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関東自動車工業の資料など

昨年来、関東自動車工業の社史を探しておりました

古本屋になかなか出てきません

トヨタ博物館の図書館らしき場所(図書館法で定める図書館ではありませんので・・)には、その手の本がそろっているので随分参考にさせてもらった。

と云うか、現在も、全網羅的な調査をしているので、随分と、参考にさせていただいております。

一般的ではない社史、ムック的な本が結構そろってはいます。

パブリカ、トヨタスポーツ関係は・・・・あんまりないですが・・・

先日、古本屋のサイトを見ていると

「関東自動車工業15年史」がありました。

即、ぽちっと

で、元社員さんお遺品らしく、中に、座席のスプリングのスケッチがありました

スプリングと台の部分の結束状況が書かれていました。

昭和50年当時の職制一覧も挟んでありました。

で、昨日ふたたび探すと

関東自動車工業30年史

関東自動車工業40年史

が出てました・・・

ちとお高いのですが、ここで買わないと、永遠に買えない可能性があるので、

即、ぽちっと・・・

三冊で・・・1万円超え

まあ、古本は出会いですから、買わないと二度と出会えない可能性もあります。

だから高くても(限度があり、1か月2万円以内と決めてます)、買うことしばし。

先月は、戦前のシボレーとフォードの取扱説明書を買いました・・・

金額は・・・15年前ぐらいのキャブが3個買えるぐらいの値段でした。

関東自動車工業が、トヨタ自動車の外注メーカになった経緯が非常に不鮮明でしたが、神谷正太郎氏の関係と云うか、トヨタ自動車販売系の資料で、明快に書いてあり非常にすっきりした感じを受けています。

関東自工は、戦後、中島製作所が戦時中に製造した殿筋バスのSKS三型の修理で、自動車工業へ参入しました。

トヨタの外注となり、SD型の製造を受け持ちます

荒川車体、三菱航空機大江工場の三社でボデイ生産を行いました。

その中受注した総数の中から、デンソー号のプロトタイプを生産しています。

その資料が必要で、関東自工の社史をさがしていました。

デンソー号については、別途、論文を書くつもりなの資料が必要なのです。

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合資会社 ヒノデ自動車製造所

大正9年の名古屋市内の工業案内の本を読んでいると、こんな広告があった。

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合資会社ヒノデ自動車製造所と云う会社の広告があった自動車(架装?)を製造していた会社があったようである。

ちなみに、この会社の関する資料(現時点、2018.10.26)ではは、この表裏2枚の広告しかない。

名古屋の企業関係の一覧にさえ記載がない。

次のページにはこんなことが書いてある。

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合資會社 ヒノデ自動車製作所HINODE MOTOR WORKS MANUFACYURER & INPORTERS

名古屋市南区熱田櫻田

専売局停車 東へ入る

電話

本局6061番

℡ №6061

営業種目

自動車製造販売

自動車輸入販売

自動車修理改造

自動車付属品販売

自動車ボデー塗替

ガソリン発動機製作

位置は、「名古屋市南区熱田櫻田 専売公社電停東入る。」とのみ記載がある。

そこで、まず位置を探そうと思いました。

戦前の名古屋で「専売公社前」電停とはなにか?

電停とは、路面電車の駅である。

当時、名古屋電氣鉄道(後に名古屋市営となる)の路面電車の駅このとである

いわゆる熱田線専売局とは、現在の金山総合駅から市民会館までの広範囲にあったタバコの専売公社の工場の事です。

戦後、現在の名古屋ドームの北側へ移転しました。

「専売局停留所」とは、「専売局前電停」の事である。

古沢町から金山橋までの間にあった電停の様である。

東別院→東雲町電停→古沢町電停→専売局前前電停→金山橋電停→金山橋中央線金山駅)路面電車)

下の地図では、真ん中の点線が、路面電車

路面電車の左横の赤い四角の部分

「専売支局 税務管理局 税務署」と記載

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つまり、現在の金山の市民会館の東辺りにあったと目星をつけた。

地名の熱田櫻田この地名は、現在はない

ちなみに、名古屋市の地名の変遷を確認したが、熱田櫻田と云う地名はなかった。

わざわざ、熱田をつけるという事は、他にも「櫻田」と云う地名があった可能性がある。

電停前東へという事は、地域的には、金山から東へ坂を下る(名古屋台地から下った)ところになる。

寫眞を見ると、のこぎり屋根があり正門がある。

戦前の南区全図(熱田区はまだない時期のもの)

