セロ弾きのゴーシュ 異聞 その1

みんなんちょっと、赤くなった目をこすりながら、森の集会所へやってきました。

今度、新しく、小川に架かる古い水車小屋へ引っ越してきた男の事で相談するために集まってきたのでした。

みんなは、古い水車小屋の近くに住んでいました。

野ネズミ、狸、フクロウ、カッコウなどが家族や、一族を代表してきていました。

引っ越してきた男の奏(かな)でる、たまらなく下手な音に、みんな困っていたのです。

夜は、寝静まる時間、食事をする時間でもありました。

寝入いった頃に、がーがーごーごと調子はずれな音を出すのです。

びっくりして目を覚ましてしまいますし、獲物は逃げてしまい・・・みんなへとへとでした。

みな、住み慣れたところは離れたくないし、かといって、夜眠られないのも困る。

夜、狩りができないのも困る。

そう思って、みんなでいい知恵を出そうと集まったのでした。

最初は、追い出そうという事になりましたが、みなそんな力はありません。

先回は、引っ越すべきか、否(いなか)を語り合いました。

皆は、それは難しいという事になりましたので、引っ越さないくて良い様に、どうしたらいいのかという事になりました。

森の集会場は、郊外の森の中です。

みんな、寝不足だったり、空腹だったりしていい意見が出ません。

「ねぇ、水車小屋に、最近、越してきた男はなんであんなに下手なんだい❓」

とカッコウが聞きました。

そうして、一呼吸おいて

「夜中から朝にかかて、がーがー、ゴーゴー音を立てているんだけれど、あれは下手になる練習をしてるのかい?一体何だい?」

と云いました。

狸の親父さん、大きな腹を抱えながら苦しそうに、

「この間から、夜になるとがーがーごーごとうるさくて、眠られないのだよ。」

時々日向ぼっこに来る猫がしたり顔で

「どうも、町の金星音楽団の団員らしいね」

狸が、目をパチクリさせながら

「あれで、音楽団楽員だって・・・・」

カッコウが

「あんなだらけた、音程のずれた楽員なんているのかねぇ」

野ネズミお父さんは、

「夜、巣穴に響いて眠られないんだよ。

前みたいに、水車が、ギギギバタン、ギギギバタンという音なら、丁度、子守唄ような感じで聞けましたがね。」

とパチクリした目をくりくりとさせて云いました。

猫がこんなことを言い出しました。

「下手だから練習するんじゃないかなか。

昨日も泣きながらぶつぶつ言いながら帰ってきたよ。」

カッコウが、「なんか、文句言っていたねぇ」

猫は、音楽というものは上手ければ大変精神衛生上よい効果をもたらすという事を聞いてきました。

そこで、住人は、上手くなれば引っ越さなくてもいいのではないかとというお話になりました。

みんなは、何が悪くてあんなに下手なのかわかりません。

原因がよくわかりません。

楽団員なんだから、そこまで下手ではないと思うのだが・・・

音程がずれている。

間延びする。

テンポが悪い。

口々に云うのですが、なんとなく、要領を得ません。

そこで、皆は、猫は、町に住んでいることもあり、耳もよく、音楽には詳しいので、値踏みをしてもらおうという事になりました。

カッコウが、「最近は、夜中から明け方まで弾いているので眠ることもできない」

ぐったりしたとしたか顔で言いました

猫は、したり顔で

「もうすぐ町の音楽会があるんじゃなかったかな。

だから余計に練習をしているんだね。」

みんなは一同に、「それは何日だい?」と声をそろえて言いました。

猫は、自信がなさそうに、「来週か、さ来週じゃないかな」

フクロウが一番げんなりした顔で、

「あと二週間も続いたらわたしゃ飢え死にですよ。

あの音のせいで、ネズミもモグラも夜出てきません」

ネズミのお父さんは、首をすくめました。

フクロウは、

「もう少しましな音で、聞きほれるぐらいなら、ネズミもモグラもそのそでてくるんそのそでてくるんですがね」

猫が、茶化すように

「出てきて、喰われてしますんですか?それなら出てこない方がいいじゃないですか」と嫌味たらしいことを目を細めながら言いました。

フクロウは、

「我々は、紳士協定で、ちゃんと縄張りがあるんでね、猫みたいにどこへでもうろうろ入って行って人のものをちょろまかしているのとはちがんだよ。」

すると猫は、背中を赤くく光らせながら

「じゃ、私は帰った方がいいようですね」とぷんぷん怒り出しました。

すると狸のお父さんが

「ねこさん、あなたがいなけりゃ困るじゃないか」

とちょっと目をしばたた出せながら困ったように言いました。

そうして

「最初にどの程度の腕前か、どの程度の楽器なのか判断をするという重大な責任があるじゃないですか、それをお忘れですか」

とさも重そうな腹を抱えて言いました。

ねこは、プンプンしながら

「今晩行ってきますけど、あとはご自分たちで何とかしてくださいね」と云った

ネコは、気を取り直したような顔で

「ところで、あの男の名前は何と言うんだい?

