赤狩り?

「赤狩り「」という漫画がある。

米国のレッド・パージのことを書いたものであるが偏向に満ちている。

読んでいて非常に不愉快である。

ちなみに、人間雄描写が気にらないのではない。

アメリカの赤十字(当時のアメリカ共産党の隠語)の人間を善人として描いてるからでもない。

善意を向けるているふりをしている個々人は、善人かもしれない。

でもである。

当時の社会情勢を無視した書きかをしているのは如何なものかと思う。

スターリンが東欧、西欧の地で行っていた行為。

共産主義の強引な政権奪取、サボタージュ、テロ(列車転覆)の状況を書かずに、ただ単に、原爆のスパイが原因的な書き方をして、無能なCIAの親玉のプライドのために行なった行為だとしていいるのは非常に片手落ちである。

スパイ網の摘発のための赤狩り的な論調で書いていくのはおかしな話である。

戦後、ドイツに憎しの時代。

社会を暴力が支配していた。

欧州では社会情勢制覇劣悪であった。

原因は、飢えと、不安定な先行き

情勢が不安定な社会。

この時を待っていたかのように、共産党員は、共産主義というかスターリンに忠誠を誓い行動を起こします。

主に地下に潜った共産主義者によるいわゆるテロが相次いていた。

日本でもあったが、フランスで、レールの犬釘を抜いて列車を転覆させるというテロがあった。

これは、社会不安を起こして、内乱状態に持ち込んで、革命状態を引き起こして、政権を奪取するという手段であった。

ソ連が占領した地域では、見主的な政権は、共産主義者を受け入れざる負えない状況を造りだして、政権参加、主要ポストを押さえて、最終的には、共産党の単独政権を作り出した。

やり方は、きわめてファシスト的である。

戦前のソ連から継続的行われた行為は、「共産主義ファシスト」による、一党独裁による民衆の弾圧である。

このような状況は、戦後の体制の中で民主主義国家への脅威であった。

その中で、民主主義国家であるあ、アメリカが、獅子身中の虫である共産主義者をあぶりだしたのが、レッド・パージである。

それをさも、「共産主義者」のスパイが社会に根を張っている。

しかもその共産主義者は、善人だから、弾圧されるのはおかしいという論調である。

現在の連載では、ローマの休日の本当の脚本家と監督のお話で、「人を信じる」という処に力点を置いて書いている。

しかし、現実の共産主義者は、人を信用しない、自己中心的な存在でしかない。

そうも、出版界は、容共的である。

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寂しいと思う事

この頃、寂しいと思うことが有る。

人生の事ではなくて、読書の話である。

最近、技術系の本や社史ばかり読んでいるので、息抜きに?

普通の本を読んでいる。

この間までは、横溝正史の金田一耕助のシリーズを読んでいた。

なんとなく、犬神家の一族を再読する気になって・・・というか映画を見ていて、何となく物足りない感じを受けたからに相違ないのだが・・・

映画は、市川昆監督が2回にわたって撮影をした「犬神家の一族」

最初は、1970年代である。

高峰さんあっての映画だと思う。

2回目は・・・どうも役者が軽い。

原作では、季節は冬である

映画は、夏である。

あの原作をよくあれだけ短縮できたなぁと感心するほど、表層的である。

いいとこどりの抜粋である。

例えば、一連の市川崑の撮影した横溝シリーズの最終作品だった「病院坂の首くくりの家」などは、原作とは、まったくの別物でである。

東京都と云いながら出てくる風景は、皆、どこかのうらやぶれた田舎の風景である。

原作は冬なのに、映画は夏

この点ですでに厳しい

いろんな点で厳しくて・・・何となくこんな話だったか?という疑問が湧いたので、ついつい、読み返してしまった。

すると、横溝正史氏の作品は、どれもこれも面白く、戦前の由利シリーズなどとは比べものにならない程楽しいのである。

読み返しは、数十年ぶりだったので、程よく忘れていて楽しかったのである。

で、読んでしまうと次がない

家の掃除をしていたら、藤沢周平さんの本が出てきた。

これも、十年ほど前に読み込んだ作家である。

実在の人物がいる作品を何となく、つまらない、歴史小説になるから、私個人は好きではない。

特定の個人が出てこない作品を選んで読んでいる。

三巻、四巻続きの本を一気呵成に読んでしまうと、何となく、終盤で、そこはかとなく寂しい感じを受ける。

作者はなくなっているので、当然続刊はない。

でもこのシリーズは読んでみたいと思うことが有るすると、何となく寂しい感じが起こる。

短編集はあまり気ならない。

彫師伊之助取物覚えシリーズは「消えた女」「漆黒の霧の中で」「ささやく河」の三部作である。

もと、岡っ引きが、捕り物を手伝うとい形式でああるが、何となく流れが軽快で読みやすい。

これなどはまだまだ続いてもいいような感じのする作品だった。

用心棒日月抄シリーズは、用心棒日月抄(副題なし) 「孤剣」「刺客」「凶刃」の四部作である。

1巻は、短編集の体で、赤穂浪士の討ち入りをほのめかす作品だった

あとの三巻は、1巻完結の長編であった。

これは、完全い4巻で終わり、余計に寂寞とうう感じがした。

獄医立花登手控え「春秋の檻」「人間の檻」「愛憎の檻」「風雪の檻」の四部作

これも、4巻で終わり

オジサンの家の居候になった若い医者が、伝馬町の牢の獄医として生活する傍ら、捕り物めいたことをする話で、珍しく、剣術ではなく、柔術をで戦う。

医者が、剣術もおかしなもので、柔術は的を得ていると思う。

江戸から、大阪の蘭医へ留学するところで話は終わっている。

これももう少し続けてというか続編が出てもいい感じであった。

これはテレビドラマになったことが有り、中井貴一が主役を務めていたらしい(文庫本に出ていたが、見た記憶はない。)。

こう、読んでいると、何となく「もうないのか」という感覚がある。

これを、何となく寂しい感じと感じる事がある。

最近、ジジイになっているのでこの傾向が強い。

何の変哲もない、時代小説は好きである。

伝記的な小説は、前にも書いたことが有るが、嘘くさくていけないと思う。

大昔、「吉川英治の宮本武蔵」を読んだときに最初に思った事は、「なんでそんなことが判るのか?」という事である。

司馬遼太郎の「人斬り」を読んだときにも感じた違和感は、所詮は吉川英治ならこのような状況なら、宮本武蔵みたいに生活もしたこともないけれど、剣術修行もしたこ事もないけれど、たぶん、こう思うだろう・・・・と

司馬遼太郎というインテリからから見る、貧乏と云うのは所詮は表面ずらである。

表面ずらだから、多くを語らない。

生活感がない。

多くを語るが、何となく、韜晦しているる感じを受ける。

岡田以蔵の思考と、武市半平太の高邁な頭脳、思考を再現できるという感覚がうらやましいというか、すべては想像力の成せる業で、司馬遼太郎の考えた、岡田なら、武市なら、思うであろう、考えているであろうことでしかない。

そう考えると自伝的な小説は読む気にはならないのである。

まぁ、次は、山本周五郎、山手樹一郎辺りを読むべえかと。

ちなみに上記11冊は、退院から5週間ほどで読めたのである。

年末休中は一日一冊のペースは崩していない。

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夏目漱石 「こころ」についての考察 その1

高校の教科書には、漱石夏目金之助著述の「こころ」という作品が載っていることが多い。

 原題というか、新聞連載時は、「心 先生の遺書」であった。

 元々は、当時、朝日新聞の社員だった、漱石が新聞に連載した、新聞小説である。

 後年の諸説はあるが、当初の考えでは、漱石夏目金之助は、「こころ」を主題にした複数の短編を書いて、それを後日「心」という題で、短編集として出版する予定であったらしい。

  「先生の遺書」も、当初は短編として書く予定であったが、朝日新聞の新聞小説という体(てい)取った結果、「先生の遺書」が長編となってしまった。

 とはいえ、たった4か月の連載である。

  「先生の遺書」一編を、三部構成として、題名は『心』と元のままにしておいたとの事である。

  岩波単行本の序文に記されている。

 (ちなみに、岩波書店の最初の単行本である。岩波は、夏目漱石には恩義を感じて居るようで、100周年記念で、全集を出版するそうである・・・個人的には、欲しいのである。)