を見ると確かに、専売局のを東手に「櫻田町」の北端が見える

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そこで、当時の電話帳を探してみた。

大正9年の電話番号帳

すると、あったのである

長距離電話加入者 本局6061

合資会社ヒノデ自動車製作所 南 熱田東 櫻田57 業種記載なし

ところがである、地番が57である

戦前の土地法典を見ると、57番は、非常に狭い。

件の工場の写真がのノコギリ屋根の工場、正門のセットの外観から類推するに、正門は、北向きという事になる。

ノコギリ屋根の採光部は、北向きである。

すると、57番は、事務所があった場所と推定ができるのである。

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 しかしがら、昭和5・6・9・12・16・19年の電話番号帳には、

 ヒノデ自動車製作所は無くて、

 「ヒノデ紡機製作所 瑞穂73-0601 熱田 櫻田 47」となっている

 土地宝典で確認すると、47は北向きに接道している可能性がある。

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このヒノデ紡績製作所の事は、工業系の、いわゆる会社案内に記載がある

昭和2.5.9年の工業案内には、上記の織機関係のスピンドル製造会社が、熱田区櫻田にあることが分かった。

ヒノデ紡機製作所の代表は、長谷川さんと云う。

名古屋工業会の会員名簿に氏名がないので、名古屋工業専門学校(現 名工大)の関係者ではないようである

昭和11年5月の地図

品川製作所、渡邊伸銅と云う名称は記載がある(ただしこれは。広告なので、広告を出すような会社でなかった可能性もある。)

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参考に、明治43年の地図には、桜田町の記載はない見るからに農地である。

大正以降の新開地であることがわかる。

明治時代から、現在の東邦ガスがある。

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ヒノデ紡績製作所は、工業系の案内を読むと大正9年2月の創業の様である。

しかしながら、大正9年12月の電話帳には記載がない。

ヒノデ自動車製作所=ヒノデ織機製作所かどうかはわからない

南区櫻田47番 名古屋市の土地台帳によれば、

櫻田57番は、個人所有 代表の方とは名字が違いました。

櫻田48番は、個人所有 代表の方とは名字が違いました。

付近で、ヒノデ製作所の所有の記載はありません。

:昭和34年の住宅地図(住宅地図は、昭和34年から)を見ると、まだありました。

同じ場所に、規模は小さくなり、名称も変わっていましたが。

「ヒノデ織機製作所」は、「ヒノデ製作所」に替わっていました。

専売局(現市民会館)から真っすぐ降りてくる道の近くに。

規模は、4分の1程度です。

このころは、熱田區桜田町ではなく 中区桜田町となっていました。

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現在の地図(掲載できませんが)を見ると

東邦ガス本社の北の同じ場所に

ヒノデ製作所があります。

ちょっと、びっくり。

20181026初出

20181027加筆訂正抹消

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コーションプレート

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エアクリーナーケース用のコーションプレート探すの面倒だなぁ・・・・

と思い、製作者へ聞くと、もうない・・・・・・

がーん・・・

で探したらすぐ出てきた。

取りあえずこまらんぐらい出てきたので一安心

ご参考 オリジナルの程度のそこそこのケース

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溶接部分を盛ってもらって削ると再メッキできるかなぁ

パブリカオーナーズクラブのTAMの集まりちまっと顔を出そうかなと

エアクリーナーケース見たい人いたら持っていくけど?

と書いてみる。

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お葬式

友人のお葬式に行きました。

10年ほどのお付き合いでした。

人が死ぬという事は寂しい事です。

誰であれ、なくなった瞬間に、その人の脳に蓄えられ幾多の知識は、すべてが弾きだせない知識となってしまいます。

アインシュタインの脳を精密に切り分けて、研究してほしいと渡していた解剖医学者がいた。

しかしである、生体の静電気を発しないからだ。

通電していない脳髄には意味がない。

バックヤードツアーで、等々と説明してくれる姿は素晴らしいものがあった。

確実な知識を仕入れたいという欲望は、すさまじいものがあった

KDFワーゲン(民生型乗用車)とキューベルワーゲン(軍用車両)のシャーシが同じと云ったら、

「えー知らない、えーそうなの、調べてみるわ」と

調べたかどうかは知らない。

でも研究熱心だったことはよく覚えている。

寂しい

と云う気持ちは何処からくるのだろう

もう会えない、話せないからだろうか?

今日、知ったことに、心の変遷を知ることができた

学生運動の盛んだったころ、そう云った行動へ向かわなかった理由も何となくわかった気がする。

温厚な、非常に、いい人と云う形容詞が当てはまる人だった。

享年69歳であった

惜しい人を早く亡くしたという気がする。

彼を通して、多くの友人ができた。

友が、友を呼ぶ

彼は、天国で運転できなかった車を運転してご満悦かもしれない

肉体と云う束縛を解かれと云う言葉は、今日は、何となく心に響いた。

30年振り位に歌った讃美歌は、古い昔を思い起こさせた。

もう一度会いたいなぁと思う。

でも、もうさようならです。

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二重国籍を推奨する新聞は、私利私欲にあふれている

日本経済新聞は、時々、変なことを書く

夕刊に、二重国籍を推奨するようなことが書いてある

考えてみよう

二重国籍の党首が首相になると、どちらの国の事を重く見るか?