こーしゅ、とかゴーシュとか言うように聞いていたけれど?」

カッコウが

「ゴーシュ」と云いました

「ねじれ者?左利き?」

「コーシュてなんだい?」

「よく夜中に訪ねてくる、彼の友達、と云うか恋人だね」

「夜中に忍んで来るなんて変だね」

「でも最近、来ないみたいだよ」

「別れたのかなぁ」と口々に言いはやしました。

猫が突然

「わかりました、ゴーシュさんですね、今晩行ってきます。

野良になってから人間の家の床下はお気に入りだが、部屋の中は剣呑だね」

と云いながら猫は、帰っていきました

残った狸のお父さんは

「では、とにかくここから出ていっいてらえないなら、うまくなってもらわないとね。」

カッコウは言いました

「猫さんの観察眼に頼るしかないですね。

で、次はだれがいきますか?」

みんな黙ってしまいました

すると野ネズミ父さんが

「演奏が下手すぎるなら、みんなで引っ越すしかありません。

 何とかなんる様なら・・・何とかなるようにしてあげましょう。

 猫さんの報告を聞くしかありません」

狸のお父さんが、「今日行きますかねぇ」といった。

みなんかをお合わせて見まわしました。

そうして、ふーと息を吐いて

期待しましょうと言って別れた。

その日の晩、猫はあくびをしながら、小屋屋根の上でねそべっていました。

この上で寝るのが一番気持ちいがいいなぁと嘆息を漏らしました。

すると、町の方が、月夜に照らされて大きな荷物を抱えた人間が歩いてくるのに気が付いた。

足を引きずるよにして歩いていきました。

猫は、人間は、人のところへ行くときは「おみやげ」とかいうものを持っていくんだったねぇ。

口の中で

「おみやげおみやげ」と云いながら歩いていると、水車小屋の前に来てしまいました。

お土産なんてありません。

きょときょとと見まわすと、青いトマトが見えました。

これでいいやと思って、茎を歯で食いちぎって1個手に持ちました。

翌日

森の中には、背中をぶるぶると青く光らせて寝込んでいる猫の周りにみんながぞろぞろ集まると、猫は開口一番

「あー、ひどい目にあった。

 人間てやっぱり怖いや

 うちのおばあさんの家に蓄音器があって、いつも、トロイメライを聞いていたので、これならよくわかると思って注文したんだ。

 ロマンチックシューマンのトロイメライを弾いてくださいてね。

 すると、弾いてあげるみたいなことをことを云っていきなり、大音響でインドの虎狩りを弾きだしたんだ。

 ずんずんバンバン。」

 猫は、いろんなところをぶっけたみたいで、ところどころ青く光っていました。

 おまけに最後、親切そうなことを云うので舌を出すと、火をつけられてね・・・」

カッコウは、せっぱつまった感じで

「どこが悪いと思う?」と聞くと

猫は「うーん・・・・基本ができてないね。

ドレミの音程も変だし、テンポもおかしい、腕が悪くてテンポがおかしいのか楽器が悪いのかわからない。」

床下で聞いていた、みみずくのおばさんが、

「音が変だねぇ、なんだかズレているよ」

すると、狸のお父さんが、

「ドレミが一番、上手なのは、カッコウさんですよね・・・・」

カッコウは、ふるふるっと震えて・・・「私の順番ですか・・・・・・仕方ないですね」

猫が意地悪く

「窓を閉められると、捕まって焼き鳥にされてしまいうかもしれませんよ」

カッコウは、灰色の胴体を、いよいよ薄く沈んだ色にして

「今晩、屋根裏から入ってみようと思います」

猫が云いました

「人間は、鳥や、動物なんて馬鹿にしているから、おだてないとだめだよ。

こちらが教えてやるなんて言った日には、それこそ何にも聞きやしない。

いうななら、教えてくださいとでもいった方がいい」

カッコウが、「何を教えてほしいと言えばいいんですか」

猫は、「ドレミの音階も少しおかしいから、カッコウさんの正調なドレミを聞かせれば、自分で気が付くのじゃないかな・・・」と焦げた下で苦しそうに云いました。

カッコウは、不安げに「気が付きますかねぇ」といった

狸のお父さんは、

「何せ、人間は、あとから来たくせに自分たちが一番偉いと思い込んでるやつらです。

でも、おだてられると気持ちよくなって、いい人になります。」

カッコウは、もうすぐ南の国へ留学することになっていたので、

「留学前の復習とでもいえばいいんでしょうか?」

猫はめんどくさそうに

「留学なんて言うと、生意気だって怒るから、外国に行くからとでも言っておけばいいや」

と云いました。

そうして、みんな眠そうな顔ををして、ぞろぞろと帰っていきました。

カッコウは、昼の内に、屋根の軒の破れ目から天井裏を抜けていく方法見つけていました。

屋根裏は暗くてここちよかったので、寝不足も手伝って、うとうと眠り込んでしまいました。

あたりがシーンと静まって寝込んでいると、急にバタンと音がして

天井裏に光が漏れてきました。

なんだか、もしゃもしゃパンを食べて、

「さて」と云いながら、大きな箱を開けて楽器を取りだしました。

カッコウは、明け方になってようやく帰ることができまた。

ズキズキ痛んでいるくちばしが気になりましたが、焼き鳥にされてしまうのはたまらないと思って逃げて帰っていきました。

その日の夕方

森ではまた皆が集まってカッコウの話を聞きました。

カッコウの腫れあがった顔を見ながら、みんなは、口々に言いました。

大丈夫かい?

どうだった?

カッコウは言いました。

「ドレミファの音階は何とかなるみたいです。

でも、なんか音がズレて変です。

楽器が変なのか、弦が悪いのかはわかりませんでした。」

狸のお父さんが

「では、うちの子を今日は行かせましょう」

フクロウが、「大丈夫かい」

猫は、「丸々しているから捕まって食べられちゃうかもね」

狸のお父さんは、「いざとなったら、化かして逃げますからいいですよ」と笑って言いました

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀河鉄道の夜についての考察 ジョバンニの苦境、牧場での対話

ジョバンニは、そうして、街中を通り過ぎながら、楽しいものを見つつ、牛乳屋(牧場??)へやってきます。

第3稿、第4稿も記述内容に変わりはありません。

 

ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの気が幾本も幾本も、高く星空に浮かんでいるところに来ていました。

ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮んでいるところに来ていました。

 

地形的に云えば、家のある丘から街へ降りて(坂を下ると書いてる)、街はずれの丘を登るような感覚であろう

か?

街の中心に、大きな河がある。

文中では「街はずれ」と書いてあるが、近くには丘陵用の様な丘があり、牧場があると考える。

河を中心として、街が広がるような感じと想像している。

それは、牛乳屋と記載があるが、牛をかっているのでではないかと思うのですが?

牧場は、低湿地には作らないし、街からある程度離れているはずである。

それを、「街はずれ」と書いてるが、あまり街から近いと、異臭で苦情は出たはずである。

であるからして、ジョバンニは、ある程度歩いたということになる。

そうして、ジョバンニは、丘の中腹とでもいうべき場所にある丘へあがって来る。

そうして

その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。

その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云いましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。

「今晩は、ごめんなさい。」

「今晩は、ごめんなさい。」

ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。

ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。

ここで、帽子を取って、まっすぐに立って「こんばんは」と掛けたのである。

ここで感心するのは、ジョバンニは、礼儀知らずではないという点である。

父親が、密猟者?で、人を傷つけるような人という感じは感じられない。

呼びかけてみると、一人の女性が出てくる。

第3稿と最終稿の記載は違う

 

するとしばらくたってから、年老った下女が、

第3稿は、「年取った下女」である

するとしばらくたってから、年老った女の人が、

最終稿は、「年老った女」になっている。

出現の仕方に随分と差がある。

横の方からバケル(バケツ)をさげて出て来て云ひました。

この場面では、「年取った下女」は、使用人という雰囲気が良く出ている。

後段の物言いも、下女の様である。

どこか工合が悪いようにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云いました。

最終稿は、下女ではなくて、牧場主の親の様な感じを受ける。

第三稿では

「今晩だめですよ。誰も居ませんよ。」

と、下女は云う。

この物言いには、自分には、何かを主体的に回答する意思は感じられない。

 

そうして会話は続く、ここは、第3稿も最終稿も相違はない

「あの、今日、牛乳が僕ん所へ来なかったので、貰いにあがったんです。」

「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰いにあがったんです。」

 

ジョバンニは積極的に、一生懸命お願いしている感じはするが、「貰いにあがったんです。」

と言う語調に若干の非難めいた感情も感じられる。

 

ジョバンニが一生懸命勢よく云ひました。

ジョバンニが一生けん命勢よく云いました。

 

下女は答えて

「ちゝ、今日はもうありませんよ。あしたにして下さい。」

ここでは、商品がないから、明日、出直してこいと言う語調である。

でも、お客なので、言葉つきは丁寧である。

でも、ここで感じるのは、ジョバンニの家にはわざと配らなかったというニュアンスが感じられる。

 

しかし、最終稿では、答えている老女は、明らかに、牧場の仕事や、その事務等を手伝っていない人であることが判る発言をしている。

「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」

ジョバンニを、卑下して感じさえ受ける。

下女は着物のふちで赤い眼の下のとこを擦りながら、しげしげジョバンニを見て云ひました。

そうして、下女は、着物(洋服の事である)使って、目の下を擦りながら、ジョバンニをしげしげ見て言う。

ジョバンニの服装を見ているのである。

云わゆる値踏みをしていると考えてよいと思う。

この時のジョバンニの気分はいかばかりであったか。

ここで、下女とジョバンニの位置関係を考えてみたい。

下女は、牧場での作業をしている途中で、バケツを下げて横合いから出てくる。

老女は、室内から出てくる。

下女は相対して、たぶん、ジョバンニを若干、見ろしている感覚ではないだろうか?

当時の女性の身長は140から150センチ程度であろう。

ジョバンニが、小学生なら同程度が若干低い程度ではないかと思うのである。

だからこそ、下女は、しげしげと見たのであろう。

 

ところが最終稿では、女の人は、見降ろす形で相対であることが判る。

その人は、赤い眼の下のとこを擦りながら、ジョバンニを見おろして云いました。

 

位置関係を考えると、ジョバンニは、上からモノを言われていることになる。

何となく、ジョバンニの立場が弱いことを示している様にも感じられる。

下女に対す言い方は、それほど強く行っている感じは受けない。

「おっかさんが病気なんですが、ないんでしょうか。」

しかし、女の人に対する言いぶりは、説明的であり哀願している様子が出ている。

「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」

 

下女の物言いはそっけない。

ただし、お客さんへの言いわけじみた補足的な物言いをしている。

「ありませんよ。お気の毒ですけれど。」

にべもない感じで、とりつく島がない

ただこうすると、ジョバンニが、丘の上に上がって、牧場の人が帰って来ることを待つという理由、

つまりは、丘の上に横になって眠りこけてしまい、「夢の中で銀河鉄道に乗る」という話へのつながりが悪くなる。

下女はもう行ってしまそうでした。

「そうですか、ではありがとう。」

ここでは「そうですか」と答えている。

第三稿の「そうですか」と最終稿の「そうですか」には大きな意味の違いがある。

第三稿の「そうですか」には、「もう帰ります」という意味がある。

ありがとうといいだけで、またあとから来ますとは云えない雰囲気がある。

しかし、女の人の物言いは、牧場主の家族らしく、「ではもう少したってから来てください。」という。

最終稿でも、「そうですか」と答えているが、この「そうですか」には、「あとから来ればいいのですね」という意味がある。

もう少し後から来て下さいと言われたら、一般的に考えれば、もう一度来なければならないという義務が生じる。

そうして、ジョバンニは、来ないとは云っていない。

下女の応対であれば、ジョバンニは、牧場から街へ行き、ケンタウルス祭を見て帰って行くしかない。

しかし、老女の云いぶりであれば、素直に牧場から街へ行き、ケンタウルス祭を見てから、もう一度、牧場へ行けば良いと思ったのであろう。

ここで、初めて、ジョバンニには、時間の余裕ができた。

その人はもう行ってしまいそうでした。

「そうですか。ではありがとう。」

 