  以下の通り(読み仮名は、小生が添付)

 「「心」(「こころ」)

 「心」は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。

当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠(かんせ)らせる積(つもり)だと読者に断わつたのであるが、其(その)短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈(だけ)を単行本に纏(まと)めて公けにする方針に模様がへをした。

然(しか)し此(この)「先生の遺書」も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを「先生と私」、「両親と私」、「先生と遺書」とに区別して、全体に「心」といふ見出しを付けて差支(さしつかえ)ないやうに思つたので、題は元の儘(まま)にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈(だけ)が、新聞に出た時との相違である。

 装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣(や)つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉(ことごと)く自分で考案して自分で描いた。

 木版の刻は伊上凡骨氏を煩(わずら)はした。夫(それ)から校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。

 大正三年九月」

  正直、私は、あまりこの作品が好きではない。

  漱石夏目金之助の作品は、大抵は好きである。

 「吾輩は猫である」などは、一時期暗唱できる程に読んでいた。

  しかしである。乱暴な口調が気に入らない「坊ちゃん」は何となくモノ足りないが、まあ許せる。

  しかしである、「こころ」は、なんというか、妙なのである。

  私は、「こころ」「門」「それから」は通読した。

  そこで感じたことは、「こころ」は異質であるという事である。

  どのような作家にもそのような面はある。

  三島由紀夫でさえ、不思議な話を一遍だけ書いている。

  その様に、作家の暗い意識が表に出た作品と考えればいいのかもしれない。

  基本は、人間不信の「先生」、友人を死に追いやった罪悪感を持ち続け、自分が役立たずだという事に気が付いて死のうとして、死ぬ理由を延々と書き綴り、知りあいである主人公の「私」に、その遺書とでもいうべき文章を送りつけるのである。

 ちなみに、この「先生」という呼称は、主人公が、勝手に「先生」と呼んでいるだけであって、現実の先生(教員、教授等)ではないのである。

 「先生」と言う語調は、明治期の意味合いと現在の意味合い社会的地位には雲泥の差がある。

 だが、「先生」という言葉ががもたらす感覚は、ちょっと「上な感じのえらい人」という感じをこの主人公が「先生」と呼ぶ男への感覚を植え付けさせる。

  そうして、主人公の「私」は先生の遺書を、受け取って危篤の親を残して、東京へ帰る。

  その上京の車中で「先生の遺書」を読むのである。

  そこには、「先生の遺書」というか、死ななければならない理由を一方的に綴られているだけで、これだけの理由で死ななければならないのは判然としないという、漠然とした感覚しか残らない。

  結論の無い作品である。

  悪く言えば、死にゆく理由を正当化する作業である

 自殺者特有の感覚ではないかと思う。

 夏目漱石を「先生」と呼んでいた芥川龍之介の「或阿呆の一生」にも感じられる、自己中心的で、何となく、真意を隠そうという意識がそこかしこにみられるの様に感じるのは自分だけであろうか?

  単純に、独立した短編三部作と考えれば、それほど嫌な作品ではない。

  「門」、「それから」も関連があると考える向きがるが、「こころ」は、別枠感がある。

  つまり、「門」には、夫婦の間の共通認識としての罪悪感(主に妻が感じている、「悪い女」という事から来る罪悪感の共用の強制)がある。

 「それから」には男女の間に共通の「罪悪感」がある。

 それは、「それから」にある昔風に云えば姦通,現代風に言えば不倫への罪悪感は、今の目から見れば、非常に弱い、しかし、当時としては姦通であるから大きな問題である。

 (昨今、不倫について、マスコミは騒ぐし、批判をする。

 が、そういったものを禁断の恋とか称して煽ったのは元々マスコミである。

 自分たちで、不倫をしている人は多いと云い募っておきながら、実際、有名人が不倫をしていると、妙な倫理観を振り回して批判する。

 離婚をせずにチマチマと付き合う方が悪いのである。

 女役者が、医者と過去に不倫をしていたことが判明して批判をされている。

 それだけ多情というか、押さえられない性欲に従順であるとも云えるのではないか?

 妾がいて、旦那が来ない日に、同じような年代の男を連れ込んで情を通じる事は多々あった。

 でも、それは、押さえきれない性欲の処理であるから仕方がない面もあったと思う。

 女役者も国会議員も、押さえつけることができない性欲の処理をしたという事である。

 旦那が役に立たないので、他所で調達したのである。

 これが、ホストか何かを利用したらそれは、ソープランドに行く男性が非難されないように、別段非難されないだろう。

 性欲は、押さえることはできない時がある。

手近に手ごろなオスがいて、使ったという事ではないか?

 でも、ここで、最悪なのは国会議員が、離婚の調停を頼んでいる弁護士自身を性欲の発散に使った事はあきれてしまう。

 ここで、憲法云々を口に出して云い、日本共産党の参与の人だから笑ってしまう。

 共産党には、ハウスキーパー問題と云うものが存在していたことが有る。

 家に、妾を入れ込んでいて、これについては、外聞を憚って、「妾」「愛人」とは言わずに、「ハウスキーパー」であると称していた。

 丁度、男性の画家が、女性の内弟子を取るという事は、画家のお手つきだと皆が知っていながら、口にださいにという構造と似ている。

 だが、口では偉そうに、憲法を守ると云いつつも、下半身は倫理観がないというは、法律を、守れと云いつつも、自分の中の法律を守るという気がないのは、ダブルスタンダードである。

 議員さんの前職を考えて、弁護士という職業を考えると、この二人については、法匪としか言えないと思う。

 不倫をして、週に複数回の情交を継続していたという事を考えれば、この二人の性欲には動物的なものを感じる。

 弁護士自身の精神構造を疑うし、この議員の倫理観も到底信用できない。

 社会の構造の変化の中で、不倫を良しとしておいて、自分達の利益のために、不倫を叩くと云うのは、マスコミ自身の倫理観がいかに低俗かという事が判るのである。)

 閑話休題

  門には具体的な罰として、「子供が生まれない」という悲劇がある。

  それからは、姦通の結果、高等遊民(働かなくとも生活をしている地位)から、勘当され、生活能力のない無職の中年となる。

  しかし、「こころ」にはそれがない。

 それは、先生の奥さんの態度に罪悪感は、微塵も感じられない。

 罪を認識しているからこそ罪悪感は生まれる。

 「門」であれば、妻の罪悪感である。

奥さんの罪悪感は、旦那へ浸透していく。

 「それから」であれば、主人公自身の罪悪感である。

 「こころ」の中で罪悪を感じているのは「先生」だけである。

 もしかすると先生の奥さんは、自身の母親から示唆されて、「K」に接近して、煮え切らない態度を取る先生に嫉妬心起こさせて、婚姻の申込を急がせたのかもしれない。

 そうであれば、お嬢さんであった先生の奥さんは、自身の母親の指導に基づいて行動したのであるから、もともと「K」に対しては単なる見せかけの好意でしかしかなかったのだから罪悪感が起こる原因にもならない。

 お嬢さん(先生の奥さん)が、婚約前に、「K」に対して、こんな感情を持ってたと考えれば、罪悪感は湧くわけがないと考える。

 「K」は夢想家で、バカな男であるという感情

 自死の原因が、恋の破局ではなくて自身の前途に悲観した

 と思っていたら・・・こんな男に引っかからなくて良かったと思っていた可能性はある。

  罪悪感を持っているのは、自殺した(自殺をしようといしてる)先生だけである。

  罪悪感の原因は、「先生」の下宿時代に自殺した先生の友人の「K」の存在である。

  K」とは、「先生」とは、同郷であり、小さいころからの友であった。

  同じ中学に通い、同じように帝都での学生生活を送っていた友人である

  K」は、裕福な寺の次男坊であり、嘱望されて医者の家に養子になっていた。

  養家では、医者を継ぐ者として、帝国大学へ入学させた。

  しかし、医学部には進まず、勝手に文学部系に進んでしまう。

  そうして、盆暮れに帰郷をせず、養家をだましていた。

  しかし、「悪事千里を走る」の例えではないが、養家には、その事は露見した。

  そうして、養家からは離縁され、学費を、実家が弁償することになる。

  そうして、実家に復籍したが、実家からは、勘当されて放逐される。

  当然の様に、学費、下宿代に困窮した。

  K」は、夜学校の先生を務め、前向きに生きている。

  「先生」は、「K」の窮状を見かねて、自分の住んでいる下宿を周旋する。

  はっきりとは書いていないが、「先生」は、下宿代を負担していたのではなかろうか。

  その「K」は、下宿先の「お嬢さん(後の先生の奥さん)」に、恋心を描き、婚姻したいとさえ思っていた。

 そうしてその感情を、「先生」にうち明ける。

  しかし、「k」は、下宿先の主人である「戦争未亡人である奥さん(お譲さんの母親)」には打ち明けられない。

  すると、「先生」は、あまり生け花も、お琴も上手ではない「お嬢さん」を、戦争未亡人の奥さんに「嫁にください」と申し込む。

  奥さんは、婚姻を許諾する。

  すると、下宿で隣の部屋に住んでいた「K」は自殺する。

  その自殺体を、「先生」は発見するのである。

 自殺体を発見したときに、「先生」は、自死の原因を、自分の行為だと考えるのである。

 根本には、「まさか死ぬとは思わなかった」という感情があるのではないか?