ある二重国籍疑惑を晴らさない国会議員は、晴らせないのだろう。

晴らしたくない

この人自称ROC人であるが、子供はPOCへ留学させている

前回亡くなった某県知事の娘もPOCへ留学して、旦那は、POCの人間である

ある時から政治姿勢が変わったのは、娘を人質にされたのだろうという事であった。

二重国籍が有利と云う論調は、ビジネス上の有利さを喧伝しているが、ビジネスではある意味、有利かもしれない・・

しかしである、心情的に二重国籍と分かった瞬間に、相手は、信用しない。

ある外国人が、日本のパスポートでは入国できないと判ると、すかさず韓国のパスポートを出したというではないか。

これはいったいどうゆう事かと思う。

一般国民の不利益を被るような妄言の流布をするような新聞はなくなればいいと思うのだが?

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親しい人がなくなると寂しい

ある方が、亡くなりました。

トヨタ博物館に長く勤務されていたいた方です。

初めての出会いは、CG CLUB 旧中部支部の時代のTAMでのTTD

バックヤードツアーで知り合いました。

よくご存じだなぁと感心することしきりでした。

中部支部が、よくわからない理由で無くなり、多少縁遠くなりました。

しかし、中部支部を再開と云うか、再設立する際には、随分とご助力をいただきました。

個人的には、東次郎のトヨタスポーツを取材もさせていただきました。

深く幅広い知識をお持ちの方でしたので早い逝去には残念な気持ちでいっぱいです。

今日はバタバタしていて、少し転寝をしたときに

TAM TTDの打ち合わせの時に話をしたシーンが夢の中?の出てきました。

何年も前でまだ元気な頃です。

すると、話をした時の思い出のような感じで次々と出てきて、声まで思い出しました。

ものすごく、悲しい気持ちが突然と隆起して、涙がぼろぼろとこぼれてきました。

ふと、表には出さないけれど結構、神経質だったなぁとか、

でも、珍しくいい人だったなぁと思った。

そうして、夕闇の迫る中、

ふと

自分で言うのも変だが、「寒いくらい一人だ」

と云う言葉を思い出した。

そうして、

こんな言葉も思い出した

「そうだ、生きようと思った」

私は私の道を生きよう、そう思った。Dsc01073

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エアクリーナーケースの事など

タマにはヨタの話でも

エアクリーナーケースは、二種類あります

いわゆる前期型と後期型

2本のねじ止め型、ウイングナット型

ウイングナット型は、在庫がないなぁ・・と

2本ねじは、2台分新品がある、中古が2個(オリジナルコーションプレート付き)

で、販売当時のケースは、ヘリに巻き込み補強が入っていました。

これを、貴重品と呼びます

わたくし、ケースの再メッキだっけで、2個で5万円ほど払いました。

(オリジナル再メッキ)

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この初期型は、なんで、補強の巻き込みが入っていたのかと云えば、鉄板が薄くてケースの強度が出なかったからです。

補給品は、後期型と同じ厚さの鉄板のプレスで、補強がなくても強度が保てたので巻き込みがなくなり、切り落としになりました。

この巻き込み補強リは、薄いので、ねじ補強版の部分でよく割れます。

このタイプのケースをほかに四個ありますが、あまり程度がよくないのであります。

ちなみに、初期のエアクリーナケースのコーションプレートは、0.8mm厚のアルミプレート製、1枚あったのだのだけれど行方不明

以前これを作ろうと思ったら意外と高かったので中止したことがある。

一品生産で頼んでみようかと思うのであるが、モノが出てこない。

新品は、20数年前に普通に出たときに買ったものです。

知人の方が、この貴重品を復元したそうなので、送られてきました。

結構いい感じである。

同型のプレス加工ではないので、若干の相違はあるものの、オリジナルとそん色ない出来である。

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コーションプレート付きがオリジナル再メッキ

プレスラインの各度、テーパーの角度に相違がみられますが、あまり問題はないと思います。

見てわかる人は皆無ではないかと?

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21081018初出

20181019 寫眞追加、説明追加

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ジェンダーレスと云いながら・・・

性的嗜好の件で色々と報道があるが、極めて政治的な道具と化しているのでどうでもいい感じである。

知り合いで、ゲイ(今どきは、ホモとは言ってはいけないかどうか知らない。)の人がいた。

ホモの痴情で殺された人も居る、少年を買って捕まった人もいる。

多分今でも、会社にも居る。

わるいけど、私から見たら性的嗜好なんてどうでもいいことである。

ただ、よくジェンダーと云う言葉を聞くのだが、

今日も「美人すぎる」と云う文言を見た

すると、普通、その業種につく人は、美人(これもジェンダーではないかと?)はダメという事なのか?