ここでは、第三稿の下女の対応に対して、ジョバンニは、母親に牛乳を持って帰れないことを実感して、自分の境遇を考えて涙を流しながら帰るのである。

ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ましたけれども、なぜか泪がいっぱいに湧きました。

もしかしたら、今帰れば、街中で同級生に逢うかもしれない、それも嫌なことだろう。

そうして実際に、同級生の群れと行き合ってしまう。

しかし老女の対応には、一縷の望みが感じられる。

ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました。

だからこそ、最終稿では、台所から出ましたけれども、なぜか泪がいっぱいに湧きました。」

という記述はなくなります。

下女の対応に対する気持ちというか、涙の原因は、以下の様に、非常に説明的に語られている。

(今日、銀貨が一枚さえあったら、どこからでもコンデンスミルクを買って帰るんだけれど。ああ、ぼくはどんなにお金がほしいのだろう。

自分が、活版所で働いて得た銀貨1枚は、角砂糖とパン1斤で終わってしまった。

今の金額で考えれば数百円であろう。

ちなみに、私、この当時、コンデンスミルクがあったことは知らなかった。)

青い苹果だってもうできているんだ。

カムパネルラなんか、ほんとうにいいなあ。

今日だって、銀貨を二枚も、運動場で弾いたりしていた。

ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生れなかったらう。

(ここで、カンパネルラとは身分が違うことが判る。)

カムパネルラはえらい。

せいだって高いし、いつだってわらってゐる。

一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番の級長で、誰だって追ひ付きやしない。

算術だって、むづかしい歩合算でも、ちょっと頭を曲げればすぐできる。

絵なんかあんなにうまい。

水車を写生したのなどは、おとなだってあれくらゐできやしない。

ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいゝだらう。

(ここで、ジョバンニは、カンムパネルラと友達ではないと語っていている。)

カムパネルラは、決してひとの悪口などを云はない。

そして誰だって、カムパネルラをわるくおもってゐない。

けれども、あゝ、おっかさんは、いまうちでぼくを待ってゐる。

ぼくは早く帰って、牛乳はないけれども、おっかさんの額にキスをして、あの時計屋のふくらふの飾りのことをお話しよう。)

ジョバンニは、せはしくこんなことを考へながら、

 

こんな風に考えながら、ジョバンニは街へ、家へ帰ろうとする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀河鉄道の夜についての考察 ジョバンニの苦境、いじめらる姿について

ご注意

この文章は、宮沢賢治氏が、未完のままに終わった「銀河鉄道の夜」を第1稿、第2稿、第三稿、最終稿への移行を比較検討して、最終稿へ向かった経緯の考察を記載しています。

そうして、美しい友情とたたえられて、劇にも登場するこの二人の関係を、先入観なしに解体して行こうと思っています。

ジョバンニのカンパネルラへの狂おしいような愛惜の念を感じて以来、カンパネルラは、ジョバンニの友人だったのかという疑問への回答を導くための自分の思考である。

多くの研究家が書いているであろう、作品への解説はあえて読んではいない。

そのような状態で、この文章は書いている。

 

「ジョバンニが、虐められている情景」

「かわいそうなジョバンニ」の体験

緑の字は、最終稿

赤の字は、は第3稿

最初に出てくるいじめの情景

「午後の授業」の風景

先生が回答できるであろうことを予想して

「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」

というと

ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。

ここでは、ジョバン二の性格の一端が現れている。

焦ってしまうと言葉が出てこない。

つまりは、焦ると言葉が出ない。

これは、場慣れしていないかもしれない。

しかし、昔の情景を読みとけば、以前はハキハキと答えていたようにも取れる部分がある。

この場でのジョバンには、気が小さい、度胸がない性格に転換している。

そうして、ジョバンイの後で先生に指名されたカンパネルラが、この後、答えられないのは、ジョバンニへの忖度(笑)からだと、ジョバン二は夢想している。

ここで表現されているジョバンニの性格は、内気な少年である。

後段語られる、道端で、偶然、出会ったザネリに対して、ジョバンニの方から言葉を投げかける姿勢とはちょっと差異があるようにも思える。

現在は気が弱いというか、弱っているジョバンニの心根が、心底弱体化していなことの証明でもあるように考えることもできる。

狂言回しの様な重要な役割を担っている、同級生の「ザネリ」の登場は早い。

ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました

このクスッと笑うという仕草は異常に嫌味な感じを受けるのは私だけだろうか?

わたしの個人的な経験ではあるが、学生の頃、何時も、にやにやと笑っている奴がいた。

この笑いは、何となく薄笑いという感じで、不愉快さを惹起するのである。

ジョバンニは、もうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。

答を、知っているのに言葉が出ないという状況は、あまり気の強い感じはしない。

この作品は、戦前のお話である。

当初は、子供向けに書いてあるように思えるが、稿を重ねるにしたがい、途中から中学生ぐらいを対象にしたような感じを受ける。

戦前の文体の流れで行けば、ジョバンニは、どもり(吃音)の少年に遇される感じがしてならい。

どもりながら、答えられず、クラスの嘲笑の的になったと云えば、何となくこの流れで行けばしっくりと来るのである。

しかし、「どもり」という設定は出てきていない。

「どもり」の少年が、金持ちの優等生にあこがれを持つと云うのは、昭和の時代の漫画的でもある。

「どもり」にしてしまうと、カンパネルラが、ジョバンニの友達という前提がぐずれてしまう。

子供向けの作品であるから、子どもが、ジョバンニに共感を持てなければならないと考えるのは穿ちすぎであろうか?

「どもり」の子供に、読者である子どもは共感はできないだろう。

さて、「ザネリ」は、焦って何も言えないジョバンニを見て、バカにしたように笑う。

ここで、クラスの中では、ジョバン二に対する相反する存在があることを明示している。

「ザネリ」という悪党

「カンパネルラ」という優しい同級生

だが、これは円柱の表面の一カ所に居るジョバン二を起点として考える

ジョバンニの位置から見れば左右に分かれている様に見える「ザネリ」と「カンパネルラ」ではある。

円柱を廻りこんでみれば、「ザネリ」と「カンムパネルラ」はつながっている。

円柱の位置で言えば、ジョバンニの位置から180度ずれたところに表裏一体で存在している存在とみる方がいいのかもしれない。

ザネリは、カンムパネルラであり、カンムパネルラはザネリでもあるということになる。

こう書くと、悪感情を持つかもしれない。

カムパネルらとザネリのグループと、孤立しているジョバンニ

ジョバンニが思う様な心持を、カンパネルラが本当に持っていたのであれば、

なぜ、カンムパネルラは、ジョバンニに対する誹謗中傷を許しているのか?という事にもなる。

なぜ、カムパネルラは、ジョバンニを助けないのか?

私が、最初に読んで感じた疑問はここから始まったのである。

最終稿では、ジョバンニの私生活がよりリアルに描かれる。

しかし、その反面、第三稿で描かれた多くの説明的な部分を隠したともいえる。

最初から、ザネリという、ジョバンニにとっては、気分の良くない存在がいることをわざわざ表明している。

そうして、ジョバンニの存在自体は、クラスの中では浮いた存在、つまりは、虐めの対象でしかないという事を如実に物語っている。

この時、明らかにザネリは、ジョバンニをバカにした風体を取っている。

ここで、ジョバンニが答えると、もっと陰湿ないじめが待っているのかもしれない。

他の同級生は無反応である。

ここで、ザネリがいじめの主犯であることが判る。

ジョバンニが、配達されなかった牛乳を取に行く途中で、ザネリに出会う。

いきなり一人の顔の赤い、

いきなりひるまのザネリが、

第三稿と、第四稿では、出だしが違う。

第三稿では、最初に「ザネリ」という名前はでてこない

「顔の赤い小さな子」としか表現されてはいない

 個人的な名前を出すという事はより近しい感じを現出するというか、具体的になるという事であると思う。

「顔の赤い小さな子」と書くと、何となく、存在自体が、ぼやけた存在になってしまう。

しかし、虐められている側は、常に、虐めている側を認識する。

特に弱い性格ならなおさらであろう。

すると、第三稿では、出会った瞬間に、ザネリを認識できていないと表明しているようなものである。

しかし、最終稿では、最初からザネリと認識している。

それは、いじめる側からの逃走の準備の為である。

合いたくない相手と出会う可能性がある場合、全周に警戒網を曳くのである。

ウサギの耳はなぜ長い?という寓意にも近い。

虐められる側としては、虐める側の人間は、敵でしかない。

敵は、早期に感じるものである。

これは何となくわかるというレベルで語るべきではないのかもしれないが、現実的には、何となく第六感が働くのである。

いじめっ子の存在をクローズアップするためには、最終稿では、最初からいじめっ子である「ザネリ」を認識して偶然会ったことによるダメージをから全力で逃げたい気分がまえにでている。