20170925初出

20170926補足訂正

 

 

 

 

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探偵小説について

以前、私は、「現実に名探偵てなんているの」という一文を載せたことが有る。

ご参考

http://flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-f890.html

で、宗旨替えをした訳ではないが、最近、横溝正史先生の金田一耕助シリーズに沈溺していると云ったら笑われるかもしれない。

でも、現実的には、名探偵もカッコイイ探偵も居ないという考えは変わらない。

1975年以降、角川文庫から横溝正史シリーズはそれほどアホのように出版された。

という記憶がある。

本屋に行くと必ず、黒枠の本が並んでいた

背表紙は、黒、緑の文字、ちょっとおどろおどろしい

表紙の絵も暗い・・

でも1975年から1980年代にかけては、江戸川乱歩に燃えていた。

小学生のころは、少年探偵団シリーズに。

年を経ると、全集へ・・・

そうして傍ら、横溝正史も読んでいたというか、読み始めていた。

結果、12歳から22歳ぐらいまでに、全巻読破したのである。

ついでに言うのであれば、コナンドイル、アガサクリステー女史の作品も、延々と読んだ。

だから、小説として「探偵小説」を読むのは好きであり、楽しいのである。

わたしにとっては、探偵小説は、娯楽なのである。

で、現在は、金田一耕助シリーズを現在チマチマと読んでいる。

シリーズとしては以下の通りである。

  • 本陣殺人事件

    獄門島

    夜歩く

    八つ墓村

    犬神家の一族

    迷路荘の惨劇

    悪魔が来りて笛を吹く

    不死蝶

    悪魔の手毬唄悪魔の百唇譜

    扉の影の女

    仮面舞踏会

    夜の黒豹

  • 三つ首塔
  • 支那扇の女
  • 29年6月1日から今日(29年8月21日)までで、上記は読みぬいた。
  • 読んでないのは以下の通りである

    白と黒

    女王蜂

  • 迷路の花嫁

    吸血蛾

    幽霊男

    スペードの女王

    魔女の暦

    壺中美人

    死神の矢

    悪魔の寵児

    1975年以降の作品•

    •悪霊島

    •病院坂の首縊りの家

    驚くべきことに、1960年代から1975年まで探偵小説の依頼は一切なかったという事を仄聞したことが有る。

    横溝先生の探偵小説の復活は、映画化に負うところが大きい。

    市川昆監督による「犬神家の一族」「悪魔の手毬歌」「獄門島」「女王蜂」「病院坂の首縊りの家」で、再ブレイクしたのは記憶に新しい。

    (とはいえ、考えてみれば、42年前である。)

    で、最近なぜ、再読を始めたかと云えば。

    映画の「犬神家の一族」(新版、旧版)を見て、ふと、思ったのだ。

    こんな話だっか?

    こんなつまらん内容だったか?という疑問である。

    大体、小説では場面的には、「冬」である。

    映画は、夏である。

    で、再読したら、これが面白い。

    映画の良さを1とすれば、10ぐらいの娯楽性がある(と思い込んでいる。)

    ここで、さぁ、もう一度!

    と思ったが・・本が売ってない。

    普通の古本屋にはもうない。

    場末の1冊100円クラスで置いてある本屋を探すと出てくる。

    古本屋を廻る事、数十軒・・・

    ここで気が付いたのだが、古本屋自他が減った。

    古い文庫サイズがない・・・ドーゆうことだと・・・

    40年以上前の本が早々売っている訳はないのである・・・

    自分でも結構買ったのだが・・・車庫の箱を開ける気にならない・・・

    鶴間公園の近くには、正味2軒しかない。

    大学のころは6軒ほどあったはずである。

    この間行ったら、自動車、模型鉄道関係の店がいきなり2軒無くなっていた。

    記念橋近くは残っていた、神前図の3軒は健在である。

    でも、考えてみたら図書館に行けばあるのでは?

    と考えた・・というか気が付いた。

    で、現在は、チマチマと借りては読んでいます。

    1975年以降に•悪霊島•病院坂の首縊りの家書いているのだが、どうも、感覚は1940から1950年代のテイストである。

    病院坂は映画された。

    映画は、名作と云われるが、小説にはかなわない。

    その点では、市川昆監督には申し訳ないが、映画は劣るのである。

    映画は映画として楽しまないといけない。

    思うのだが、岸恵子の演技は光るものがある。

    あまり好きではなかったのだが、市川作品を見ていると、非常に良い役者であると感心する。

    まあ、読んでみれば面白いかと思うのではあるが・・・

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    ある新聞記事を読んでみて・・・

     今日(2017/05/31)夕刊に、こんな記事が載っていた。

     「民事再生手続き中の学校法人「森◎学園」が系列の「高等◎◎友学園保育園」(大〇市◎◎区)の土地を大阪府に差し押さえられた問題で、学園が滞納していた不動産取得税約1100万円を府に納付したことが31日までに、管財人への取材で分かった。

     

    府は納付を確認し、差し押さえを取り下げる見通し。」

     

    非常に短観な記事である

     

    読んでまず思ったことは、この新聞社の記者は言葉の意味を理解して書いていないという事である。

     

    まず、事実として、解っていることは以下の通りである。

     

    某森◎学園は、民事再生法の適用を申請した。

     

    (私は、民事再生法の再生計画が開始決定になったかは知らない。

     

    官報を全部見てるわけではないのでね。

     

    感覚的には、申請から大体、10から14日ぐらいで、再生計画開始決定通知があるので、たぶん、現在は、開始決定があったと予想されます。

     

    民事再生計画開始決定になっていれば、民事再生計画を監督する「監督官」がいるし、管財人もいる。)

     

    管財人から聞いたという内容は、まぁ問題がないであろう。

     

    新聞記事では、「◎友学園」の不動産が、「滞納を原因とした差押を受けた。」と書いてあった。

     

    この事実を確認したのは、登記簿の写し(全部事項証明)の請求をして、「差押登記」見たという事だろう。

     

    差押登記については、登記が済んでいるという事である。

     

    登記申請中ならそもそも、登記簿が閉鎖されている。

     

    登記されたら、取り下げはできない。

     

    登記申請をして、不備がある等で取り下げをすることはある

     

    登記申請→問題がなければそのまま登記されてしまう。

     

    登記申請→登記申請書に瑕疵、訂正できない誤記等があった→登記申請の取下げ申請を申請する。

     


    つまり、今回の様に、税金の滞納を納付したのであれば、差押の登記を「取り下げる」のではなくて、「差押えの解除」予定と書くべきだろう。

     

    先述の通り、取り下げができるのは、登記が完了する前のことである。

     

    多分、当該、登記簿(全部事項証明)の権利の部には、

     

    「平成29年何月何日大阪府○○府税事務所」「差押」と登記されているはずでず。

     

    この登記を抹消するのは、差押えの解除登記を申請のするのである。

     

    登記済み内容(差押登記)を、どうやって取り下げてるのか


     

    それに、滞納総額が、1100万円だったのか、地方税の延滞金を含んだ金額だったのかわからない。

     

    不動産取得税という事ですから、取得してからの期間(日数)×本税(1100万円なのかlなぁ?)で、延滞金の計算はできますが・・・

     

    結構な額だと思いますが

     

    延滞金も含めて納付したのであれば、大阪府税事務所は、全額の納付が確認できた時点で解除しなければなりません。

     

    滞納があるのだから、差し押さえを維持する理由があります。

     

    滞納がなくなれば、差し押さえを維持する理由、

     

    滞納税金を徴収するための不動産の差し押さえて、将来的には公売をするという理由は消滅します。

     

    だから、解除しなければならないのです。

     

    取り下げではありません。

     

    取り下げという法律行為が、具体的にはどういう法律を適用するのか?大いに興味がある。

     

    ...

