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アツタ号と中京デトロイト化からの離脱企業のについて。

アツタ號の戦前の新聞書籍類の表示は、「アツタ号」である。

日本車輛の表記は一貫して「アツタ號(号)」である。

しかしながら、大隈鐡工所(現オークマ)の表記は、いつからかわからないが、ひらがなで「あつた号」と云う表記をしているである。

オークマの社史では「あつた号」と云う表記である。

「アツタ號」と「あつた号」、一時期、別物ではないかと疑ったこともある。

しかしである、「アツタ號」を、「あつた号」と最初に記載したと思われる本が発見できた。

オークマ創業100年史、創業70周年記念製品沿革写真集には、参考文献として「大隈栄一伝」が挙げられている。

その本は、大隈鐵工所の創始者である大隈栄一氏の自伝である。

自伝と云いながら他人が書いているので正確な意味での自伝ではない。

戦後、1950(昭和25)年に非売品として著述された「大隈栄一伝」(昭和25年2月10日発行 著者 中谷秀 発行所 大隈興行株式會社 名古屋市北区辻町一丁目32番地 非売品)である。

大隈栄一氏の死去が、25年2月5日であるから、計画的な出版であり、かつ、称揚するべき存在としての創業者である。

発行元は大隈興行株式会社である。

文中には、大隈興行の部長が検閲をしたように記述があるので、都合の悪いことは書かないという当時としては至極まっとうな伝記に仕上げてある。

著者の中谷秀氏は、内務省の元官員であった。

過去には、愛知縣内務部長を務めていたこともある者で、著述当時は、大隈鐵工所、大隈の関係会社東洋組網工業の顧問であった。

つまりは、創業者の自伝を、関係者が、雇用している者を使って書かせたという事である。

つまりは、悪いことは一切書くことはできないのである。

この自伝を読むと、非常面白い。

製麺機を引っ提げて、地方から名古屋に出てきた人である。

結局、大隈は、現在の機械メ―カーのイメージからは程遠い会社であった。

大正時代の工業館駅の本を読むと、製麺機の製造メーカーである。

自社の広告、大正3年ごろのものは、製麺機しか出てこない。

製網機も製造しているが、その製造にいたるくだりは、今なら訴えらえるような噴飯ものである。

途中で、中京デトロイト化について記述があり、そこで「アツタ號」の事を「あつた号」と記載している。

この記載が、不勉強なのか、単なる勘違いなのか、当時の占領軍に対する嫌味でわざわざ、カタカタ表記を、ひらがなにしたのかは判らない。

この所為であろうか、大隈鐵工所(オークマ)関係の社史等には「あつた号」と表記するようになった。

この書が、後のオークマの社史の対外的には間違った記録を記載する原因となった。

この本には、いわゆる、中京デトロイト化(中京自動車工業化)の枠組から最初に離脱したのは、大隈鐵工所であるにも関わらず、最後まで製造を主張し、製造を継続したように記載する。

萩野工場を、アツタ號の生産用に作ったと記載がある。

しかし、大隈鐡工は、岡本自転車自動車工業(のちの岡本工業)とほぼ同時(昭和10年)に、中京デトロイト化自事業から離脱している。

どちらが先に言い出したことかは不明である。

ある資料によれば、

「日本車輛製造株式会社、大隈鐵工所、岡本工業の共同製作による中型乗用自動車は、すでにアツタ號と名付けられ30台市場に出ている。

 昭和10年にアツタ號を10台製造したる後は共同製作を廃止、日本車輛製造株式会社が単独にてアツタ號の製作を置こう那う事となった。

が、車輪は、岡本工業所、機関、変速機はいずれも大隈鐡工所へ注文する方式をとってゐる。

 しかし、日本車輛においてもその生産設備だけは準備して既に試作して市場に出したものもあると云う事である。

 今後は、大隈鐵工所でも単独で、アツタA號を生産すべく研究計画をすすめつつあるからその市場にデビュウする日も遠くない。」

 と記載があった。

 

