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中京デトロイト構想の終焉である キソコーチ號について

学会の関係でせっせと資料を調べる日々が続いています。

で、他の本の引き写し的な記述の多い本には辟易としています。

昔、トヨタスポーツの事を調べていたころ、昔に書かれたものは間違いが少ない。

当時25年ぐらい経過していた時点で、その時点の記述にはやたらと誤りが多いことに気が付いたことがある。

ルーフが、プラスチック・・・と云うのが結構多かったかな。

まぁ、どうでもいい事なのだが、雑誌に書いてあるとそれが本当だと思う人が多くて困るという事である。

ここ数か月は、電気バス、電気自動車、アツタ(あつた)號関係と、キソコーチ号について調べを進めている。

キソコーチ号とは、本邦初の乗合自動車専用シャーシで作られたバスの事である。

「キソ・コーチ」(「キソコーチ」「キソ」と云う記載もある)号である。

コーチは、バスの意味である。

製造元は、豊田式自動織機(現在の豊和工業)である。

このキソコーチ号は、「アツタ號」「みずほ號」に続く「中京デトロイト構想」の仕上げと云うか終焉を飾った車輛である。

中京デトロイト構想自体は、当時の名古屋市長の大岩氏が、市議会の演説で、中京地区における、次の産業として軍需ではない民生の産業をどう興していくのかを訴え、次の中京地区の産業として自動車工業の設立提言したと言われている。

大岩市長自身が、自動車に造詣が深かったわけでも、自動車が好きだったわけではないようである。

あくまでも、政治家の地域の産業振興とと云う点で尽力をしたと云えるのだと思う。

名古屋市公報で、昭和4年から7年までの年頭の所感では一切触れられていない。

(ちなみに、中京とは、現在の感覚の中京地域ではなくて、東の京、東京に対抗して、京都と東京の間に位置する中間の「京」という意味合いである。名古屋イコール中京である。)

当時の名古屋地区は、主たる産業は、繊維、木工、時計、自転車のような軽工業に毛の生えた程度の産業であり、世の中の好不況に直接的に打撃を受ける工業であった。

大岩市長は、裾野の広い自動車の製造で、軍需ではなくてはなくて、民需の産業を興すべきであると訴えたのである。

その民需の目玉として登場したのが、自動車工業であった。

 大岩市長の演説(昭和7年)よりも以前の昭和5年に、中京地域の当時の大企業(資本金 当時の100万円、現在換算すれば30億円の規模の企業)は、自動車産業への参入を計画していた。

 そうして、昭和5年ごろ名古屋地区での多くの企業の自動車工業への進出がうわさされ、川越庸一氏(大同メタルの創業者)に、自動車産業が興りつつある工業都市というイメージを植えてけ、呼び寄せるまでにもなっていた。

名古屋市は、自動車工業への具体的な支援は何もしていない。

と云うか、予算的にできなかったというべきである。

単に、市長が、産構振興の一端としての希望を演説で行ったのみである。

自動車工業が金がかかることは誰もが衆目した意見である。

三井合名会社は、大正10年以降、自動車工業への進出を考えてはいたが、現実的には、三井グループの資金融通が厳しかったので、進出を断念したという経緯がある。

当然の様に、中京地区でも、一社では資金的に厳しいと判断して、四社が集まってとりあえずコピーを作ってみようという事で完成したのが、アツタ號である。

アメリカのナッシュの1931年型(8か、10なのかよくわからい)完全コピーを目指したのである。

よくわからには、すべてを自家製、と云うか国産品で生産をするという発想なのか、主要部品は輸入品を使用すると考えていたのかひょく判らない。

(原型のナッシュは、一部で撓(たわ)みベアリングを使用していたので、日本車輛は、日本精工に撓みベアリングを発注している。日本精工では、注文に応じて試作と云う位置づけで作成納品している。

 この点から考えれば、多くの部品を国産品で賄おうとしていたという推論は成り立つ。

 謎なのは、気化器はどうしたのかという素朴な疑問である。

 気化器を生産していたのは、戦前は数社(指定業者は、3社)しかない。

 社史等で、調べきれていないので何とも言えないが気化器は輸入品を使用した可能性が高い様に思われる。)