     

    それに、民事再生中事件で、監督官が選任されていれば、「管財人」の弁護士がいることは理解できる。

     

    しかし、申請中なら、単なる受任弁護士である。

     

    読んでいて、細かいディテールの内容が、不正確と感じた。

     

    こんな記事で、この程度の内容しか書いてないなら、大きな記事の内容はどうなんだと聞いてみたい。

     

    昨今、新聞記者のの程度の低さが指摘されているが、うちの夕刊で知ろうとは思いもよらなかった。

     

    ちなみに、これは、日本◎◎新聞である。

     

    新聞とるの止めようかな(T_T)とか考えてしまう。

     

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    モデルアート 50周年記念について(模型の雑誌このとです)

    わたしは、モデラー(立体塗り絵の塗師?、立体塗り絵は、ファインモールの社長さんのお言葉w)である。

    わたしが、ご幼少のみぎり(5歳だね)

    あるところで、P-40ウオーホークの模型を買ってもらった。

    昭和45年の暮だった。

    買ってもらったのは、その前日

    作ったのは、12月30日

    我が家の恒例の餅つきが済んで、家の掃除も済んだと時に作っていいかと聞いて作った。

    なぜか、箱絵のシャークテイマウス(鮫ノ口)のペイントに惹かれたのである。

    P_40f_sanwa_133_89th


    ところがである。

    ・・・デカールには、この口マークが入っていなかった。

    空冷エンジンの機体はかっこいいなぁ・・・もあったのであるが・・・

    で、

    その頃、頃にはもう、モデルアートは出版されていました。

    その頃、当然様に、模型雑誌なんて、存在さえ知りません。

    大体小学校のころから本屋へ出入りしていました。

    ちなみに、その本屋はすべて廃業しました。

    近所に、というか、歩いて行ける範囲には本屋はなくなりました。

    小学5年だかr6年だかのころ、本屋で、毎月4冊のペースで出ていた手塚治全集を買いあさっていいました。

    1冊400円でした。。

    おかげで、模型があんまり買えなくなっていた。

    そこで、代謝行為として、ちらちらと模型雑誌は立ち読みをしていました

    本屋に行くと、ホビージャパン、モデルアートに2冊は並んでいた。

    モデルアートの表紙は何となく好きではなかった。

    ホビージャパンは、イラスト入りの連載物があった。

    それに、スターウオーズの特集なんかもあった。

    大枚はたいて購入したMPCのダースベーダーが、棒立ちで似てないのに辟易したころだったので、修正の記事を立ち読みしてみたりもした。

    そうして、1/9特集が、私の心を、グッとつかんだ。

    そうして、わたしは初めて模型雑誌を買った。

    それは、ホビージャパンの1979年5月であった。

    20140308_19876a

    新製品のT-62の記事があったので、購入

    そうして、そのまま10年ほど買い続けました。

    AFVははやらず、飛行機も低調で、ガンプラ(ガンダムプラモデル)、女の子フィギアしか載っていない状態が続き、購入を中止。

    その頃、もう、モデルグラフィックスが出ていたので、そちらがメインに。

    そのj頃のモデルアートといえば、ホビージャパンの厚さは、半分しかなかった。

    「おおくらとしお」さんのマンガが嫌で、あまり買わず、好きなキットの制作改造記事があれば買う程度でした。

    ところが、ある時「おおくらとしお」さんの発想の転換具合が好きになり、ついでに漫画というかイラストも好きになりました。

    そうして、立ち読みではなくて、ちまちまと買うようになりました。

    今回の記念号で、「模型屋さんで売る模型の雑誌」というコンセプトを読んで、いたく感動したのである。

    だって、私、今は、模型屋でしか、模型の雑誌を買っていない。

    常に買っている、というか定期購読は、モデルアート、AFV Modeler ,AIR Modelerの三誌のみである。

    全部模型屋経由である。

    一時期、モデルアートの取り扱いの無い本屋が増えたので、懇意にしている模型屋さんで買うことにしたのである。

    気が付けば、一番長期間の購読雑誌になっている、大体、30年である。

    読まなくなったのは、以下の通りである。

    ホビージャパン(現存)

    モデルグラフィックス(現存)

    アーマーモデリング(現存)

    スケールアビエーション(現存)

    パンツアーグラフ(事実上廃刊)

    電撃ホビーマガジンのスケールモデル版(事実上廃刊)

    マスターモデラー(事実上廃刊)

    本屋で手に取ることがあるのは、モデルグラフィックス、アーマーモデリング、スケールアビエーション・・・買いませんが・・・

    ビジュアル雑誌の様な風体で、写真自体が小さいし、なんか自己満足写真が多い。

    見せるのと、見てもらうをことを勘違いしている雑誌は見ていてつらい(読むではない。)。

    アーマーモデリング、スケールアビエーションに関しては以前書いたとおりの経緯で読むのをやめた。

    基本的に、「読むとこねぇなぁ・・・」である。

    大体、スケビもアーマーも、ライターが、昔のホビージャパンの系列の人が多い・・・

    なんか、ダメダメモードである。

    おもしろいのは、最近のモデルアートは、読者の技術の底上げの記事が多い。

    前なら別冊で出していたような内容を、月刊誌で出す。

    ほかの雑誌にその手の記事が無くなった所為かもしれない。

    まあ、読むところのある模型雑誌という点を大いに評価したい。

    20161204

    20161204加筆修正

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    本のミズマシ

    あるフリーラーターの書いたVWの不正についてレポーとした本が、文○○秋から出てい  る。

    元NHKの特派員で、50代以上のモデラーには非常に懐かしい名前である。

    読んでみて、というか、ぱらぱぱらとメクリ、4時間ぐらいで読めそうだと思ったら、4時間だった。

    内容は、VWの排気ガスの不正についての発見の経緯

    VW社の会社の歴史

    主には戦後の事ではある。

    ナチスドイツとフエルデイナント・ポルシェ博士の関係は薄くしか書いていない。

    今回、不正の発端からは関係が無いから、あまり書いてないような風である。

    主に、社内のピエピ会長、監査役の敷いた体制から来た弊害が原因であると書いてある。

    が、果たして、そうだろうかとう感じは受ける。

    ポルシェ博士、その息子、親族が、ポルシェ、VWの主導権を握って争ったことは、有名である。

    その争いの事もっと深く書けば、一族の性格が推察できたと思う。

    その性格とは、悪く言えば、強欲である。

    でもその強欲という事は、大罪の一つではあるが、起業家にとってはある面、必要なことだろう。

    開発者の性格としても、世の中をよりよくしたい、自分のアイデアを生かした製品を、作品を作りたいと思う点では、必要不可欠な面である。

    では、VW社内の意見を云えない雰囲気を作り上げた、ピエヒが強権な体制をひき、それが引き継がれたのか?

    そうして、その体制下で、ピエヒの後任者にも引き継がれたの強権性から来る、社員の意思のゆがみ。

    CEOの無理な請求をしていることを自体が、不正の温床になった事についての解明の目は浅い。

    でも、読んでいて唯一面白いと思ったのは、ドイツ人は、アメリカ人をバカにしているという分析は面白いと思った。

    それに加えて、ドイツの中でのVWの地位は高い。

    州政府は、大株主だし、連邦政府にも顔が利く。

    (州政府の株式の取得の経緯についての記載がないことは悲しい。

    州政府が、ナチスドイツの遺産として、VWの株式を取得した経緯を書くべきだったであろう。

    例えば、ヒトラーの遺産は州政府が所有している。)

    そうした国内事情の感覚で、アメリカの機関に対して対応して失敗したとも書いてあった。

    しかしである、なぜ、アメリカ市場で、VWの販売台数が伸びなかったのかについては、これまた記述が薄い。

    独善的な車開発で、ユーザーのことを要望を聞かない態度が原因としている。

    でも、アメリカを、アメリカ人をバカにしているからこそ、アメリカ人の好みを研究して、嗜好を検討して車を作るという態度がなかったということを突っ込んで書かれてはいない。

    なぜ中国で売れて、アメリカで売れないのか?