新しいえりの尖ったシャツを着た小さな子が電燈の向ふ側の暗い小路から出てきて、

新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路から出て来て、

3稿最終稿の共通しているのは 「新しい襟の尖ったシャツ」である。

その後は、「小さな子」は、最終稿では削られる、これは「顔の小さな子」の対比なので仕方がない。

しかし、ここで、ザネリは小さな子でもであると認識できるのである。

ここでは、ザネリは「新しい襟の尖ったシャツ」を着ている。

ジョバン二は、丈の会っていないぼろぼろの普段着を着ている。

一般的な家庭と、そうではない家庭の格差が表現されている。

第三稿で描かれる、ジョバンニの父親が、密猟者なら、所謂水揚げは大きく、一般家庭よりもより多くの収入を得ていたことは想像に難くない。

金にものを云わせることには、皆が首をすくめて通り過ぎるのを待っているかもしれなかかった。

多くの人は、金に頭を下げるのである。

しかし、街の人たちは、ジョバンニの一家の生活を苦々しい気持ちで見ていたとする。

不正な手段を使って金も儲けをして、裕福な生活を送っているという認識を持っていたのであれば、その根源である父親が、犯罪者としてつかまっているという事実が判明した時点で、金に下げていた頭は下げなくなる。

そうして、捕縛されて監獄に入っている状況であれば、二度と不正な儲けで栄華を極め自分たちの上に君臨することは無いことを認識しているのかもしれない。

ひらっとジョバンニとすれちがいました。

ひらっとジョバンニとすれちがいました。

ここでは、ジョバンニは、積極的にザネリに対して、「ザネリ、何所へ行ったの」と聞いている。

ここでは、ザネリとその仲間は、家に帰り、烏瓜を探しに行きケンタウルス祭の祭りの準備をして遊んでいたという前提をであることは容易に想像ができる。

単純に云えば、ジョバンニは活版所で活字拾いのアルバイトをして働いている。

送金が途絶えて、子どもながらに働かなくてはならない立場のジョバン二。

ザネリのように両親が健在で、働かなくともよい境遇の子供.

その対比は、朝は、新聞配達、授業の後、延々と仕事をして、食材を購入し、病気の母親の面倒を見て、子供ながらに八面六臂の生活を送っている子供と、

授業の後は、ケンタウルス祭のために烏瓜を探しに行き、新品の襟の尖ったシャツを着てお祭りに参加する子供。

ジョバンニ以外の子供たちは仲の良い友達と何所かへ行った帰りという雰囲気がある。

ところが、最終稿では、「烏瓜を流しに行くの?」と聞く

これは、虐めの主犯のへのお追従であり、なるべく嫌なこと言われないようにする予防線と感じる

第三稿では

「ザネリ、どこへ行ったの。」

過去の事を聞いている

いじめっ子の年季が入っている証拠は、間髪を入れない「嫌味な文言である」

「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着が来るよ。」と投げるように云うのである。

これはたぶん、ジョバンニが、虐められる側はではなかったころ、おおい張りで

「お父さんから、ラッコの上着が来るんだ。」と吹聴していたのであろうことは容易に想像がつく

以下の部分で、第三稿も最終稿も記載内容に変更はない。

行き合った瞬間に、ザネリと認識していないのであれば、「ザネリ、どこへ行ったの?」とは聞く暇もなかろうと思う。

だからこそ、最終稿は、最初から、ザネリと認識をして、ザネリに先制攻撃を掛けるべく準備をしていたと考えれば、逢った、次の瞬間に、ジョバンイの方から声を掛けることができると考えるべきであろう。

ザネリと認識していないのであれば、ザネリの「ラッコの上着が来るよ」という言葉を矢のように突き刺されて終わっていたはずで、ジョバンニの心の負荷はより大きなものであったと感じのである。

ジョバンニがまだそう云ってしまはないうちに、 

ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、

「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。

「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。

以下の文章で、ジョバンにとって、この言葉が大きな棘であることが判る。

言い換えれば、それほどまでに有頂天になって「お父さんから、ラッコの上着が来るんだ。」と吹聴していた左証ではないかと思う。

ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思ひました。

 ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思いました。

そうして、第三稿では、ジョバンニのお父さんから「ラッコの上着が来ない理由が語られる。」

第三稿で語られる、ジョバンニのお父さんは、より明確に、密猟者で、人にけがをさせた犯罪者という位置づけである。

しかしこの位置づけは、あとから困るので、最終稿では抹消されたことがよくわかる。

ジョバンニお父さんが、金のために密猟をして、人を傷付けた犯罪者であれば、カンパネルラのお父さんはお友達でいるはずがないと気が付いたのであろう。

犯罪者と云い切ってしまえば、ジョバンニの不幸などん底の感お漂う日々の生活はより明らかになる。

しかし、最後のつじつま合わせには、犯罪者と云い切ることを避けさせたのだと思う。

ジョバンニの家の生活苦は、お父さんからの送金が途絶えて久しいことをあらわしている。

 だからこそ、お祭りの日、つまりは「ハレ」の日でありながら、ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままでいる。

そうして、みんなが町の広場にあつまって、一緒に星めぐりの歌を歌ったり、川へ青い烏瓜のあかしを流したりする、たのしいケンタウル祭の晩なのに、授業が終わってから、活版所で写植を拾い、

家に帰れば、病気のおっかさんがのむ牛乳が配られて来ていないので、下の町はづれにある牧場まで取りに行かねねばならないでした。

はずれと云うのだから、結構な距離なのだろう。

道行は楽しくはないだろう。

苦役に思えるかもしれない。

本文以下の通り

なぜならジョバンニのお父さんは、そんなラッコや海豹をとる、それも密猟船に乗っていて、それになにかひとを怪我させたために、遠くのさびしい海峡の町の監獄に入っているといふのでした。

ですから今夜だって、みんなが町の広場にあつまって、一緒に星めぐりの歌を歌ったり、川へ青い烏瓜のあかしを流したりする、たのしいケンタウル祭の晩なのに、ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままで、病気のおっかさんの牛乳の配られて来ないのをとりに、下の町はづれまで行くのでした。

以下の文章で、ジョバンニが、ザネリを恐れていながら、取り巻きがいなければ、ザネリ本人は弱い人間とおもっている。

それに、以前はバカにしている対象だったのだと思う。

「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向うのひばの植った家の中へはいっていました。

(ザネリは、どうしてもぼくがなんにもしないのに、あんなことを云うのだろう。

「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。

以前はバカにした存在だったと思うのは、「走るときはまるで鼠のようなくせに。」と思うからである。

そうして、心の叫びは、自分が今はなにもしていないのにもかかわらず攻撃されているのが許せない感じがあり、最終稿ではわざわざ「ぼくがなんにもしないのに」とついつい書いてしまう

けれどもあんなことをいうのは、ばかだからだ。」

ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかだからだ。」

つまりは、ジョバン二にとっては悲し境遇が説明されていると感じられる。

20190726

20170727加筆

 20170729 加筆訂正

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銀河鉄道の夜 考察(その4) 

 実際読んだことはなくとも題名ぐらいは聞いたことがあるだろう。

ちょっと、メルヘンチックである。

 

その昔、アニメーションの映画もあった

「ますむらひろし」氏の描く猫を擬人化した映画であった。

とにかく、「ますむらひろし」氏の絵がダメだった。

大体、人型の猫・・・「この細かい機微のある作品を表現しにくい世界だなぁ」と感じたのは当然であろう。

で、当時は見なかった。

申し訳ないが、後年見ての感想は、「ダメな映画だなぁ」である。

主人公たちが、最初から表情に乏しい。

動きも乏しい。

周囲の脇役は表情が豊かだが、文脈に現れる脇役の性格を体が表現していない。

「とりとり」なんかは、どこかの悪党な妖怪みたいである。

主人公が、猫で、でも、船で死んだ人だけ、人間である。

小さい男の子と、123のおねえさんも、何となく、文脈とは違う感じである。

和風でもない、洋風でもない。

要は、脚本も悪いが、絵柄も悪い。

音楽は、YMOの一員であった細野晴臣氏である。

しかし、残念ながら、画面の表情と、音楽があっていないのが残念であるが、仕方がない。

音楽自体は非常にいいので残念である。

坂本龍一のラストエンペラーよりも数段いいと思うのだが?