 名古屋の財界では、離脱したのは、大隈、岡本

 大隈は、別途、車両を生産しようとしていたという事であろう、それを拡大解釈しての、単独で継続としたのかもしれない。

 大隈は、ライセンス生産を目論んでいたという記述もあるが、昭和10年前後の情勢では、非常に厳しかったと思われる。

共同事業としての出資金100万円を実際に出資したのかどうかは、不明である。

岡本自転車自動車工業は、当該、自動車製造計画に参加時み、自転車の生産、軍需関係(航空機の部品等)の生産に追われて、不況知らずの体質であった。

岡本は、先進的なフォードシステムを自転車の生産販売に取り入れたことで、すさまじい量の自転車を生産し、販売、輸出さえしていたのある。

これは、単一車種の大量生産である。

しかも全国くまなく販売網を敷いて成功した。

岡本の目算は、自転車ができたのだから、利幅の大きい自動車も同じように生産すればいいと考えて、将来への投資と考えての参入であった。

日本車輛は、機関車、客車、ガソリンカーの受注生産が順調であったので、さほど深刻ではなかった。

ガソリンカー(ガソリン気動車)の成功もあって、同じ機関を搭載した自動車の生産を考えることは別段おかしくもない。

車體の生産もおこなっていたので、自動車の車体も製造できると踏んだのは間違いがない。

では大隈鐡工所の状況はどうであったか。

不況で青息吐息であった。

各種機械製品は売れず、新しい事業を考えなければ生き残れないと考えていた。

ちなみに、大隈、岡本は、生粋の愛知県民ではない。

いわゆる「来たり人」である。

つまりは、地元系の金融機関は当てにはできない。

(名古屋商工会議所作成の「中京要覧(昭和2(1927)年)」と云う冊子がある。

 

 この要覧には、120ページほどの小冊子で、名古屋地区の地勢、経済状況を対外的意宣伝するものである。

 ここの後半は広告である。

 この広告には、大隈鐵工所、岡本自転車自動車工業はない。

 つまりは、昭和2年当時は、工業部会のメンバーではあるが、主要な参加者とはみなされていなかったという事である。

 三菱内燃機製造所名古屋支社は、広告があるし、製造品目に「芝浦分工場 自動車」とある。

 日本車輛製造株式会社の製造品目に自動車はない。)

 

 大隈としては、新事業をと云うか、継続的に況不況に関係ない業種を社業にに組み込む必要性を感じていた。

そこで、自動車の製造をすべきと云う、大岩名古屋市長の口車に乗るようにして、中京デトロイト化への参加を決めた。

 大隈は、車体に類したものの製造実績はない。

 大隈は、初めて手掛けることなるエンジンの製造にまい進した。

 と云えば聞こえはいいが、現実は非常に厳しく、エンジンブロックのニッケル鋳造が出来なかった。

 仕方なく、豊田式織機外注に出したのである。

 大隈の当時の技術力ではエンジンの生産は至難の業であったと思われる。

 

 織機の製造もおこなってはいたが、残念ながら、織機のプレーンメタルベアリングで、摺動部分を回転させたことしかない者には、転がり軸受のベアリングは難物であったと思われる。

 国産の転がり軸受型のベアリングでは、エンジン用としては非常に不都合であった。

 試作と云いながら、売る気は満々であった。

 