    その疑問には、明確な答を出していない。

    それに結末もわかっていないときに書いているので、本当に、週刊誌の連載記事の拡大版という感じがする。

    事実をなぞっているだけで、VWへの取材もしていない。

    公的な報告書についての記述はあるが、その内容は、「書いていない」である。

    読み終わった感想は、何となくではあるが、消化不良な感じがある。

    要は内容の、内容の薄い本だったという事である。

    すぐに読めた・・・という事は、まぁ、内容は・・・・推して知るべしである。

    最近、学術書とか、企業の資料の関係ばかり読んでいると、ページの文字のみっちり感になれてしまうと、どうも、この手の解説的な本は、文章の行間は、なんか広いなぁ・・・と思う。

    ついでに、字も大きい。

    (老人向けに、字が大きいのかもしれない)

    で、紙厚もある。

    (油の抜けた爺さんばあさんが読むには、厚手の方が捲り(メクリ)易いのだろう。)

    するとどうだろう。

    まるっと、(老人向けの)1冊の本が出来上がる。

    単純な比較をしてみた。

    VW本は、数えたら、1ページ16行、1行42文字、1ページ672文字

    202ページあるので、図版部分は除かずに単純計算ですと、13万5744文字である。

    ある本「「イメージ、それでもなお」アウシュビッツからもぎ取られた四枚の写真」では、

    19行、1列49文字 1ページの文字数、931文字である

    ちなみに332ページある、引用、解説等もあるので、文章の実ページはもっと少ない。

    でも、30万9092文字

    読みごたえはある。

    これを、VWの本に当てはめて考えると・・・1ページ931文字で計算すると

    145.8ページ

    まあ、146ページに換算される。

    ちなみにこの「VW」本、と「イメージの・・・」ページ数の比較は VWを100として考えると、164%である。

    しかし、本の厚みは変わらない。

    つまりは、紙の厚さが違うのである。

    悪く言えば、VW本は、紙を厚めにして、1ページの字数を減らして、通常の1冊に仕上げた感がある。

    先ほどのページに換算した場合、「イメージ・・・」の仕様で作れば、厚さはほぼ、半分である。

    半分の厚さで、あったら、1400円で買う気になるのか?

    何となくミズマシ感が強い。

    値段は、1400円・・・・この内容ではちと高い・・・・

    何となく不毛なことを考えた・・・

    蛇足ではあるが、表紙に錆びたVWのマークが書いてある。

    どこkらどう観ても、たぶん(間違っていたらごめんなさい)、VW ビートルのボンネッとについていた、アルミ製のオーナメントである。

    アルミのオーナメントは、というか、アルミには赤さびは出ないのだが・・・突込みたくなった。

    VWが、腐っていたという事で、赤さびなんだろうが・・・・いくらなんでも・・・ねぇ

    20161130初出

    20161201 加筆、訂正、修正

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    図書館は、無料の貸本屋?(加筆修正しました)

    ラジオで、どこぞの誰かが、図書館の事を「無料の貸本屋」と言っていた。

    出版業界不況で、新刊を図書館へ置くことを批判していることの一環であろうことは想像に難くない。

    しかし、全国の図書館のお蔭で本が売れていることを無視した物言いに異様な感じも受けるような気もする。

    例えは、東野圭吾さんの新作は、多くの図書館が数冊以上購入している。

    全国に図書館が何館あるのか知らないが、ある統計では4700ほどあるそうである。

    本の発行部数が減っているのは事実である。

    買う人間が減ったこともあるだろう。だからと言って図書館を敵に回すこともないと思うのですが?

    何百万冊、何十万冊の販売数を誇る本なら・・・4700館が一冊づつ購入したとしても微々たるものである。

    数千部しか刷らない本だってある。

    4700館すべてが、1冊づつ購入するわけではないと思うが、大都市圏の図書館等であれば1から数冊を購入する場合もある。

    また、あまり売れない作家の新刊を購入するという点で、売れない作家を救済している面を無視しているのはいかがなものかとも思うのである。

    以前、件の東野圭吾さんの新作の予約状況を見たら、数千人が予約をして、待っていた。

    複数の図書館を有する市営図書館なので、全市内の図書館の在庫の本の冊数は30冊以上あった。

    個人的には、基本的に待つのが嫌いなタイプなのですが、予約を入れた場合の借りられるであろう月数を予測してみたりするのである。

    待っている人の数を見て、基本1週間から2週間借りた場合の借りられる予定月数を考えたら・・・1年後?とか考えてしまえば・・・・買った方が気分的に楽なのである。

    それにしたって、千数百円の本を買う余力があるからこそ買えるのである。

    余裕のない家庭の人で本を読むことが好きな人がいたら、その人の喜びを奪うことになると思うのですが?

    その人が、生活に余裕ができれば、本を買うようになるかもしれない。

    (半面、ならない場合もあることは顧慮のうちに入れねばならない。)