まあ、要は、画力が足りないから、すべてがダメになっている感じがする。

まあ、当時のアニメ―ションになりがちな作品ではある。

 

さて、私は、宮沢賢治の名前を知ったのは、童話であった。

セロ弾きのゴーシュ、注文の多い店などである。

教科書に載っていた「やまなし」の感想は、不思議な話を書く人ぐらいの認識であった。

で、

ある時、宮沢賢治全集の1冊を図書館で借りて読んだのである。

丁度、その頃、「銀河鉄道999」(松本零士著)という漫画がはやっていた。

友人だったM君は狂っていた。

でも、私は、全然興味がなかった。

松本零士氏のマンガに飽きていたころだったからかもしれない。

だから、いまだに、この漫画を通読したことはないし、内容もよく知らない。

でも、この漫画の所為で、「銀河鉄道の夜」を読む気になったのは事実である。

みんなが、非常に喜んで読んではいるが、その喜んでいる気分を理解することが出来ない。

というか出来なかった。

松本零士は好きなマンガだったが、彼の書くSFをどうも好きになれない

銀河鉄道999 キャプテンハーロック、クイーンエメレルダス・・・

彼らの多くは、結末について熱く語っていいた。

個人的な気分としては、判らない気分が嫌だったのである。

そこで、「銀河鉄道の夜」の行き先に興味がわいたのである。

「銀河鉄道の夜」を読んでみて、最初に思ったことは、変な話という事である。

この話は、夢のような銀河鉄道の旅は、ある博士の実験だったと暴露される。

でもである、実験の途中で、主人公のジョバンニは、友達と共に「幸い」を探すという夢を見る。

そうして、夢だと気が付いて、街へ降りると、友人だと思っていた(と云うか、思いたかった)カンムパネルラの死を、現実として突きつけられる。

そうして、なぜか、父親が帰ってくるという新しい希望に、胸躍らせて「本当の幸福」を探そうとする。

しかも元気よくである。

ここでおかしい感じたのは、カムパネルラとは親友(よく読むとそうでないことに気がつく)の死を悲しんで、普通なら立ち上がれないほど気分は落ち込んでいるはずではないだろうか?

でも、親友が死んだという悲しみが伝わってこない。

軽便鉄道の中から、カムパネらがいなくなった時の激しい悲しみの表現はない。

 

そのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびらうどばかりひかってゐました。(初期稿)

そのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびらうどばかりひかってゐました。(第2稿)

そのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。(第3稿)

そのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。(第4稿)

 

ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。(初期稿)

ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。(第2稿)

ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。(第3稿)

ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。(第4稿)

 

(初期稿この部分なし)

そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して(第2稿)

そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して(第3稿

そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して(第4稿

 

そしてはげしく胸をうって叫びました。(初期稿)

力いっぱいはげしく胸をうって叫びました。(第2稿)

力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。(第3稿)

力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。(第4稿)

 

カンムパネルラがいなくなったことへの反応は、死を予感したのであろうか、非常に激高した様子が見て取れる。

初期稿、第2稿では、「激しく胸をうって叫びました」で終わっているが、第3稿、第4稿では、

「それからもう咽喉いっぱい泣きだしました。」

最初は叫び「カンムパネルラ」の名前を呼んだのだろうか、そうして、大声で泣いたという事であろう。「泣き、叫ぶ」という表現で悲嘆に暮れているという事である。

これは、相当な、精神的な苦痛を伴う感情の発露の表現である。

 

しかし、この後一転して、希望に満ちた言動になる。

ここで話が終わる初期稿、第2稿であれば、字足らずではあるが妥当な感じはする。

 

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。(初期稿)

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。(第2稿)

 

きっともう行くぞ。(初期稿)

きっともう行くぞ。(第2稿)

 

ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」(初期稿)

ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」(第2稿)

 

初期稿第2稿の終わり箱の3行である。

しかし、第3稿では、ブルカニル博士の実験だったという風景が入ることで、幻想的なジョバンニの夢の軽便鉄道の旅は、よくわからない怪しげな博士の実験だったと明かされてしまい、抒情、私情をぶち壊して終わる。

 

話の高低さ(幸福、不幸な感じ)の差が激しい。

銀河鉄道車内でのカムパネルラとの別れによる、暗転

目を覚ますと、銀河鉄道の夢が一炊の夢だったことに気が付く。

そうして、すべては、ブルカニル博士の実験だったと種明かしされる。

暗転は続く

カンムパネルラの死を実感する(暗く重い感情)

カンパネルラのお父さんから、ジョバンニは自分父親が帰って来ることを知らされる。

(明るい話題)

お父さんが帰って来ることに、希望を持った。

そうして、足早に、母親にその良い知らせを教えるために、走って帰る。

なんだか、妙な違和感を感じた。

唐突な感じを受けた。

である。

 当時は、第3稿と、第4稿の混合バージョンであったから、ブルカニル博士という怪しげな博士に操られて夢を見ただけだった・・・という、箸にも棒にもかからない作品だと思ったからである。

丁度、一生懸命に編まれてレースを、一本の糸を抜いてバラバラにした感じ(実際にはそんなことはあり得ないが・・・)に似ている。

分かると急に興味が失せた。

そうして、ここ数か月興味を持つて読み込んでいると、いろいろのことがわかった。

実は、現在販売されている本の大部分は、第4稿(最終稿)に準じた作品ということになる。

確認したころ、平成5年ぐらいまで、第3稿・第4稿の混合バージョンが主流であった。

わたし読んだものは、第3稿と第4稿を無理やりつなぎ合わせたもので、この作業は編集者と親族が行ったという記述があった。

未完成作品の編集に編集者の意見を取り入れるのは、専門家として傾聴に値すると思う。

しかし、傾聴程度という事である。

親族の意見は無意味だと思う。

宮沢賢治の親族であろうなかろうと、そんなものの意見を取り入れることは、作品というか、作家への冒涜であろうと考える。

宮沢賢治の苦悩が、となりいた親族にすべてが理解できるのか?

宮沢賢治は、何所までに行っても、彼は一人である。

代替えの効くものではない。

だから、某書店の弟の作業をというい文を読んだときに、この作品をめちゃくちゃにしていたのはコイツらかと思った。

私の違和感の源泉を作り出した、親族と編集者に対して、ある種の怒りが湧いたのである

| | コメント (0)

「銀河鉄道の夜」の考察「第3稿」「第4稿」の比較 その1

「銀河鉄道の夜」

誰でも知っているような題名である。

原稿は、第1稿(初期稿)、第2稿、第3稿、第4稿が確認されている。

しかも、全ての原稿が揃っているとはいい難い状況である。

良い世の中で、現在は、すべてを筑摩書房の宮沢賢治全集で読むことは可能である。

1 「お話の大まかな流れ」

 話の筋は、虐(いじ)めに会う少年「ジョバンニ」が、丘の草原で、うたたねをする。

 その間に、夢の中で、小さな軽便鉄道で、銀河の川沿いに、死んだ学友「カンムパネルラ」と旅をしたことを見た。

 夢から覚めて、希望をもって生活をするという決意をする。

2 小説の項目

項目は以下の通り

一、午後の授業 (第4稿から)

二、活版所    (第4稿から)

三、家       (第4稿から) 

四、ケンタウルス祭の夜(第3稿はここから始まる)(第4稿)

五、天気輪の柱(第3稿、第4稿)

六、銀河ステーション(第3稿、第4稿)

七、北の十字とプリオシン海岸(第3稿、第4稿)

八、鳥を取る人    (第3稿、第4稿)

   (銀河で鳥を捕まえて商売にする人)

九、ジョバン二の切符

 ①車掌に、切符の提示を求められる (第3稿、第4稿)

 ②鳥を取る人が居なくなる       (第3稿、第4稿)

 ③氷山に船ぶつかり亡くなった人たち(遭難者:家庭教師、2人の子供)が

  乗り込んでくる。             (第3稿、第4稿)

 ④灯台看守が、なにが幸せかわかりませんという。(第3稿、第4稿)

 ➄灯台看守が、リンゴを配る。     (第3稿、第4稿)

  (初期稿はここから始まる。

   リンゴを配るのは、遭難者の年長の姉:3稿4稿では出てこない。である。)

 ⑥渡り鳥へ信号する人が出てくる。  (第3稿、第4稿)

 ⑦老人が、急な坂を下りていく時に、この鉄道が一方通行であることを語る。  

                         (第3稿、第4稿)       

 ⑧なぜか、インディアンが出てくる。  (第3稿、第4稿)

  インデイアンが、白鳥を射殺す。

  白鳥を手に入れて去って行く。

 ⑨銀河での架橋演習を見る。      (第3稿、第4稿)

 ⑩双子のお星さまのお宮        (第3稿、第4稿)

 ⑪サソリの火の話             (第3稿、第4稿)

   自己犠牲を希望すれば、死後も輝いているという言葉

 ⑫ケンタウルの村を通る        (第3稿、第4稿)  

 ⑬南の十字架に近づく。        (第3稿、第4稿)

