用していたので、日本車輛は、日本精工に撓みベアリングを発注している。日本精工では、注文に応じて試作と云う位置づけで作成納品している。

 この点から考えれば、多くの部品を国産品で賄おうとしていたという推論は成り立つ。

 謎なのは、気化器はどうしたのかという素朴な疑問である。

 気化器を生産していたのは、戦前は数社(指定業者は、3社)しかない。

 社史等で、調べきれていないので何とも言えないが気化器は輸入品を使用した可能性が高い様に思われる。)

 アツタ(あつた)號の製造に関する運転資金は、一社当たりで、100万円づつの出資で、400万円(120億円)である。

 大体現在の価値で3000倍と考えればよい。

 明確に答えれば、400万(120億))円ではでは、自動車製造はおぼつかなったというのが正直な処ではないかと思うのである。

 日本産業(日産)の資本金は、1000万(300億)円である。

 しかも当初の計画は、FORD、GMへの部品供給、GMとの合弁による自動車製造がが目的であった。

 日産は、結局、つぶれたグラハムページの工場設備(図面一切、移設後の技術指導も含む)を、瓲いくらでで購入して自動車製造に入る。

 だた、トラックの80型は試作さえない図面の状態であった。

 工場設備、金型もすべて輸入し、50トンプレス機さえも輸入した。

 (この50瓲プレス機を移送前に、日産から許可をもらいスケッチし、後の某社の自家製の50瓲プレス機が出来上がる。)

 中京地区の4社の出資400万円は、昭和9年までに2台のアツタ號を生産したに過ぎない。

 豊田自動織機は、豊田喜一郎氏の頑張りと、多くの人の助力で自動車部に対して1200万円(現在の金額で360億円)の投資ができた。

そうしてようやく、自動車ができた程度であった。

 昭和10年、豊田式自動織(現在の豊和工業)は、戦前、キャブオーバーの國産バス製造した

 製造台数は、12台である。

 豊田式自動織機の株主は三井系が90%を占めていたので、三井合名会社の自動車工業への意思を感じることができる。

 12台と云うのは、当時自動車部に主任設計者川越庸一氏の半生を取材した自伝とも云うべき書物と、大同メタルの10年史に記載されている。

1ダース分のパーツの一括購入して生産を行った。

エンジン、足回りは米国製

シャーシボデイは日本製とした。

豊田式自動織機は、シャーシと足回りをくみ上げて、販売したものである。

試作は、車体まで製造してのテストであった。

車体は、名古屋車體(日本車輛の子会社、昭和20年の空襲で、すべて焼けてしまい消滅した会社)で生産していた。

名古屋市のバスの車体は、シボレーを大量導入した時にから、名古屋車體で生産しをしていた。7

しかし、名古屋市交通局「30年史」、「50年史」には、シャーシを5台購入と記載がある。

後段で、キソコーチ後の使用台数が表に記載されている。

昭和10年5台

昭和11年11台

昭和12年12台

昭和13年12台

昭和14年12台

昭和15年10台

昭和16年10台

昭和17年10台

昭和18年10台

昭和19年 0台

つまりは、生産台数は12台で、名古屋市電氣局(市營乗合自動車)は、最大で12台運用していたという事になる。

生産台数12台の全量を、名古屋市が購入していたことになる。

ところがである、ある博物館の作成した資料「中京デトロイト計画」の項には、5台を名古屋市営バスが購入と記載してある。

これは、資料のつまみ食いから生ずる間違いである。

名古屋市電氣局(のちの交通局)の三十年史資料を参考している。

五十年史も、のちの70年記念誌、77年尾記念誌も三十年史の劣化版だから参考にはならない。

後段に使用事績があるので、よく読めば、使用台数は判明する。

しかし、つまみ食いなので気が付かない。

川越庸一氏の自伝的文章と、大同メタルの10年史には、1ダース分(12台)のパーツを輸入し生産と書いてある。

 今回は、某博物館の古い企画展のパンフレットを読み直して・・・気が付いたのであるが、沢山の資料を調べていると、ここ20年間ぐらいの自動車工業の歴史に関する著作で明らかに間違っている記述を多数見つける。

 大阪の大学教授で、機関車と自動車工業を論じた本は、事実誤認が多数あり、出典にも書いてないようなことが書いてるのを見てなんだか読むのが嫌になってしまい。

 最終的には、一小節で、2か所ほど間違に気が付いた時点で、僭越ではあるが

 「書いてある内容は本当に正しいのかと?」と云う疑問が沸き起こり

 ベアリングの話だったので、日本精工の周年史に記載があるというので、わざわざ、古本屋で探してその本を購入して確認をしたりもしている。

 しかも、出典の記載がいい加減な書き方で、何冊も閲覧をすは目になったので、出典ぐらいきちんと書けよと云いたい。

 結局、当事者が書いたものか、当時の雑誌(専門誌)を探して読むしかないという結論に達しつつある。

 楽しいんですけどね。

 時々、素晴らしいくよく知らべてある本に出合うと、目を皿のようにして読み込むのである。

 

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