    ある程度、特定の作家の本を読み続ければ、どんどんと読みたくなるという欲求が高まるはずである(自分はそうである。)。

    そうならば、お財布と相談をして、新刊書が出たら無理をして買うかもしれない。

    図書館に、新刊書を置くなというのであれば、それは、未来の芽を摘むことになる。

    ●○賞受賞作という理由で本を買う人もいるとは思う。

    現に、芸人さんの本が売れたのは意外性と、話題性だろう。

    バカげたなことを、番組中でやっている芸人が、小説を書いた、おまけに賞までもらった。

    だから売れたんだろうと勝手に想像する。

    基本的には、バカの事をして笑わせている人間を、愚かだと思い込みバカにする。

    基本的には、芸人を、バカにしている傾向が世の中にはある(と思う。)。

    でも考えてみれば、芸人は、ネタを考える。

    間合い、つかみを考えて、記憶して、練習をして、反復練習のようなことをして、不自然さをなくす。

    さらに会場の雰囲気をつかみ、滑らない様して、観客の反応を見つつ、笑いを取るのである。

    これは、非常に難しいことで、バカにはできないである。

    落語家でも、持ちネタ(話)は、全部覚えているのである。

    同じネタを、別の落語家が話せば、雰囲気も、感じも違うのである。

    三遊亭圓朝氏の演じた話を速記し、本にしたものがある。

    ある話の結末が知りたくて探したら、古本屋では非常に高価であった。

    本は、図書館にあった。

    長編小説よりも長い、文章の量としては膨大な話であった。

    これを覚え、話として、聞いていて違和感のないように話をする。

    通し狂言ではないが、昔の寄席では延々と1つの話を1週間ぶっづけで行うことがあったそうである。

    その話を、速記者が速記し、筆に起こしたのある。

    そうして、100年以上後年のわたしが読むことができるのである。

    芸人や、落語家を、バカにしている人には、わからないことかもしれない。

    与太郎のようなぼけた人間には、そういったことは出来ることではないである。

    悪く言えば、つまりは、バカにしている芸人が本を出して、受賞までした、どんな作品なんだろう、読んでみようと思う人が続出したから、何百万部も売れたのである。

    そうして、そういった感覚を持つキャスターが、作者をバカにしているのを見て、どちらが愚かかとも思った。

    名古屋市の図書館には、この作者の本が何十冊とあった。

    人気のある本であれば、その分の購入者を図書館が奪っているというのある意味では正解のような感じも受けるが、その実、買わない人は買わないのという点を無視している。

    遺失利益のようなことを主張するのはいかがなものかと思う。

    ラジオの出演者は、図書館は、全集を買えばいいとか抜かした。

    どうでもいいような作家の発言であったが。

    私は、中学時代から図書館の愛好家(笑わないでほしい)である。

    家にないような本がゴマントある。

    写真集が、絵画集が・・・高くて買えない本もある。

    小学生の時に、龍を紙版画で作ることになった時に、市立図書館は遠かったが、親に内緒で通ったことさえある。

    その時、円山応挙に触れ、多くの浮世絵の龍を見、爪の数が三本と、五本あることも知った。

    支那の龍の絵もたくさん見た。

    この龍の絵を探すという行為から出た入り口は非常に狭かった。

    が、のちに、自分にとっては、絵画の世界の扉を開いてくれた、大切な入り口であった。

    大学時代に、美術館巡りをすると一気に興味は広がった。

    美術の教科書で見てもピンと来なかった絵が、実物を見れば見るほど、なぜ素晴らしい作品化ということがわかった。

    最近も、検索をしていたら、昭和17年刊行の「ナチスドイツの防空」に関する本が出てきたので、これを借りて読んでいる。

    基本的な資料は、昭和16年ぐらいのドイツ国内の空襲の状況に対応した内容が事細かに記載してある。

    英国の空爆に関する著作で、ドイツの防空体制等について記載した部分があったので興味があった。

    昭和16年ごろ、ドイツ本土は、報復爆撃で、首都ベルリン自体が、すでに爆撃にあっていた。

    その頃の防空体制と、空襲被害への保証、罹災家族への保証等を事細かに述べている。

    昭和16年ごろには、防空体制、保証等については、国民が不満を抱かないような政策を立案実行していた。

    ヒトラー政権が、国民の造反に会えば直ちに崩壊することは、ナチスが一番よく知っていた。

    1945年4月(ナチスの崩壊は1945年5月)まで、国内の世論調査めいたことを継続していた、ゲシュタポ(いわゆる秘密警察)の一部分は、そういった国民の意識調査を専門に行ったいた。

    空襲の被害者への保証が不十分であれば、国民の、特にベルリン市民の不満が高まることは避けたかったので、防空、保証体制については目を見張るものがあった。

    そういったことが書いてある本は貴重であり、戦前から続いている図書館でなければ保存されないという事実がある。

    先日も、うちの小僧さんが、「罪と罰」を読みたいとのたまわれたので、本を探すと、昭和7年、11年とかの本が出てきた。

    当時の本は、総ルビであるから、子供でも読める。

    これは、ある意味、非常に貴重である。

    ただ、箱付でも箱はないのが残念ではある。

    以前、書いた岡本綺堂氏の作品は、本も大切だが、箱も大切なのである。

    これは、箱付の本を得ようと思えば、古本を数万円出して買わねばならない。

    しかし、読むという行為だけであれば、図書館の本で足りるのデアル。

    しかも、全集から漏れている出版物の広告、出版社、印刷場、発行人、発行年月日、検印が見られるのである。

    明治大正昭和初期の東京府、東京市内の地図を有しているので、地図でその地番を探すのも楽しいいものである。

    図書館のお蔭で売れないほんの販売部数の底上げをしてもらい、助けもらっているのにも関わらず、売れそうな本だけは、儲けたいから、新刊を置くなと主張するのいかがなものかと思う。

    金銭的に生活が苦しい市民が図書館で新刊書を、数か月から1年近くも待って読むことは非難されるべきことだろうか?

    読みたくて、金に余裕のある人は、買うのだろう。

    基本、私は、余命を考えるとそんなに待つ気はないので、さっさと買う、読む。

    積んでおく。

    同僚が読みたければ、貸す、ひどいとあげてしまうこともある。

    すでに、古本でもお目にかからない当時の新刊を探すのは図書館に限るのである。

    確かに印税を考えれば、本が売れるに起こしたことはないのだろう、でもである。

    お金のない人は、生活を切り詰めてまで本を買うかといえばそうではない。

    買わない。

    つまり、本屋の主張する販売部数にはあまり結びつかないのと思う。

    「いいや、結び付く」と主張する向きもあるかもしれないが、どうだ?

    あんまり増えないと恩う。

    ブックオフを批判する名古屋出身の漫画家がいるが、ブックオフで見つけた本が面白くて新刊を買うようになった作家さんもいる。

    全然読まない雑誌の作家さんは読まない、だから、買もしない、眼中にもないのである。

    それが、ブックオフで出会うことで、将来の新刊書の読者になると考えられないのは、「お気どののくさま」といったやりたい。

    (もっとも、ブックオフで、たぶんこれは万引きした本だろうと思う本がある。読んだ、開いた事績がない、挟まれている広告がそのまま・・・・コウユウのどうなんだろうとも思うが)

    出版業界が、不況なのは、作家の質の悪さもあるのだろうと思う。

    アウトローを気取ったような、単なる人生の落伍者ような、読むに堪えない文書をかいていのさえいる。

    ちなみに、私は、昨今有名になった、芸人の作品を読んではいない。

    また、私小説的な作品であるという点から読む気がしない、将来も読むことはない(と思う。)。

    というか、芸人自体に興味がないし、芸人として大成?するためのの過程、その苦労話を書いた作品ということを解説で読んだ時点で読む気はなかった。

    そもそも、私には、●○賞受賞作品をだから読むとゆう姿勢はない。

    読んで面白かったことがあまりない。

    浅田次郎氏の作品は、どれもスピード感があって楽しかったかからその延長で読んだ。

    しかし、歴史小説は読んでいない。

    私は、歴史小説(有名人の自伝的作品)が嫌いなのである。

    理由は簡単で、作家「○○さん」の想像した「織田信長」、「✖✖さん」の想像した「徳川家康」でしかないからである。

    以前、司馬遼太郎の「人斬り」という作品を読んだことがある。

    読んでいて違和感を感じたのは「岡田以蔵」がそうお思う、「竹地半平太」がそう考えたというくだりで、なんだか奇妙な感じを受けたからである。

    それは、歴史的な事実関係として、「岡田以蔵」がいる。

    「岡田以蔵」が、歴史のまにまに現れた事実がある。

    その事実の間に、他人が介在していれば、その介在した人を絡める

    しかし、ある程度は埋まるかもしれないが、「その人となり」がわかるはずがない。

    そう思うのである。

    つまり、司馬遼太郎が講演会でもいっていたが「物語を語る人間が居なければその人の歴史の中での存在は、単なる文字列ででしかない」「語る(書く)人間がいなければ、歴史年表と同じで意味がない」といったことを言っていたの聞いたことがある。

    つまり、司馬遼太郎の想像する、「こいった立場、地位、経験があるものが考えるであろう、考え、行動、思考パターン」についている書いただけであると思うのである。

    つまりは「司馬遼太郎」が演ずる「岡田以蔵」の役、「武市半平太」の役を書いているのすぎないと思うようになった。

    そうなると、何となく読む気が失せた。

    こう思ったのは、大学生の頃で、リバイバル上映をした大映の「人斬り」を見て、ミーハーなので原作を読む気にはなった。

    読んでから、「読むんじゃなかった」と後悔したことしきりである。

    映画のダメさ加減はよくわかった。

    作品もおもしろかったが、主人公の思考を決めつけるような口調で書く(小説だから書くのは当たり前である)点に閉口した。

    もともと、徳川家康、宮本武蔵などの歴史小説を読んで、史実だと思う込んでいる人に閉口したこともあり、もともと読むジャンルではない。

    司馬氏のお蔭で、いわゆる伝記的な歴史小説は一切よまなくなった。

    時代劇の様に、史実は離れたところの作品は読むことがある。

    岡本綺堂先生の作品などはまさに、時代小説的な小説は普通に読めるのである。

    岡本綺堂氏の作品を読み始めたの、先輩のおすすめである。

    藤沢周平氏の作品を読む世になったのは、たまたま、図書館で手に取ったこときっかけである。

    あの時、図書館で、出合わなければ、一生読んでいない気がする。

    自分たちの既得権を離さずに、目先の利益に惑わされると、将来の読者を失うことを考えないのは、愚かであろう。

    (模型の話で申し訳ないが、戦闘車両AFVというジャンルがある。

    戦車1個が、今では1万円近くする。

    当初は、輸入代理店の暴利で、値段が高いなぐらいの感覚だった。

    長谷川製作所が、代理店だったころ、定価4700だった。今の代理店は、7800円で売っている・・・・

    おかげで、AFVは新製品は、中国メーカーの雨後の筍のモードで大量にあるが、いかんせん値段が高すぎる。

    定価で、1/35の戦車が1万円・・・・この結果どうなったかといえば・・・

    AFVの製品が売れない。

    円安の影響もあり、売れないから余計に定価を上げる・・・こうなると、本当に悪循環で、購買層がどんどん薄くなった。

    おかげで、売れない。

    中高生が買える値段ではないということは、10年後20年後の購買層がいなくなることである。

    それでもいいと思っているのかな?

