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「〇〇文化」について、自動車に仮託して。

各種イベントがなくなって色々と、嘆いているアナタ。

高校野球でさえ中止。

オリンピックはもう危ないでしょうねぇ。

予選ができないのでは、もう無理っぽい。

そう思わないですか?

首相は、やるとは言っているが、何時できるとは言わない。

揚げ足取りしかしない人が多いからだろうと思う。

終息の予定を云わないと言って怒っている人がいたが、この状態で誰が、予想できるのか?

悲しいかな、静岡ホビーショーは、5月のイベントであるのにもかかわらず、さっさと中止が決まった。

おかげで、静岡市内のホテル業界は儲けそこなったことは事実である

サ〇コ〇インという三〇交通系列のホテルがある。

ここは、最初のころ、ビジネスホテルらしく最初は6000円台だった

7000円代になり、

8000円でもう高くなったなぁと思ったら

去年は12000円・・・もうちょっといかがなものかと思っていたら・・

だんだん値上がりして、今年は15000円・・・もう暴利に近い値段だった。

儲けたいのはわかるけどね、「15000円出すならもうちょっとマシなホテルに泊まるわ「」とい気分である。

結局、しぶしぶ予約を入れておいたが、年末、友達が、安いところを探して、1万円以内のところを取り直したのである。

で今年は、ホビーショーが中止になったので、宿泊業者、飲食業者は大打撃だろう。

さて、これだけ、世間が騒いで、イベント中止の方向にある中で、あるイベントは、入り口での検査を強化して開催するという。

開催するのはいいけれど、業者が来るのかなぁ?

地方の業者さんは、店閉めて、従業員を引き連れて、宿泊代かかってかかるコストを考えると・・・そのうち参加しなくなるような気もする。

文化という言葉は便利で、〇〇文化とつければ、何でも体裁が付く

文化とは、「カルチャー」である。

実際は、「〇〇文化」なんてもの自体が、空気みたいなもので、言い換えれば、雰囲気みたいにものである。

英国の車について語れば、「英国の文化」が息づくなんてことを言う

云い方が悪いが、文化は、土俗的であるともいえる。

地域に根差したものが「文化」である。

日本には、自動車文化がないという云い方をする人がいる。

これだけの安価で壊れない大衆車を生み出し、軽自動車(戦前からの概念で云えは、免許のいらない、登録だけで乗れる小型自動車)、レクサスという高級車ブランドを作った自動車業界を有する国に、自動車文化がないというのは、単なる拝外主義的、と云うか、白人至上主義と云うか、西洋文明偉いというスタンスが沿い言わせるとしか思えない。

 例えば、トヨタ(当初は、トヨダ)AA型の本物は1台しか残っていない。

 この車に愛着を感じ、豊田喜一郎の大衆車(当時のカテゴリーは、車のサイズではなくて、質で区分していた、高級車、中級車、大衆車、で日本独自の小型車である。)への情熱を熱く語り、現在のトヨタ自動車に続く、企業文化を創り出したという事だけでも、既に、文化である。

 私は、その昔から動くものが好きである。

 毎日、F-86Fが飛ぶのを眺め、T-33、新造のF-104F-4T-2F-1F-15F-2T-2CCVが飛ぶのを眺め、C-1,C-130の爆音を聞いて暮らしてきたのである。

 戦闘機部隊が小牧を去り、郵送団が来た時にはちょっとがっかりしたが、銀翼の機体が、迷彩を纏って飛行したのを見た時(中1であった)にはものすごく感動した覚えがある

 こうした、飛行機が飛ぶ環境で、飛行機を好きになるのは、ある意味、地域的文化である。

 私は、196612月製造の自動車を28年間所有している。

 笑われるかもしれないが、車の状態は、当時の性能を維持するという事が目標である。

 極力当時のオリジナルに近い状態を維持することを、目標としている。

 この考えは、ある意味文化である。

 先輩、諸氏がいて、その人たちが直した車を見て、今の自分の車の状態があるのである。

 これは、狭い意味での自動車文化である

 そう思うと、外車を並べて、日本には自動車文化がないなど云うのは、いかがなものかと思う。

古い自動車の税金を上げて喜んでいる地方税の連中の存在も、自動車が、高級品という旧態依然とした思想の成れの果てである。

現在の車は、というか量産車は、基本的に値段の高低はあるにせよ、道具である。

大変高い耐久消費財である。

高級な嗜好品としての車も存在する反面、単なる移動の手段、道具としての車という存在とへと2極化している。

私などは、最初から天邪鬼(あまのじゃく)なので、自分で触ることができる車を選んで買った。

そうして大枚をはたいて、ボデイの修復を行って、自宅のガレージで車を組んだ。

これは趣味であるが、立派な文化であると思う。

例えば

フランス車の好きな人も、

イタリア車が好きな人も、

英国車が好きな人も、

ドイツ車が好きな人も、

アメリカ車が好きな人も

みんな、日本で、外車を楽しむことができるという事は、それだけ自動車趣味のすそ野が広いという事である。

それぞれの車に関してエキスパートが沢山いる。

趣味性の高い車のメンテナンスでさえ、探せば、見つかるという状態。

戦前、大正時代の白揚社が産声を上げ、オオトモ號を発売し、快進社が、ダット號を生み出したころ、自動車運転は特殊技術であった。

 修理するところ?

 どこにあるの?

自動車・・・て、何?

排気ガスが、いい匂いなんて言う馬鹿げたことさえ言っていた。

「車が壊れると、電報で、修理要請をすると、東京から技術者が来て直す。

このような状態は、文化ではない。

今の日本の街角には、どこにでも自動車販売店がある。

大小、中古、新車を扱うと云った点で差があるが、一つの街に1個ぐらいはある。

修理屋さんも、探せば結構あるはずである。

ガソリンだって、販売店が減ったとはいえ、街中なら、30分も、走ればどこかで見つかるずである。

生活に自動車が溶け込んでいるとい状態である。

つまりこれは、日本には、自動車文化既に根付いているという観点は成り立つと思う。

そう考えると、ある種のイベントが「〇〇文化」をはぐくむなどというのは僭越ではないかと思うのである。

 

ちなみ「文化」と「文明」は違いますので悪しからず

20200318初出

20200319補正

 

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コメント

拍手喝采

投稿: 元師匠 | 2020年3月19日 (木) 15時12分

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