   ここで、ジョバンニと遭難者(家庭教師と、姉のかおるこ)が、本当の神さまの論争めいたことをする。

   南の十字架の前で、遭難者を含めて多くの人が降りる。

 ⑭カンムパネルラとジョバンニの二人きりになる。(第3稿、第4稿)

   二人で、本当の幸福を探そうと誓う

   カムパネルラが、「本当の天上」について語り。

  「本当の天上」で、自分の母親を見つける。

  カムパネルラは、突然いなくなる。

 ⑮ブルカニル博士が出てくる。(第3稿)

  軽便鉄道に乗ったという夢を操っていたことを告白される。

  フルカニル博士が、時代によって事実への認識が替わることを教える。

  宗教についても、「本当」の宗教と「嘘」の宗教を見分ける方法を実験によって得られるようになるという。

  カンムパネルラが、本当に遠くへ行ってしまったと教えられる。

  ジョバン二は、帰る。

  実験のお礼の金貨2枚を受け取る。

 (第3稿ここで終わる。)

 ⑯夢から覚めたジョバン二は、丘を降りて牛乳屋へ向かう。(第4稿)

  牛乳をもらい帰る。

 ⑰帰る途中で、カムパネルラが川に落ちて、行方不明と聞く。(第4稿)。

 ⑱カムパネルラのお父さんの博士と会う。(第4稿)

   博士は、ジョバン二のお父さんが帰って来ることを教えてくれた。

 ⑲ジョバンニは、家に帰る。。(第4稿)

 

3 大まかな流れは、以下の通りである

(1) 現実世界

  (つらい現実)

(2) 夢の世界

  (事実を知るという事、自分よりももっと悲しい出来事に出会っている人を知る。)

(3) 現実世界

  (現状認識を正しく持ち、勉強をしなさいと教えられる、第三稿迄)

  (カンムパネルラの死を事実として認識する。

   自分の父親が帰って来ると云う朗報を得る。)

4 「銀河鉄道の意味」

 そうして「2」の夢の世界は「銀河軽便鉄道の旅」である。

 この鉄道は、北から南に、「銀河」沿いに下っていく。

 この北から南へ向かうという行だりについて。 

  昔は、仏教思想の流れで考えれば、西国浄土へ行く場合、南の方向へ向かって船を進めたというから、南へ向かうという事はそのまま、死の世界へ向かうといゆう比喩とも考えられる。

 耶蘇教であれば、天上へ向かう、北(上)にへ向かう、という比喩を使うような感触を受けるのだが、仏教と耶蘇教に揺れ動いていた賢治の心象の底には、仏教の思想が色濃く残っていたと感じる。

 軽便鉄渡は本当に小さな列車で、乗客同士の間隔は狭く濃密な感覚をを受けるのである。

 鉄道自体は、死者を載せて、途中で、おろすべきところで下ろしていく。

 鳥を取る人は、殺生をしているから、天上には入れない。

 地獄へ行くという事か?

 受難の遭難者は、普通の天上へ行くことができる。

 人を助けるために、自己犠牲をした人は本当の天上へ行く。

 

5「第3稿」と「第4稿」の違い

 第4稿では、第3稿を基本としてはいるが、話自体が長い。

 第3稿には、、「午後の授業」「活版所」「家」の話はない。

 虐められて、居場所がないというシーンはあることはあるが、弱い。

 第4稿で、増えた「午後の授業」、「活版所」、「家」話は、ジョバンニの生活状況が、なんとなくわかるような書き方をしている。

 第3稿では、非常に具体的に、ジョバンニの父親が、人を殺した、密猟をしたとして監獄に捕まっているといううわさ話が流布されて、学校でつまはじきにあっているが書いてある。

 また母親の病気、非常に具体的に働きすぎて倒れたことが書いてある。

 また牛乳ではなくて、コンデンスミルク(粉の牛乳)は、貧乏だから買えないとも書いている。

 ことさら、ひどい生活状況が描かれているである。

 しかし、ジョバンニの精神的な内面については多くは書かれていない。

 第4稿で書き足された、「午後の授業」「活版所」「家」には、第3稿中身を削った入り、大幅に加筆したような形態がにはみられない。

 この書き足された部分には、ジョバンニの苦しい立場の補足的な説明とでもいう話が書かれていると考えればよい。

 学校でも、職場(活版所)でも、バカにされている。

 見た夢は、友達と片道しかない軽便鉄道で 銀河(川)沿いを下って行き、色々な人とで出会うとことがかかれている。

 学校、実世界ではまず逢わない人たちだ。

 第3稿と、第4稿の「夢」は性質が違う。

 第3稿の夢は、ブルカニル博士の「実験で観させられた夢」

 第4稿は、自分の「見た夢」である。

6「死」について

 死という事と、宗教が不可分であった時代の象徴のように、宗教についての論争が行われる。

 車中で、出会う人は、皆、死者である。

 車掌でさえ、死者かもしれない。

 そうして、主人公の少年以外はすべて死者

 同行の友達でさえ死者である。

 遭難した家庭教師と、その教え子2人が車内に乗り込んだときに、初めて、切符を持った 乗客が死者だと分かる。

 「ジョバンニ」は切符を持っていない。

 その代りに、何処へでも行ける通行券を持っている。

 車掌が、この書付を見て、居住まいを糾すことからも、特別な書付と判る。

 「カムパネルラ」、「鳥を取る人」は、切符を持っている。

 軽便鉄道の車内には、死んでいる人と、死んではいない人が居ることがわかる。

 「ジョバンニ」は、「カンムパネルラ」を切符を持っている人として扱わないで、書きつけの同行者として扱おうとする。

 それは、死を振り払う行為である。

 しかし、「カンパネルラ」は、車内から消えてしまう。

 草稿第3稿では、友人が軽便鉄道からいなくなり、ブルカニル博士の遠距離夢操作の実験台だった事を知らされる。

7 「ブルカニル博士」

 第4稿では、第3稿の途中、途中で、解説をしてくれるセロの様なゴウゴウした声、やさしい声と表現されて、時々出てくる。

 この声は、ジョバンニだけでなく、カムパネルラも森の中で聞いたことがあるという。

 軽便鉄道の動力を話し合っている時に、「ステームでも、電気でもない動力で動いている」と答える。

 「この汽車石炭たいてゐないねえ。」(第3稿)

「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」(第4稿)

ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。(第3稿)

ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。(第4稿)

「石炭たいてゐない?電気だらう。」(第3稿)

「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。(第4稿)

ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青白い燐光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。(第3稿)

ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。(第4稿)

向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひとが、ちょっと立ちあがって、そのえりを直しただけ、ほんたうにそこらはしづかなのでした。第3稿)そのとき、あのなつかしいセロのしづかな声がしました。

「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」

「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」

「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」(第3稿)

 最初は夢の中で、ブルカニル博士から、カンムパネルラは遠い所へ行ってしまったと教えられる。

軽便鉄道の車内からカンムパネルラが消えてしまって泣いているとこんな事を云いながら現れる

  「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」

いままでたびたび聞こえたあのやさしいセロのやうな声がジョバンニのうしろから聞こえました。

ジョバンニははっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。

 さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本をもってゐました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」

ここでカンムパネルラは、軽便鉄道を切符に従い降りたことがわかる。

そうして、なぜか、常識は時代によって替わることを教える。

 化学的な実験(計測)方法を見つければ、どんな宗教でも、ウソが見ぬけるようになるとといわれる。

 ジョバンニは、実験の報酬を受け取る。

8 「終わりの文章について」

 第三稿は、こうして終わる。

「ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。

そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。

林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。

「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」

ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。

何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まって何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。

琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」

カンムパネルラが車内からいなくなり、この、ブルカニル博士の会話と、この最後の部分は、第4稿では省かれてなくなっている。

最後の部分は、第4稿の終わりに一部が移動して、生かされます。

そうして、上記の第3稿の終わりから話が続く。

丘を降りていったジョバンニは、牧場へ行き配達されなかった牛乳もらう。

その時、子牛が、さくを逃げ出して、母牛のところで行き牛乳を飲んでしまったことを知らされる。

何となく明るい感じのする話である。

そうして家に帰ろうと、街へ向かうと途中で、川に、子供(カンムパネルラ)が落ちて見つかっていなことを知る。

マルソという「いじめの一派」が、虐めの主犯である「ザネリ」を助けて浮かんでこないことを教える。

そうして、カムパネルラのお父さん(博士)が。「もう、落ちてから45分が過ぎました」と云う事で、死は確定的になります。

そうして、その時、カムパネルラのお父さんは、ジョバン二のお父さんが北の漁場から帰っえって来ることを教えられます。

このカンムパネルラの死の原因をを語ることに拠って、第3稿、第4稿にも共通する「カンムパネルラ」だけは、他の死者とは違い「本当の天上」について語っている意味が分かる。

 カンムパネルラは、車内から居なくなる直前に「あすこがほんたうの天上なんだ。」といいます。

多くの乗客は、途中の南の十字架の前で降りて、天上へ向かいます。

(対比的に、北の十字架が出てきますが、これは、幽界と現世のはざかいと考えるべきなんでしょうか?)