    出版業界のいうこともわかるが、図書館は、国民生活の精神面での豊かさを補完するために必要、つまりは、「人はパンのみにて生きるにあらず」の観点を無視することは、自身で自身の首を絞めていることにほかならないことに気が付いてほしいものである。

    20151227初出

    20151228加筆修正

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    さらば「スケールアビェーション」(SA)(少し訂正補足)

    このブログの読者(でいいのか???)は、模型製作を趣味とされる方も大勢?(10人ぐらいと踏んでいますが)がお見えになります。

    1998年、アーマーモデリングの別冊として「スケールアビエーション」(通称SA)という飛行機の模型雑誌が登場しました。

    1998年創刊ですから、17年前に登場した雑誌ということになります。

    わたくしは、発売と同時に定期購読を開始しました。

    17年間買い続けた雑誌の購入をやめるのは断腸のおもいです(w)。

    買うことをやめようかな?とお思い始めたのは、2年ほど前からです。

    逡巡することすること・・・・2年、

    気分だけで述べるのであれば、「読むところがないなー」である。

    一番よくわからないのは、飛行機の模型雑誌ではない部分がどんどん増えていったことであろう。

    最初は、ピンナップガール(要は半裸のおねんちゃんを出して、別の階層の趣味人を引っ張りこもうとしたらしい・・・)。

    それから、のほほんとした漫画(まーつたく読んでいないというか、宮崎駿の亜流の傍流的な漫画である)。

    極めつけは、巨乳の高校生の漫画?である。

    この漫画が、掲載された時点で・・・モーやめるの決定・・・だった。

    この雑誌は、モデルグラフィックスから派生した雑誌の一つである。

    モデルグラフィックスは、ホビージャパンを飛び出した人が創刊した雑誌であった。

    ホビージャパンのスケールモデルのいいところを抜きだした雑誌だったので、好感が持てました。

    その頃のホビージャパンは、ガンプラ一色モードで・・・もういいかな?という感じがしていましたから、渡りに船でした。

    とはいえ、ホビージャパンとモデルグラフィックスの同時購入は数ケ月続きました。

    そうして、ホビージャパンは、10年の購読期間で購入を中止

    モデルグラフィックスも、アーマーモデリングとスケールアビエーションが創刊後は読むのをやめたのである(だって、読むとこないもの・・・)。

    アーマーモデリングは、季刊発行のころは本当によい雑誌でした。

    中身の濃いグッとした雑誌でした。

    アーマーモデリングは、隔月発行になり、毎月発行になると・・・・今のSAの様に、ミズマシ記事が増え、ビジュアル雑誌化しました。

    製作過程がほとんどない模型雑誌化しました。

    製作過程の写真は載っていても、だんだん小さくなり、画像も荒くて、どこを改修したのかわからないような記事が続きました。

    隔月から毎月になった時点で、アーマーモデリングを買うことはやめてしまいました。

    お友達で、モデラーの方が編集になった時は、少し、買おうかなという気も起りましたが・・・・何となく、立ち読みで・・・おわり、古本屋でなら買ってもいい雑誌になりました。

    それに、中身がなくて、バカみたいな記事が続く中、時々、素晴らしい作品を作る人がいてその人の連載中だけは単発で購入するような状態がでしたが、それらの連載が本で出る事がわかったので、もう買う気はなくなった。

    特に、ある●大の出のモデラーの作品は、物理的にあり得ないシーン(吹き飛んだ砲塔の位置、爆発したシーンがやたら多いだが、イメージ先行のものが多く、いくら何でもありえんだろうというシーンが多くて、これを世界があるといって、ほめていると書いてるのには笑ってしまった。
    この人、完成品を、ヤフオクでバンバン売ってました。

    雑誌の作例を売ってるのには少々驚きましたが、正業についていないようなので、仕方がないのかもしれません。

    まあ、何でもごちゃごちゃにすればいい的な作品が多くかった。

    ビジュアルを大切にしていたアーマーモデリングでしたが、ある時、どこかの取材の記事で、ボケボケの写真を載せたことがある。

    デジカメの画像を拡大しすぎたような画像が載っていた。

    これでは、眺めて楽しい雑誌、例えば写真集なんかで、最低限のキャプションがついていても楽しいものは楽しいのである。

    しかし、ビジュアル雑誌化して、そのビジュアルがダメなのはもう終わってしまった雑誌である。

    もう、完全に買う気は失せたのである。

    見て不愉快になる雑誌に金を出すべきではない気がしたのである。

    それに、合同展示会等で見つけた作品(つまりは完成品)を見て、

    「今度、○○の特集を組むときにぜひけいさいしたい」というのである。

    さて、表題のスケールアビエーションであるが・・・

    少なくとも10年ぐらい前までは・・・・・よい雑誌でした。

    Sa001

    創刊号は、こんな表紙です。

    ものすごく訴求性のない表紙です。

    雑誌名以外は、かすんでいます。

    おどり文句は、「飛行機モデラーの専門誌ついに発刊!」であった。

    その頃、モデルアート社もそれに類した雑誌を出していたが、何となく、方向性が・・・ふらふらしていました。

    こちらは完全にビジュアル化した雑誌でした。

    おまけにドイツ空軍マニアには受けのよい「He219 Uhu(うーふー)」という夜間戦闘機が主題でした。

    このウーフーは、当時のタミヤ模型の最新キットである。

    「中身の濃い、面白い雑誌だなぁ」ということで、買い始めて、最後の10年は何となくで買い続け、最後の2年は、いつやめようかで、買い続けました。

    延々と17年間買いいつづけました。

    最新号の表紙はこれです。

    Sa105

    何となく「かっこいい」雰囲気ですが、光線の具合の悪い感じがする。

    見た瞬間、くらいな・・・・という感じがした。

    表紙も裏表紙も材質が悪いのか、表面のコーテイングが悪いのか平置きしておくと、端っこからめくれ上がってきます。

    紙質は、どうなんでしょうねぇ

    創刊号のページ数は120ページ

    105号のページ数は104ページ

    厚みは、5分の4程度、

    16ページ減でこの厚みの減少は、紙自体が薄いのか?とも思うのである。

    (いずれも表紙、裏表紙を含まない)

    買うのをやめた理由は、アーマーモデリングを買うのをやめた理由とほぼ同じ。

    「読むところがない」

    「見るべきところもない」

    「ピンナップガール?」

    「製作の記事のない・・途中経過もほとんどない記事」

    「焼き直しのような記事ばかり」

    ここ数年で増えた以下の記事は見もしないページだった。

    「わけのわからないコラム」

    「架空の世界の架空ののほほんとした漫画」

    「よくわかんい、エアレーサーもどきの製作記事」

    「飛ぶ理由」・・・

    やめる心のきっかけは、「名機100」の「100機目」が出たことである。

    長々と連載していましたが、ついに100機目の連載が出ました。

    これで、何となく看取ったきぶんいなりました。

    やめるにはいい潮時かな。

    定価は、1314円のまま変更はない。

    105冊で、13万7970円・・・・・高いか安いか?

    車のパーツなら、デフのアッセンブリー1個分ぐらいである。

    再生産されたデフのパーツは、9万円ちょっとだったことを考えると、まあ安い?