普通に、その関係に従事している人は、ブス、平凡な人しかなってはいけないという基準でもあるのかと思ってしまう。

言葉がりは好きではない。

しかし自分たちが都合のいい時だけ、ジェンダーという事を持ちだしすぎると思う。

つまりはダブルスタンダートであるという事である。

最近のマスコミの報道を見ていると、その傾向が非常に強い

外国人(特別永住者)の犯罪は、極力報道しない。

凶悪犯が、通称名を使っていると、通称名を使う。

政府の批判をすることだけが、マスコミの使命だと思っているのならば、それは大きな勘違いであろう。

新聞、テレビ、雑誌、待合なんかで見るとげんなりする。

芸能人のスキャンダルなんてどうでもいい。

昼のテレビはこの手か、食い物の話しかない。

なんだか最近、つまんねぇのが多い。

不倫には厳しいが、報道している側に、その手の人が多いことはすでに有名である。

本当に最近、こんなことばかり放映しているのであれば、電波の無駄使いと云う気がする。

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アツタ号と中京デトロイト化からの離脱企業のについて。

アツタ號の戦前の新聞書籍類の表示は、「アツタ号」である。

日本車輛の表記は一貫して「アツタ號(号)」である。

しかしながら、大隈鐡工所(現オークマ)の表記は、いつからかわからないが、ひらがなで「あつた号」と云う表記をしているである。

オークマの社史では「あつた号」と云う表記である。

「アツタ號」と「あつた号」、一時期、別物ではないかと疑ったこともある。

しかしである、「アツタ號」を、「あつた号」と最初に記載したと思われる本が発見できた。

オークマ創業100年史、創業70周年記念製品沿革写真集には、参考文献として「大隈栄一伝」が挙げられている。

その本は、大隈鐵工所の創始者である大隈栄一氏の自伝である。

自伝と云いながら他人が書いているので正確な意味での自伝ではない。

戦後、1950(昭和25)年に非売品として著述された「大隈栄一伝」(昭和25年2月10日発行 著者 中谷秀 発行所 大隈興行株式會社 名古屋市北区辻町一丁目32番地 非売品)である。

大隈栄一氏の死去が、25年2月5日であるから、計画的な出版であり、かつ、称揚するべき存在としての創業者である。

発行元は大隈興行株式会社である。

文中には、大隈興行の部長が検閲をしたように記述があるので、都合の悪いことは書かないという当時としては至極まっとうな伝記に仕上げてある。

著者の中谷秀氏は、内務省の元官員であった。

過去には、愛知縣内務部長を務めていたこともある者で、著述当時は、大隈鐵工所、大隈の関係会社東洋組網工業の顧問であった。

つまりは、創業者の自伝を、関係者が、雇用している者を使って書かせたという事である。

つまりは、悪いことは一切書くことはできないのである。

この自伝を読むと、非常面白い。

製麺機を引っ提げて、地方から名古屋に出てきた人である。

結局、大隈は、現在の機械メ―カーのイメージからは程遠い会社であった。

大正時代の工業館駅の本を読むと、製麺機の製造メーカーである。

自社の広告、大正3年ごろのものは、製麺機しか出てこない。

製網機も製造しているが、その製造にいたるくだりは、今なら訴えらえるような噴飯ものである。

途中で、中京デトロイト化について記述があり、そこで「アツタ號」の事を「あつた号」と記載している。

この記載が、不勉強なのか、単なる勘違いなのか、当時の占領軍に対する嫌味でわざわざ、カタカタ表記を、ひらがなにしたのかは判らない。

この所為であろうか、大隈鐵工所(オークマ)関係の社史等には「あつた号」と表記するようになった。

この書が、後のオークマの社史の対外的には間違った記録を記載する原因となった。

この本には、いわゆる、中京デトロイト化(中京自動車工業化)の枠組から最初に離脱したのは、大隈鐵工所であるにも関わらず、最後まで製造を主張し、製造を継続したように記載する。

萩野工場を、アツタ號の生産用に作ったと記載がある。

しかし、大隈鐡工は、岡本自転車自動車工業(のちの岡本工業)とほぼ同時(昭和10年)に、中京デトロイト化自事業から離脱している。

どちらが先に言い出したことかは不明である。

ある資料によれば、

「日本車輛製造株式会社、大隈鐵工所、岡本工業の共同製作による中型乗用自動車は、すでにアツタ號と名付けられ30台市場に出ている。

 昭和10年にアツタ號を10台製造したる後は共同製作を廃止、日本車輛製造株式会社が単独にてアツタ號の製作を置こう那う事となった。

が、車輪は、岡本工業所、機関、変速機はいずれも大隈鐡工所へ注文する方式をとってゐる。

 しかし、日本車輛においてもその生産設備だけは準備して既に試作して市場に出したものもあると云う事である。

 今後は、大隈鐵工所でも単独で、アツタA號を生産すべく研究計画をすすめつつあるからその市場にデビュウする日も遠くない。」

 と記載があった。

 