 日本車輛はとしては、基本的に、アツタ號は受注生産を目論んでいた。

 日本車輛の生産方式はすべからく受注生産であった。

 生産した商品を売る方式ではない。

 機関車、客車等々の大きな、単価の高いものであれば当然受注生産となる。

 それらの商品は、買い手も決まっているし、売り手も限定されてはいる。

 自動車はどうかと云えば、買い手は沢山いる、売り手は、山のようにいる。

 しかも、車のサイズはより取り見取りである。

 その状態で、国産の自動車を買うい人がいたのかという事になる。

 ある記述によれば、バイクなどでは、国産車は、外車の半額でなければ売れない。

 信頼性もないので、わざわざ買う人はおかしな人としか言えないのである。

 試作車を生産後ほどなくして岡本、大隈は生産協定から離脱をしている。

 岡本、大隈は、それぞれ軍需が多忙になり生産自体に余剰もなくなり、かつ、受注生産の車の生産が余り売れないことに気が付いたのではないかと思うのである。

 軍需生産は甘い蜜である。

 昭和10年の新愛知新聞によるとキソコーチ号に付随した形で記載されている記事ではで、大隈は副社長と、その息子が自動車の生産に血道をあげていたように書いてある。

 キソコーチ号の生産時は、豊田式織機からの自動車生産へ参入の回答であった。

 豊田自動織機、愛知時計、岡本工業の動向も併せて記載がされている。

 しかし、豊田式織機(現豊和工業)に新設された自動車が、専用工場で生産したバスが、12台で生産が打ち切りになった時点で、国産自動車への希望は絶たれたのだと思う。

 当時、大隈は積極的に中京デトロイト化の覚書(協約があったと言われ、それぞれがその様に主張するのだからあったと感がられる)に積極的に参加した。

 大隈の生産したコピーエンジンはがどの程度あったかは伺い知ることはできないが、一台一台の一品生産だった思われるので、工業製品としては量産できないのだから致し方ない状態だった。

 日本車輛は、当時ガソリンカーを生産しており、エンジンは自社で作れたのであるがざわざわ、門外漢の大隈に任せた姿勢が理解できない。

 無理やり頼み込んで押し込んだのではなかと思う。

 だからこそ、協約から離脱するときに、多分ものすごく後ろ暗い感じがしたのではないかと思う。

 書かれたのは、1950(昭和25)年であるから、関係者の多くは存命中であった。

でも、その様に書く。

 (岡本工業:岡本自転車自動車工業の代表者は、戦中に病没している。)

 私感ではあるが、いくら、創業者の自伝とはいえ、あまりにも事実を無視した事を書くことはいかがなものかと思う。

 中谷秀氏の著述である自伝は、とても長きにわたり官員であった者とも思えないほどのひどい文章構成であるが、大隈の指導があればうなずけるものである。

 しかし、大隈鉄工所が、一時期アツタ號に非常に入れ込んで、夢を見たかった心情は理解はできる。

 自社の機械製造は世の中の景気に非常に左右されやすい業種である。

 しかも、戦前から戦後(昭和50年代後半まで)は、日本の機械工業は不遇であった。

 その点から、平時でも、安定的な生産収入が得られる事業を必要としたのは、切実な感覚であった。

 不安定な機械受注生産であれば、機を見るに敏なる性質は滋養される。

 1936(昭和11)年からは軍需産業の急激な進展がある、その予兆は1635(昭和10)年には感じることができていたはずである。

 

 中国戦線は不安定ある。

 軍需の受注は急伸している。

 銃弾の製造機械はほぼ一手専売だったのではないだろうか。

 戦後も、大隈鐡工所のこの機を見るは、敏という性質は継承されていく。

 如実に表れたのは、トヨタ自動車工業が危機の時である。

 危ないと聞いて、最初に機械を引き揚げたのは大隈である。

(この時に、トヨタ自動車の多くの人は、非常に恨んだという事を当時の人から聞いたことがある。

 

 おかげで、トヨタのアンチ大隈DNAは、その恨みをいまだに忘れないので、大隈の機械は極力使用しないと現実がのしかかっている。)

 つまりは、敏感であったがゆえに、アツタ号が、商売として、工業として成り立たないと思った時点で、大隈栄一氏は手を引いたのである。

 

 経営者の判断として、手を引いたのは英断であったと思うのだが、それを否定的にとらえて、自社の歴史を改ざんする精神が、非常に愚かな感じを受ける。

 大隈の系の会社は、トヨタよりも先に車を作っていたから恨まれているなど云う妄言をまき散らしている人がいる。

 しかし現実には、トヨタが危機の時、自動車を発売した時に買ってくださった方々、倒産の危機にある時にお互いに耐え忍んで支援をしてくれた企業をトヨタは忘れていないという事である。

 つまりは、その逆もしかりである。

 大隈系の会社は、トヨタの傍系も、傍系のような取引でもものすごく大切にしているが、根っこの部分では、なぜか、トヨタよりも俺たちは偉いという気があるようである。

 トヨタ自動車より歴史は古いが、製麺機の会社の古い歴史を誇る方がおかしい気もする。

 

20181010初出

20181011補足追記

20181013訂正、削除

20181014加筆

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