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生きててもと思うこともある。

生きていて、つらい事ばかりだと思う。

死んだ方が、ましだとは7年前から思っている

心のどこかに常に座っている、「死へのいざない」

メキシコの芸術によく骸骨が描かれている。

その図柄の明るさに驚いたことがある。

先日、宿のテレビでパリの地下のカタコンベ(埋葬所)を放映していた。

30年ほど前に見たことを思い出した。

死のにおいのしない場所だった。

死が一番近かったのは何時だろう

ある仕事・・仕事と云う云い方は語弊があるが・・・

ある場所に居たときに一番近かったような気がする。

三島由紀夫が、戦時中が一番死に近かったと感想をのべた。

が、空襲という他人からの無作為による死が近かっただけで、現実的な戦場の死があったわけではない。

猪瀬氏は、三島についての著作がある

読むと

三島由紀夫の仮面

平岡公威の仮面

三島への崇敬を減らしたという欲望で書かれていることがよく判る。

猪瀬氏の内容は、死者への冒涜に満ちている。

取材を受けた側も、特別視しないような証言をしている。

徴兵検査を受けたときの、「土嚢上げ」について滔々と語る老人

農民ならできて当たり前

都会のアオジロ(三島由紀夫のあなだ)にはできない。

出来なかったことを笑う口調である。

頭脳労働と、肉体労働の単純比較をして笑う

ドウなんだという気がする。

三島は、「三熊の詣」で、他人に、伝説を作り、見せるという事を書いた。

初読の時(15歳ぐらい)に驚いた。

これは、見せると云ことを考える、行動するという事が如何に計画的でないといけないかという事を教示していた。

そうして、最大の見せる行為は、「自死をもってする」と考えあった時に、三島の死は近しいものとなった。

三島由紀夫氏の死

自分の死すべき姿

自死の行程

死のいざない

メキシコの芸術で、骸骨が出てくることが多い

底抜けに明るい

北斎の書く、コハダ小平治へ自のような陰湿な、現実味を帯びた骸骨ではない

死ねば、骸骨

一休宗然ではないが、死ねば、骨である

笑いかけた手も、目も、カルシュウムの塊の残骸になる。

知人の死は遠い

友人の死は、近くて寂しい

親族の死は、重く暗い、そうして寂しい、寂寞感が押し寄せてくる。

死ぬという事

近しい死

いつでも死ねると思うことは不幸であろうか。

死への重さは、生きていることへの重さでもある。

近しい死を、と云うか、死にたいという気分を解消するためには、前へ

前へ、前へ向かおうとすると腹が立つような現実

現実は、自分が蒔いた種である

種は、自分への悪意となって育って返ってきている。

敵にしてはいけない人というのがいる。

嫌った人間を徹底的に貶めることに長(た)けた人間がいいる、言わゆる「クズ」なんだか、うちの職場では飲酒をしない奴はこいつにはかなわない。

自分で、思うよりも、他人に理解を求めれば、力が持てるかもしれない。

しかし、それらの悪意

を「はね返す」余禄を持つことができるかもしれない。

何時も思うのだが、

「God With you」

これは、「It My JOB」と云う感覚と似ている。

これは、自分の信じている八百万の神々と共にと云う感覚である。

死は近しい。

イエスキリストや、ブッダ、マホメッドとiいった紙に書かれたものとは違う、スピチュアルな感覚への親近感である。

20190516

20190517加筆訂正

 

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