 名古屋の財界では、離脱したのは、大隈、岡本

 大隈は、別途、車両を生産しようとしていたという事であろう、それを拡大解釈しての、単独で継続としたのかもしれない。

 大隈は、ライセンス生産を目論んでいたという記述もあるが、昭和10年前後の情勢では、非常に厳しかったと思われる。

共同事業としての出資金100万円を実際に出資したのかどうかは、不明である。

岡本自転車自動車工業は、当該、自動車製造計画に参加時み、自転車の生産、軍需関係(航空機の部品等)の生産に追われて、不況知らずの体質であった。

岡本は、先進的なフォードシステムを自転車の生産販売に取り入れたことで、すさまじい量の自転車を生産し、販売、輸出さえしていたのある。

これは、単一車種の大量生産である。

しかも全国くまなく販売網を敷いて成功した。

岡本の目算は、自転車ができたのだから、利幅の大きい自動車も同じように生産すればいいと考えて、将来への投資と考えての参入であった。

日本車輛は、機関車、客車、ガソリンカーの受注生産が順調であったので、さほど深刻ではなかった。

ガソリンカー(ガソリン気動車)の成功もあって、同じ機関を搭載した自動車の生産を考えることは別段おかしくもない。

車體の生産もおこなっていたので、自動車の車体も製造できると踏んだのは間違いがない。

では大隈鐡工所の状況はどうであったか。

不況で青息吐息であった。

各種機械製品は売れず、新しい事業を考えなければ生き残れないと考えていた。

ちなみに、大隈、岡本は、生粋の愛知県民ではない。

いわゆる「来たり人」である。

つまりは、地元系の金融機関は当てにはできない。

(名古屋商工会議所作成の「中京要覧(昭和2(1927)年)」と云う冊子がある。

 

 この要覧には、120ページほどの小冊子で、名古屋地区の地勢、経済状況を対外的意宣伝するものである。

 ここの後半は広告である。

 この広告には、大隈鐵工所、岡本自転車自動車工業はない。

 つまりは、昭和2年当時は、工業部会のメンバーではあるが、主要な参加者とはみなされていなかったという事である。

 三菱内燃機製造所名古屋支社は、広告があるし、製造品目に「芝浦分工場 自動車」とある。

 日本車輛製造株式会社の製造品目に自動車はない。)

 

 大隈としては、新事業をと云うか、継続的に況不況に関係ない業種を社業にに組み込む必要性を感じていた。

そこで、自動車の製造をすべきと云う、大岩名古屋市長の口車に乗るようにして、中京デトロイト化への参加を決めた。

 大隈は、車体に類したものの製造実績はない。

 大隈は、初めて手掛けることなるエンジンの製造にまい進した。

 と云えば聞こえはいいが、現実は非常に厳しく、エンジンブロックのニッケル鋳造が出来なかった。

 仕方なく、豊田式織機外注に出したのである。

 大隈の当時の技術力ではエンジンの生産は至難の業であったと思われる。

 

 織機の製造もおこなってはいたが、残念ながら、織機のプレーンメタルベアリングで、摺動部分を回転させたことしかない者には、転がり軸受のベアリングは難物であったと思われる。

 国産の転がり軸受型のベアリングでは、エンジン用としては非常に不都合であった。

 試作と云いながら、売る気は満々であった。

 