途中で乗りこんできた、家庭教師と小さな男の子、男の子のおねえさんも、そこでおります。

家庭教師と子供2人の死の原因は以下の様に書かれている。

 

「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」

さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました

。青年はかすかにわらいました。

 「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。

私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。

ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。

月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。

ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。

もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。

近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。

けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。

それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。

けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。

それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。

けれどもどうして見ているとそれができないのでした。

子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。

そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。

誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。

私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二文字分空白〕番の声があがりました。

たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。

そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ち落ちました。」

もう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。」

と、死の理由を語らせています。

カムパネルラと家庭教師、二人の子供の降りる位置(天上の門)の違いはなにかという疑問が湧いてくる。

これらの人たちの天上へ行く入口の違いは、死の原因の差ではないかと考える。

カムパネルラは、川へ落ちた「いじめっ子」(悪い人間)を、自己犠牲のもとに救い、自身は死んでしまった。

家庭教師は本来は、守らなければならない預かった子供を、自己のあきらめの感情で、一緒に死なせてしまった、つまりは、家庭教師には「義務を全うしなかった罪」があった。

だから、十字の前で降りていくのである。

つまり、カムパネルラは、(文中には出てこないが、宗教心も厚いのであろう)善人が自己犠牲で、ある意味「殉教者」の様な存在である。

殉教者は、普通の人と比べて、神に祝福されるべき存在である。

だからこそ、「本当の天上」で降りる事になったのだと考えるのである。

第3稿の最後は

「博士ありがたう、

 おっかさん。

 すぐ乳をもって行きますよ。」

 ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。

 何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まって何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。

 琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」

第4稿の最後は、

「ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。」

 

で終わる。

第3稿、第4稿の終わりは、非常に類似している。

第3稿では、カムパネルラの死は、明白ではない。

非常に暗示的である。

強いて言えば、最後の

「琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」

は、流れ星を意味するのであれば、カンムパネルラの死を暗示している様にも思える。 

同じ博士という言葉が出てくる。

片方は、他人を勝手に操る怪しい「ブルカニル博士」

もう片方は、カムパネルラのお父さんで、ジョバンニのお父さんの友達でもある「博士」の差はある。

でも両方とも、非常に知識の高い人という事では、同じ立ち位置である。

おもしろいのは、第3稿では、牛乳の事を「乳」と表現している。

第4稿では。普通に、「牛乳」と表現している。

「家」の部分でも、「牛乳は来ていないのだろうか?」という表現を使っている。

つまりは、宮沢賢治の中では、われわれが認識する「牛乳」は、最初は「乳」であったという事である。

第3稿と、第4稿の終わりの差は何かといえば、ただ、単に、「牛乳(乳)」を持って帰るという位相から、「父親が帰えってくる」という良い知らせをもってかえる点の差が大きいと思う。

20161211から20161222まで

20161223加筆修正

| | コメント (0)

銀河鉄道の夜(宮沢賢治著)考察その3 ジョバンニの性格(その1)

「ジョバンニの行動、性格について」(その1)

 ジョバンニは、銀河鉄道に乗る前は、積極的な面の失せた、逃げ腰な感じが全体に漂っている。

 すべてに対して自信を失っている感じがよく表れている。

 自信を失っている様子は、「銀河が何で、できてるか?」という先生の質問に対して答えを知っているけれど、「このごろは、ジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ち」があり、記述にはないのですが、間違えた答えを言った時、自分を虐めてている同級生の反応が怖くて、答える自信がないという態度が現れている。

 カムパネルラの家で、「あれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだので」、ジョバンニは、銀河は、星の集合体であることを知っていた。

 先生の質問に対して「手をあげようとして、急いでそのままやめました。」という態度の昔は積極的だったから、判ると思った瞬間に「条件反射」で手をあげたが、あげた瞬間に、今の自分お立場として「間違えたとき」、「正解を言って先生に褒められ」ても、虐めの対象になることを肌で感じたのであろう。

だから急いで、手をあげるのを辞めたのだと思う。

 文中では短観に、先生が結局、ジョバンニを当てて

「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」という。

 そうして「ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。」

 言葉に詰まり答えられない。

 すると、恐れたように「ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。」

 この笑いは、悪意に満ちた笑いだったのだと後から分かる。

 ジョバンニには、予想された反応だったのだろう。

「ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。」

 これは、答えられなくなって、赤面したというよりも、恥辱にまみれたということであろう。

 先生は、次の答えられそうなカムパネルラを当てますが、答えません。

 すると先生は、こんな風に語ります。

「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」

 こうジョバンニに投げかけると「ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。」

 うなずきながらも、ジョバンニは、激しい悲しみに襲われます。

 悔しいという気持ちと、自分の不甲斐なさへの自責の念であろう。

 「けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。」

 そうして、自身を取り戻すように、「にそうだ僕は知っていたのだ」と煩悶する。

 第4稿では出てきませんが、第3稿までの文中には、「あゝ、もしぼくがいまのように、朝暗いうちから二時間も新聞を折ってまわしに歩いたり、学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったりしないでいい様なら、学校でも、前の様にもっとおもしろくて、人馬だって、球投げだって、誰にも負けないで、一生懸命やれたんだ。」

 

 以前のジョバンニなら手をあげたのでしょう。

 今は、積極的に手をあげて、答えを言うという行為から逃げている。

 積極的な性格で、クラスのリーダー的な存在だったのかもしれません。

 しかし、今は手をあげることができない。

 それは、自分が今では、その知識の根源であった雑誌を持っている「カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので」気が引けた部分と、何か答えるとザネリや他の同級生が、嘲(あざけ)るようなことを云う可能性があり、そういった言葉を投げつけられるたびに、「ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思う」からでしょう。

 この感覚は、虐められたことの無い者にはわからない感覚かもしれない。

 虐められたことのある者であれば、虐めをしている奴らが近くに来ると、いじめの言葉か来るか来ないかわからないが、「きっとくるという感覚」は常にある。

 相手が多勢であれば、余計にそうである。

 そうして、「いじめの言葉」「態度」が来た瞬間に、胸がキヤキヤする、そうして、ものすごい怒りがわいてくる。

 でも手出しをしないのは、理性が勝っているからである。

 大体、少ない友達がいても助けにはならない。

 そんな友達も、いざとなれば逃げるからだ。

 (私事で、申し訳ないが、昔、宝飾品の販売と、加工をしていた家の子がいた。

H山という子であった。

 小柄で、ザネリの様な子供だった、此奴は、自分が気に入らないと徒党を組んで「いじめ」をする奴だった、この本を読んでいて、ふと思いだした。

 中学以来あってはいない。

 しかし、この家は、20年ほど前に、じ宝飾加工をしていたお父さんが失明して、店をたたみ、まず店の部分が取り壊されて、そのうち10年ほどで、表札が変わり、今は空き地になっている。

 今の正直な気持ちいえば、ざまあみろである。)

 

 それに、ジョバンニは、勤労少年(?)である。

 しかし、これは止むにやまれない状況、つまりは、父親からの仕送りが途絶えたので生活できないからに他ならない。

 明治大正昭和初頭であれば、小学生のころから働いている子は大勢いたと思うし、郡部では、農繁期には学校が休みになり、子供は手伝いに出た。

 出ないのは地主か、庄屋の子であろう。

 一律的に云えることは、家が貧しければ、家計の一翼を担うのは当然であったであろう。

 だから、ジョバンニは、以前は働かなくてもよかった階層の子供であったが、今では、遊ぶ時間がないほど働かなければならない階層への下落を実感して、否定的になって、学校の勉強もできず、このまま下層へ落ちていく今日恐怖から、逃げ腰にっているのかも知れない。

前半部分の「現実」の状態では、ジョバンニは、親孝行ではあるが、逃げ腰な面が目立つ、消極的な姿としか見えない。

「帽子について」

牛乳屋に訪れた場面で、ジョバンニは夜だのに、帽子をかぶっている。

わたしは、この場面を面白いと感じる。

どんな帽子だったのか?