    最初の5年ぐらいは、安かったかな、内容に対して

    ここ10年は・・・・疑問符が出始めて、

    惰性で10年・・・約60冊分・・・・・

    買って、サーと読んで・・・・・おわりな内容

    なので、タミヤニュースの方がよほどマシという気がする。

    でも16ページも減ってるから「実質値上げをしていたのね」という感じです。

    「夢見る翼」という旅客機の連載は今でも好きですが・・・買いつづける理由にはなりませんでした。」

    本屋にもあまりおいてないので、模型屋さんへの取り置き注文でした。

    17年間ありがとう・・・・

    途中で、何度、買うのをやめようかと思ったか。

    ライターも、どんどん減っていき、展示会で見つけた作品を取材して記事にする。

    有名どころのライターが、他紙へ移ったり、お亡くなりなったりして激減傾向にある。

    そこでいきおい、昔のライターが出てくる。

    他紙で連載を持っていた人が、他紙がなくなったので、流れて来た観が強い。

    おもしろかったのは筆塗りの指南でした。

    実際分でも試してみましたが、意外と時間がかかる・・・これは自己満足かな?という感じがしていた。

    (模型製作自体が自己満足の権化だからいいという気もしますが・・・・)

    ご本人会って、話を聞いてみると、乾燥が早いラッカーでも長時間かかることが判明。

    筆でちまちまと塗るほど暇ではないので、興味が失せた。

    読み物としてはおもしろかったが、自分が、実際に時間を見て・・・・実行するのは無理であると判断した。

    記事のないようでもよくありがちな、取材された側から、「あんなこといってないです!」なんて話も聞こえたリもした。

    そのうち、自分たちの仲間内の会みたいな感じの紙面が増えた。

    昔のライターを連れてきて、くだけ過ぎの文章には辟易した。

    特に、決定的だったたのは今回の号で「スケールアビエーション」「モデルアート」の編集長の対談でした。

    その中で、「すそ野を広げるための雑誌的な位置づけ」の主張をしていたことである。

    表紙は、ビジュアル的にはかっこよくなったが、中身は、全然かっこよくもない。

    中身はごった煮的な、ちょうど週刊誌の様な感じの体裁。

    中身的には、小学校の学級新聞的な紙面である。

    表紙は、洗練したつもりだろうが、なんか暗い、明るさがない。

    「SA」とかかれても・・・・なんの事とやらと思ってしまう。

    (まだ、少し前の白を基調として、画面を抜いた感じの表紙は良かった。)

    大体、写真の飛行機系のコンテストなら落選系の写真であろう。

    外観(パッケージ)は替えてみた、でも中身は、基本路線は変わらずで新奇さはない。

    買って開くと、イラストレーターのコラムがある。

    これは創刊号から変わっていない。

    いつも見たようなイラスト。

    過もなく不可もない、どこかの引き写しのような文章と、チョッとした嫌味で終わっている。

    だいたい、創刊号から読む気にはならない

    今は、次を開くと、ピンナップガールである。

    電車の中では読めない感じである。

    架空のピンナップガールなのだが、有名どころを連れてきているようではあるが・・・ド―なんだという気がする。

    真ん中の見開きもピンナップガールである。

    では、表紙で頑張っている雑誌の割には、中身は貧相なままでである。

    紙面の写真がいいかといえば、あんまりよくない。

    兎に角、初心者向けでもないことが書いてあるが、参考にすべき事項はない。

    大体、工作内容は書いてあるが、具体性はない。

    単に書いてあるだけである。

    模型製作の参考にもならないのである

    わたくし、痩せても枯れても一応もモデラーという生き物です。

    模型を作るのが趣味です。

    模型をつくならない、見てるだけで楽しいと思う人とは少々違うのである。

    AIR Modeler という海外の航空機模型雑誌があります。

    これは飛行機専門の英国の雑誌です。

    これは見ていても楽しい。

    制作過程がすべてビジュアル化されている(英語の雑誌ですが、頑張って読もうと思うのである。)ので、参考になるのである。

    それに資料性のある写真もあるのでのある。

    本物の雰囲気というは結構大切だと思う。

    この雑誌は、1650円(ぐら位だったと思う。)ですが、隔月で買う価値があると思うのです。

    SAは、時々、サーと見ていて、これは見てみたい、読んでみたい!という記事は、年に数回、2か3つである。

    これでは、定期購読する意味はない。

    自分は、初心者ではないが、プロ級でもないとおもっている。

    単なる模型趣味のおじさんぐらいの位置づけだと思っている。

    (お友達の素晴らしい作品を見ると・・・初心者かな?と思うこともありますが・・・)

    裾野を広げたいといってはいるが、一部の趣味人に、この人の漫画、写真が載っているなら買ってもいいと言う人を狙っているだけのような気がする。

    だから、お金を出して買う価値がない、そう思えば買うのはよそうと決意するしかないのである。

    (27年09月06日訂正)

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    真夏の死 その2 (ちょいっと付け足し9月3日)

    なぜか、「真夏の死」を再び読んでいる。

    三島由紀夫の作品は、古い全集で読破したのは、大学生の頃・・・であった。

    バイト代を握りしめて、全集を古本屋で購入して読んでいた。

    その当時は、若者にありがちな、食い荒らすような読み方であり、これは、味わのでなく、ひたすら読むことで、文章を吸収することに熱中したのである。

    「読んでいれば幸せ」な、ちょっとまぬけな青年であった私は、ひたすら読んだ。

    一日中読んでいたこともある。

    そうして、全集全巻を読むのに、3か月ほどを要した。

    しかし、読了後の感想は、途中の昂揚感は消え失せ、最後は絶望であった。

    つまり、豊饒の海四部作の最後の一文でぶち壊されてしまったのである。

    そうして、作者の死による、新作のない状態が続き、読むのをやめたのである。

    とはいえ、書簡集や、新発見があった場合は、それを買い、書評のような本、関係のアル本を読み続けた。

    正直言って、最後の豊饒の海「四部作」は単調で、何となく、取材メモの引き写し感があった。

    風景は、風景であるが、情味がない、言葉に味がない。

    真夏の死を読んでいて気が付いたことではあるが、夏雲、積乱雲の事だと思うが「雲を積層して」と書いているくだりを読んだとたん、泉鏡花の「高野聖」の表現に軍配をあげたくなった。

    何となくである。

    でも、積層といった方が、戦後ポイのである。

    しかし、戦後は、戦前を引きずっている。

    明治大正期の時代は、影響を与え、そのまま、地下水の様な影響を与えていたことは明白である。

    何となく、泉鏡花の表現を避けたようである。

    戦後とはいえ、20年.30年代の女性の正装は、まだまだ和装である。

    華やかそうな雰囲気が伝わる。

    遊興をいぶかしんでいる夫人の感想の中に、三島は、少女歌劇団に、「大阪なまり」を感じる点は、何となく、いやな感じを受けていたのかもしれない。

    それとも、懐かしい感じを受けたのかは定かではない。

    閑話休題

    では、なぜ、「真夏の死」を再び読んでいるのか?

    気分は、不可解である。

    翻って考えるに、私は、読むことを目的とした読書から、味わう読書へと変貌を遂げたころの事を思い出す。

    泉鏡花先生の作品に惑溺していたころ、眉隠しの霊という作品にいたくほれ込んだことがある。

    夏目漱石の「吾輩は猫である」にも、江戸趣味的な癇癪持ちの楽しさを発見した時。

    延々と読んでいた。

    単行本が擦り切れてしまうほど読み込み、一時期は、暗唱したぐらいである。

    そうして、最近は岡本綺堂の作品にいれ込んでしまい。

    延々と1年間再読を繰り返すという愚かな行為を続けたのである。

    そうして、ここ2週間ほどは、「墨東奇譚」と「真夏の死」を読みこんでいる。

    墨東奇譚については後日書くつもりである。

    真夏の死は、三島が主張してやまない、逆円錐形の様に、結末が収斂してくとという言葉に引きずられて読んでいるのである

    行間を読む、読もうとしている。

    まさに、言葉一時一句の間に、もしかしたら、意味があるのではないかと。

    結末の「何かを待っている」とは、文中の「何かを待つようになった」とイコールなのか?

    夫が、、生き残った子の手を強く握るのは、夫人の災害を装った無理心中から、子供を守るためなのか?

    それとも、放すまいとする意志の表れなのか。

    読んでいると実に楽しいのである。

    歩いているときに考えてしまうのである。

    婦人の気持ちは、振幅する、子供たちの死を忘れることを良しとする、良しとしたい気持ち、そうして、その気持ちを責める心持。

    そうして大きな振幅は徐々に小さくなる。

    小さくなっても時々、無意識の内に、子供が死んでいないという気持ちがはみ出てくる。

    そうして、また、A海岸へ向かう。

    結末の銘記してある下手な推理小説よりも楽しいのである。

    最初(中学生)のころ、三島の作品を読みだしてまず感じたことは、文体が美しいことである。

    泉鏡花や、森鴎外のような、漢文的、文語調的で、ちょうど漢文を素読をするときの息継ぎをする感覚の歯切れのよさ出はなく、口語文体の中にある、流れのよいリズム感、語調の美しさ、漢字と文字の感覚的な気持ちよさを「よい」と感じたのである。(27.09.02)

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