 日本車輛はとしては、基本的に、アツタ號は受注生産を目論んでいた。

 日本車輛の生産方式はすべからく受注生産であった。

 生産した商品を売る方式ではない。

 機関車、客車等々の大きな、単価の高いものであれば当然受注生産となる。

 それらの商品は、買い手も決まっているし、売り手も限定されてはいる。

 自動車はどうかと云えば、買い手は沢山いる、売り手は、山のようにいる。

 しかも、車のサイズはより取り見取りである。

 その状態で、国産の自動車を買うい人がいたのかという事になる。

 ある記述によれば、バイクなどでは、国産車は、外車の半額でなければ売れない。

 信頼性もないので、わざわざ買う人はおかしな人としか言えないのである。

 試作車を生産後ほどなくして岡本、大隈は生産協定から離脱をしている。

 岡本、大隈は、それぞれ軍需が多忙になり生産自体に余剰もなくなり、かつ、受注生産の車の生産が余り売れないことに気が付いたのではないかと思うのである。

 軍需生産は甘い蜜である。

 昭和10年の新愛知新聞によるとキソコーチ号に付随した形で記載されている記事ではで、大隈は副社長と、その息子が自動車の生産に血道をあげていたように書いてある。

 キソコーチ号の生産時は、豊田式織機からの自動車生産へ参入の回答であった。

 豊田自動織機、愛知時計、岡本工業の動向も併せて記載がされている。

 しかし、豊田式織機(現豊和工業)に新設された自動車が、専用工場で生産したバスが、12台で生産が打ち切りになった時点で、国産自動車への希望は絶たれたのだと思う。

 当時、大隈は積極的に中京デトロイト化の覚書(協約があったと言われ、それぞれがその様に主張するのだからあったと感がられる)に積極的に参加した。

 大隈の生産したコピーエンジンはがどの程度あったかは伺い知ることはできないが、一台一台の一品生産だった思われるので、工業製品としては量産できないのだから致し方ない状態だった。

 日本車輛は、当時ガソリンカーを生産しており、エンジンは自社で作れたのであるがざわざわ、門外漢の大隈に任せた姿勢が理解できない。

 無理やり頼み込んで押し込んだのではなかと思う。

 だからこそ、協約から離脱するときに、多分ものすごく後ろ暗い感じがしたのではないかと思う。

 書かれたのは、1950(昭和25)年であるから、関係者の多くは存命中であった。

でも、その様に書く。

 (岡本工業:岡本自転車自動車工業の代表者は、戦中に病没している。)

 私感ではあるが、いくら、創業者の自伝とはいえ、あまりにも事実を無視した事を書くことはいかがなものかと思う。

 中谷秀氏の著述である自伝は、とても長きにわたり官員であった者とも思えないほどのひどい文章構成であるが、大隈の指導があればうなずけるものである。

 しかし、大隈鉄工所が、一時期アツタ號に非常に入れ込んで、夢を見たかった心情は理解はできる。

 自社の機械製造は世の中の景気に非常に左右されやすい業種である。

 しかも、戦前から戦後(昭和50年代後半まで)は、日本の機械工業は不遇であった。

 その点から、平時でも、安定的な生産収入が得られる事業を必要としたのは、切実な感覚であった。

 不安定な機械受注生産であれば、機を見るに敏なる性質は滋養される。

 1936(昭和11)年からは軍需産業の急激な進展がある、その予兆は1635(昭和10)年には感じることができていたはずである。

 

 中国戦線は不安定ある。

 軍需の受注は急伸している。

 銃弾の製造機械はほぼ一手専売だったのではないだろうか。

 戦後も、大隈鐡工所のこの機を見るは、敏という性質は継承されていく。

 如実に表れたのは、トヨタ自動車工業が危機の時である。

 危ないと聞いて、最初に機械を引き揚げたのは大隈である。

(この時に、トヨタ自動車の多くの人は、非常に恨んだという事を当時の人から聞いたことがある。

 

 おかげで、トヨタのアンチ大隈DNAは、その恨みをいまだに忘れないので、大隈の機械は極力使用しないと現実がのしかかっている。)

 つまりは、敏感であったがゆえに、アツタ号が、商売として、工業として成り立たないと思った時点で、大隈栄一氏は手を引いたのである。

 

 経営者の判断として、手を引いたのは英断であったと思うのだが、それを否定的にとらえて、自社の歴史を改ざんする精神が、非常に愚かな感じを受ける。

 大隈の系の会社は、トヨタよりも先に車を作っていたから恨まれているなど云う妄言をまき散らしている人がいる。

 しかし現実には、トヨタが危機の時、自動車を発売した時に買ってくださった方々、倒産の危機にある時にお互いに耐え忍んで支援をしてくれた企業をトヨタは忘れていないという事である。

 つまりは、その逆もしかりである。

 大隈系の会社は、トヨタの傍系も、傍系のような取引でもものすごく大切にしているが、根っこの部分では、なぜか、トヨタよりも俺たちは偉いという気があるようである。

 トヨタ自動車より歴史は古いが、製麺機の会社の古い歴史を誇る方がおかしい気もする。

 

20181010初出

20181011補足追記

20181013訂正、削除

20181014加筆

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高額医薬品の関係での苦言

またまた、日本経済新聞の記事を読んで感じたことである。

非常に高額な薬の海外からの流入認可。

1回1億円近い金額の薬を健康保険(医療費)で使うことに関しての記事が、一面にあった。

英国では、健康保険で使える薬の上限を制限と書いある。

日本は、認められて薬価が付けば使えてしまうという現実がある。

厚生労働内での値段について、「命の値段」と云う話が出ている。

が、どうなんだろう?

医者の現場任せで使う薬を決めている現在、歯止めはないだろう。

現に、医は仁術などという事を云う人もいあるが、これは、金儲主義の医者が使う言葉である。

薬も、設備も何もかもたタダではない。

すべからく金がかかる。

ではだれが出しているのか?