 アツタ(あつた)號の製造に関する運転資金は、一社当たりで、100万円づつの出資で、400万円(120億円)である。

 大体現在の価値で3000倍と考えればよい。

 明確に答えれば、400万(120億))円ではでは、自動車製造はおぼつかなったというのが正直な処ではないかと思うのである。

 日本産業(日産)の資本金は、1000万(300億)円である。

 しかも当初の計画は、FORD、GMへの部品供給、GMとの合弁による自動車製造がが目的であった。

 日産は、結局、つぶれたグラハムページの工場設備(図面一切、移設後の技術指導も含む)を、瓲いくらでで購入して自動車製造に入る。

 だた、トラックの80型は試作さえない図面の状態であった。

 工場設備、金型もすべて輸入し、50トンプレス機さえも輸入した。

 (この50瓲プレス機を移送前に、日産から許可をもらいスケッチし、後の某社の自家製の50瓲プレス機が出来上がる。)

 中京地区の4社の出資400万円は、昭和9年までに2台のアツタ號を生産したに過ぎない。

 豊田自動織機は、豊田喜一郎氏の頑張りと、多くの人の助力で自動車部に対して1200万円(現在の金額で360億円)の投資ができた。

そうしてようやく、自動車ができた程度であった。

 昭和10年、豊田式自動織(現在の豊和工業)は、戦前、キャブオーバーの國産バス製造した

 製造台数は、12台である。

 豊田式自動織機の株主は三井系が90%を占めていたので、三井合名会社の自動車工業への意思を感じることができる。

 12台と云うのは、当時自動車部に主任設計者川越庸一氏の半生を取材した自伝とも云うべき書物と、大同メタルの10年史に記載されている。

1ダース分のパーツの一括購入して生産を行った。

エンジン、足回りは米国製

シャーシボデイは日本製とした。

豊田式自動織機は、シャーシと足回りをくみ上げて、販売したものである。

試作は、車体まで製造してのテストであった。

車体は、名古屋車體(日本車輛の子会社、昭和20年の空襲で、すべて焼けてしまい消滅した会社)で生産していた。

名古屋市のバスの車体は、シボレーを大量導入した時にから、名古屋車體で生産しをしていた。7

しかし、名古屋市交通局「30年史」、「50年史」には、シャーシを5台購入と記載がある。

後段で、キソコーチ後の使用台数が表に記載されている。

昭和10年5台

昭和11年11台

昭和12年12台

昭和13年12台

昭和14年12台

昭和15年10台

昭和16年10台

昭和17年10台

昭和18年10台

昭和19年 0台

つまりは、生産台数は12台で、名古屋市電氣局(市營乗合自動車)は、最大で12台運用していたという事になる。

生産台数12台の全量を、名古屋市が購入していたことになる。

ところがである、ある博物館の作成した資料「中京デトロイト計画」の項には、5台を名古屋市営バスが購入と記載してある。

これは、資料のつまみ食いから生ずる間違いである。

名古屋市電氣局(のちの交通局)の三十年史資料を参考している。

五十年史も、のちの70年記念誌、77年尾記念誌も三十年史の劣化版だから参考にはならない。

後段に使用事績があるので、よく読めば、使用台数は判明する。

しかし、つまみ食いなので気が付かない。

川越庸一氏の自伝的文章と、大同メタルの10年史には、1ダース分(12台)のパーツを輸入し生産と書いてある。

 今回は、某博物館の古い企画展のパンフレットを読み直して・・・気が付いたのであるが、沢山の資料を調べていると、ここ20年間ぐらいの自動車工業の歴史に関する著作で明らかに間違っている記述を多数見つける。

 大阪の大学教授で、機関車と自動車工業を論じた本は、事実誤認が多数あり、出典にも書いてないようなことが書いてるのを見てなんだか読むのが嫌になってしまい。

 最終的には、一小節で、2か所ほど間違に気が付いた時点で、僭越ではあるが

 「書いてある内容は本当に正しいのかと?」と云う疑問が沸き起こり

 ベアリングの話だったので、日本精工の周年史に記載があるというので、わざわざ、古本屋で探してその本を購入して確認をしたりもしている。

 しかも、出典の記載がいい加減な書き方で、何冊も閲覧をすは目になったので、出典ぐらいきちんと書けよと云いたい。

 結局、当事者が書いたものか、当時の雑誌(専門誌)を探して読むしかないという結論に達しつつある。

 楽しいんですけどね。

 時々、素晴らしいくよく知らべてある本に出合うと、目を皿のようにして読み込むのである。

 

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