自己負担を超える部分は(国民)健康保険、健康保険組合、共済会の負担である。

以前、あるヤブ医者一家の事を書いた。

兄は、×科を継、弟は〇科医である。

ここ20年ほど近所だがこの病院に行くことはない。

行ったて金と時間の無駄だからである。

おまけに余計に悪くなる。

兄の方は、交通事故の治療で通院

保険会社からブラックリストの病院だから使うのをやめて欲しいと言われた。

実際自分でも、そうう思った。

だって、治療は、電氣かけるだけ。

検診は、月に一度・・・・でほぼ毎日・・・・

で、何か月かかっても疼痛は消えないし、時々でる痛みも治らない。

通勤地が遠かったので病院を変えるわけにもいかず・・・かよったがダメである。

弟の〇科医は、実はかかったことがない。

掛かる必然性がないのと、別の歯医者にかかっていたからである。

ここは、時間外が常態化している。

時間外いいという人にはとてもいい病院だろう。

治るのに通常、長くて1か月(2回から3回)でで済むのが、大体半年である。

無駄感じの治療?(清掃)が多い。

ここの病院は、表示は一応19時まである。

19時で帰宅する看護婦がいる

ちなみに看護士、事務員さんは、社会保険ではなくて、国民健康保険である。

19時に看護師さんが帰ると、今度は19時以降の看護師さんが出勤する。

下手をすると23時までや診察治療(営業)をしている。

時々、時間外があるのであれば、それは純然たる残業のような扱いで、時間外手当(時間外割り増し)を請求するのは問題がないだろう。

でもである。

時間外が常態化している〇医者の診療時間を、時間外とするのは便宜上であって、実際は時間内であるという判断が出来ないものかと思う。

此奴は、〇本〇科大学の出身なので、愛知県では肩身が狭いはずであるが、市の〇科医師会にはよく出席しているようで、批判されないように予防線を張っている。

とまぁ、悪知恵がよく働くのである。

かれらの父親もヤブだった。

途中で、不動産を買うのが趣味のようになった人である。

いわゆる長者番付の上位掲載者だったのである。

この家、爺さんが亡くなる直前が笑った

相続税対策だったんだろう、突然、広い駐車場の一部に家を建てだした。

建築主の欄は、フルネームので記載されるのが通例であるが、なぜか名字だけ。

新築の家の横には、建てて10年ほどしかたってない、ハウスメーカの家が建っている。

そこには〇医者の一家が住んでいる。

相続税法改正の年だったので、12月31日に亡くなれば旧法の適用だったが、1月1日以降の死亡だったら新法の適用で莫大な相続税が掛かるという時期だった。

残念なことに年をまたいで亡くなった・・・

家の工事は急ピッチで行われていて、夜まで作業をするという状況だった、年末も最後まで・・・頑張っていた・・・

引き渡してないと建築したことにならんからねぇ・・・

で、仄聞したことによいれば、○科医の家は雨漏りがするので新築なんだそうな・・・

新築の方は、爺様がなくなると同時に建築スピードは急激に低下した。

傍で見ていると失笑を禁じえなかった。

で、新築の家ができたが、雨漏りする家は・・・・そのまま、無人のままで放置・・・

これは固定資産税対策でしかない。

ハウスメーカーで雨漏りがあれば、何たら保証で対応するはずであろう・・・

と考えると、所詮は土〇の下級氏族上がりの精神は抜けないようである。

まぁ、ヤブで、下手でしょうがないので有名なこの〇医者、大抵の人は、一回で止める

あるお金の大好きなおじさん曰く一回行って、治療内容で、「あー此奴は、儲け主義だな」と思ったので、1本の治療でそれ以降は行かなくなったそうである。

大体、兄嫁はこの〇科医に通わない。

近所の評判の良い医者に通うのである。

これには、笑った。

閑話休題

医療費が増える原因ではないかと思うことを、2・3

整体屋(スポーツ整体みたいの所も含む)で保険がきくところは、大繁盛であるが、常態化した腰痛、肩こりには効果がない。

子供(小中高性の運動選手)が多いなら別段何とも思わないが、老人がやはり多い。

普通に歩いて健康づくりしたら?と思う。

(以前、図書館で階段を苦思想に登っている老人がいた。

この老人曰く、

私の家に前は犬がいて散歩してた頃は普通に歩けたけれど、犬が死んで散歩に出なくなって、毎日歩かなくなったら途端に、歩けなくなったと言っていた・・・

日々の運動は大切である。)

うちの親が、年寄りで(当たり前だが)、疼痛があるのでシップをもらってくる。

1ッ回にもらってくる量が、これが実に、大量なのである。

老人は基本的にはケチなのでもらえるものは欲しいので、断らない。

で、家には、大量の湿布薬が溜まる。

本人以外の者が使う、人にやる。

(冷感シップなので基本的には使うことがない。)

最近もらう量を減らしたが、在庫がある。

そのくせ、私の様な三割負担がいくと、あまり薬は出さない。

同じ病院であるが、私の時は、同じ治療期間でほぼ半分である。

どうも、老人に押し付けているようにしか見えない。

歯医者の治療で最近思うことがある

例えば、歯科の三か月一度にクリーニングは、これはどうなんだ?

と云う気がする。

以前通っていた歯医者が止めてしまって知り合いあの紹介で今のところに通いだした。

3か月に一度の割合で通院しているが、点検(歯の点検と、歯茎の点検)、クリーニングが常態化しているが、これは、治療ではないよね・・・・予防かもしれないが・・・・

三か月後にお手紙が来る。点検に来てください、と、営業である。

生活保護を受けている者がいた。

この人は、本当の病気で、仕事も途中でやめざるを得なかった人なのでお気の毒な方である。

彼は、件の〇医者は、治療で1年通っていた。

ついでに、×医には、ずーと継続して通っている。

先日、近くのスーパーの路上で座り込んでいた。

聞けば発作ではなく、めまいのような症状で歩けないとの事

仕方なく救急車を呼んで病院へ行ったが、いつも飲んでる薬を見せたら・・・・

そちらの病院の方からセカンドオピニオンをしたらどうかと云われたという。

どうも、緊急搬送された先の医者が、疑問に思うほどの薬の量だったようである。

生活保護者への医療費は、全額市町村の負担である。

他人の健康に働いている者(働いていた者)のための健康保険である。

以前新聞に、生活保護受給者が、大量の薬を出せと要求し、出さないと暴れるので出す。

薬局では、箱ごとよこせと云う。

(これは一度見たことがあるが、箱の封を開けてないやつを寄越せと偉そうに云っていた)

で、この未開封の薬はどうなるかと云えば・・・バッタ屋へ売るそうである。

数万円分の薬を複数の病院・薬局からタダでもらい、それを転売する。

こ手の人間は、基本的には元気な頃、国民健康保険を払ったことがない奴が多い。

(払う気のない奴から払わせるのはほぼ困難である。

 おまけに、市町村の吏員にはその能力はない。)。

そんな悪辣な奴もいる。

そうこうしていると、医療費がどんどん増大する。

働けるのに、働かない。

そんな人間は、「どうなんだ」と思う。

よく、大学病院なら安心だという人もいる。

でも、高額な薬を使いたがるのも大学病院である。

実験台に使いたいという感じがありありである。

親類で、癌になった時に、某○○病院でもの傾向はあった。

その病院は、名古屋大学系の病院で、大学から来ている先生が大半であった。

それで、嫌になってしまって退院してしまった人がいる。

癌の治療が複雑怪奇で、回答がないのはよくわかるが、医者の技量に差がありすぎるのもいかがなものかと思う。

風邪の特効薬がない様に、癌にも特効薬はないのかもしれない。

最近の歯医者のような点検治療は、単なる医者の延命措置のような気がする。

あんまりやる気(金儲けをする気)のない医者はいつも空いている気がする。

医者が近所に居なくなるのは困るんだけどね。

で、また、話がズレた

高額な薬は、その人の払った健康保険料を限度とするという風に切り替えることはできないと思う。

いずれにしても、歯止めは必要である。

おまけに、健康保険料を払ったことのないような外国人が健康保険を取得して(民主党の改悪で、すぐに資格がとれちゃう。)、家族まで呼んで、おまけに高額の健康保険を使う。

おかしいだろうに。

生活保護(扶助ともいう)を、外国人が受けることは最高裁判所の判例で違法と判断された。

でもである。

現在も、普通に継続支給されている。

誰の金だよ?

国も、財政支援をしている地方公共団体が支給を止めない場合は、何らなの禁止措置をとるべきであるが、厚生労働省の反応は悪い。

高額医薬品を導入した場合、老人であれば、高額医療の適用を受けて、収入が年金だけであればほとんど払わない。

負担は、健康保険である

高額の薬を使えるのは金持ちだけでは不公平であるというのよくわかるが、金持ちが何に金を使うのは、金持ちの勝手である。

国民健康保険、共済保険はみんなの保険である。

極端なことを云えば、89歳の老人が肺がんにかかったとする。

このジイサンが、この特効薬の薬の投与を望んだとする。

よく生きても、10から15年ぐらいである・・・使う意味がないとは言えないが・・・どうだと思う?

命に値段はないかもしれない、だから高額の医薬品を使うことも躊躇しないというのは、詭弁である。

命の値段は、昔からないのである

時々、誘拐事件や、保険事故(保険金が支払われるとき)で値段が決まることがある。

でも、値段と云う観念だけで見れば、最初から0円である。

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