興味深いところではある。

牛乳屋を訪れた場面の文書は第1稿から第4稿まで変更がない。

「ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云いましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。」

個人的に感じる事ではあるが、「帽子を脱いで」という表現がよいと思う。

昔は、帽子をかぶらない人間は一段と低くみられたのである。

また室内に入れれば、着座するまえに脱帽するのが礼儀であった。

今の様に、室内で帽子を、かぶった儘(まま)の者は、礼を失しているという事を認識すべきである。

丁稚がよくかぶっていたハンチングでさえ、店先では脱ぐのが当然であった。

(漱石夏目金之助氏の「夢十夜」には、帽子もかぶらないと言う者は「教養がない者」と書いている。)

| | コメント (0)

銀河鉄道の夜(宮沢賢治 著)への考察 その2

前文

http://flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-c8b0.html

「この作品の構成」

 

 この話の大まかな構成は、以下の通りである。

 

原作では、草稿1から3は、②、③構成

 

 草稿4では①~③

 

 第4稿ではその中で、ブルカにル博士の声、話がすべて抹消されている。

 

 今一番流布されている「銀河鉄道の夜」草稿4が主流である。)

 

 現実(主人公ジョバンニの生活状況)

以前は、特別扱いされていた(父親が、北の方の漁から帰り、多くの標本を持ち帰り、学校では一目置かれていた)存在で、あったが、そのお父さんが監獄に入れられたとのうわさが流れて、特別扱いされていた反動で、以前とは違って、いじめられている、つらい現実

 

 それは父親が、監獄に収監されているかもしれないという噂が流れて、いじめられる側に堕ちたみじめさ。

 

 そうして、仕送りも途絶えたのかみんなが、遊んでいる間にも働かなくてはならない。

 

 子供ながら、活版所で、大人に混じって、活字を拾うのである。

 

 活版所では、大人から「むしめがね君」とからかわれる。

 

 

 

 夢(空想)の世界(草原で眠り、見た夢)

 

 牧場の裏山で疲れて寝入ったジョバンニが、自分お友人であり理解者であると思い込んでいる友人、カンムパネルラと共に旅する。

 

 自分の力ではなく、よくわからない切符(他力)で、再び、大人からも特別視されて、乗務員、他の身なりのよくない人たちから、自分が特別扱いされる、夢のような経験

 

 灯台看守は、カンムパネルラとジョバンニに対しては「ぼっちゃん方」という、このころの風習で考えれば「ぼっちゃん」とは子供に対する尊敬の言葉である。

 

昔、多くの商店主は、男性の客には「旦那さん」、女性客には「奥さん」、こどもには「坊ちゃん」「嬢ちゃん」と言ったものである。

 

蛇足

 

平成一桁年代につぶれかけた写真館(店主は死んでしまい、80過ぎた老婆が、住んでいる小さな店)があった。

 

そこには、SAKURカラーの李香蘭のポスターがあり欲しかったので日参していましたが、店が開いてなくて、何回目かのある時漸く、店が開いていたので交渉しましたがダメでした。

 

でも売れ残りの、PEN-EEがあったので購入しようとしたら、「旦那さん、と言われたことがある。」そのころ、「お客さん」ではなくて、「旦那さん」と言われて妙に懐かしい思いをしたことがある。

 

 

  現実(一番仲が良く、理解者であったはずの友人を失うという現実を知る。

新しい希望を持つと決意する。)

 

 つらい現実を乗り越えようとする意志を持って立ち向かえる現実

 

 また、親友と信じていたカムパネルラの博士の父親から、自分の父親が帰ってくるという連絡があったことを聞き心が躍る。

 

 この話を通して、ジョバンニは「本当の幸せを見つける」という目標を得る。

 

 

 

この①~③までの構成で、第1稿から第3稿までは、②から③で話がおえる。

 

結末は変わらない。

 

 ただし非常に説明的で、ジョバンニの家がなぜ貧乏なのか、なぜ働かなければならいのか、お父さんはどうして監獄に入っているのかということが書かかれている。

 

この1稿から第3稿では、現実の厳しさから逃れるために、空想(夢)に遊ぶ話としての面が強調されている気がする。

 

そうして何より、宮沢賢治の宗教的な考えのついての考察がより先鋭化していて、子供向けの童話の体裁を著しく壊していると思う。

 

(賢治の宗教の傾倒、仏教からキリスト教への傾倒と、仏教への回帰については後ほど検討したい。)

 

4稿では、①~③で、ブルカニル博士の、天からの声、カンムパネルラが居なくなってからのジョバンニとの会話は一切削除される。

 

ブルカニル博士を除いたことで、子供の空想話に拍車がかかり、子供向けへの童話的な世界が構成されたように思われる。

 

 

「季節(時期)はいつなのか?」

 

草稿1から3は、草稿4の「午後の授業」から「家」を出るまでの話はありません。

 

草稿1から3は、「ケンタウルス祭」から話は始まります。

 

ここから読むと少々唐突な感じを受けます。

 

このお話は、午後から夜半にかけての出来事です。

 

しかし、「午後の授業」から「家」を読んで感じることは、夏のような感じがする。

 

 草稿1から4までを通した形の作品を読むと、夏なのか、秋なのかよくわかりません。

 

1稿から合3稿では、去年お父さんは夏に帰っ来ている

 

 

 

 銀河鉄道に乗って、ジョバンニがカンムパネルラと出会い、軽便鉄道の動力の話をした直後には「リンドウの花が咲いているもう秋だねぇ」という言葉が挟まれている。

 

 しかし、草稿4では、その後の部分に、夏の虫である「カブトムシ」が車内の電燈にとまっている。情景が描かれている。

 

 花巻の秋は速い、カブトムシはさっさと居なくなる類(たぐいの)の虫だろう

 

 鳥取り」が居なくなると、「リンゴ」と「野茨(のいばら)」の匂いがする、秋だから「野茨(のいばら)」の匂いがする訳がないという。

 

 しかし、全体の雰囲気は夏である。

 

 なぜ夏かといえば、星まつりを秋に行うのか?という疑問がある。

 

 それに、登場人物の服装も白が多い。

 

 戦前の夏の服装のイメージは、麻の白い服である。

 

 ジョバンニの友人たちも、ケンタウルス祭にいく時に白い服装をしている。

 

 それにカムパネルラが川に流されてきていた警察官服も白服である。

 

 戦前の警察官は、夏は白服、冬は紺の制服であった。

 

丁度時期的には、衣替えから9月末までは白服であった。

 

4稿から増えた、母親との会話では「今日は涼しかったのでねぇ」という

 

秋なら、涼しかった日を特段申し述べることはないと思う。

 

それに、牧場の裏山にある草原の草に夜半前に露が落ちてる。

 

 そう考えると、第1稿から第3稿までのケンタウルス祭と、第4稿のケンタウルス祭は祭りの時期が違うことに気が付く。

 

4項のケンタウルス祭は、星まつりの様意味合いで、七夕祭りではないかと考える。

 

また、烏瓜の火を流すという点でお盆の死者の送り火の様を合わせたような祭りを想定しているような感覚を受ける。

 

1稿から第3稿までのケンタウルス祭は、時期的には、9月下旬から10月までの秋祭りの様な感覚を受ける。

 

 あと不思議なのは、灯台看守がいつの間にか持っている「リンゴ」である。

 

 リンゴは、秋の果物ではない。

 

4稿では、 季節は、夏に変更したが、脱稿するまでには変更するつもりであったが、変更することができず、草稿段階では、ところどころに、秋の気配を残したということかもしれない。

 

ただ文中の「リンドウの花の表現は捨てがたかったのかもしれない。

 

 

 

父親が帰ってくる時期もよくわからない。

 

父親は、ラッコ漁をしているのではないかという意見もある。

 

この点は、ラッコの上着を持って帰るからという発想らしい。

 

ラッコの漁場は主に、千島、北海道である。

 

しかし、明治45年には、ラッコ漁は規制されているので、直ちに、ラッコ漁をしに行ったとも考えられない。

 

漁の時期は、春から夏であろう。

 

 

 

「時間について」

 

その1

 

このお話の現実世界での時間を考えてみようと思う。

 

午後の授業は、13時から14時ぐらいの感覚であろう。

 

授業のシーンは、大体30分ぐらいの間隔である。

 

放課後、ジョバンニは、活版所へ活字拾いの仕事にでる。

 

活版所の中は「昼」なのに電燈がついているという。

 

14時(午後2時)過に「昼」という言葉は使わないだろう。

 

昼イコール昼間と考えれば、15時以降でも遅くはないと思う。

 

活版所での文字拾いで、小さなの1ページを拾うのだから、数時間であろう。

 

6時(18時)をうってしばらくたってから、活字を拾い終えて、銀貨をもらって帰る。

 

 帰る途中で、パンの塊(1斤だろうか?)と角砂糖を買って帰る。

 

 買い物を済ませて帰宅したら19時は過ぎているだろう。

 

 それから、母親と話をして、牛乳が来ていないから牛乳屋(牧場)へ行き、ケンタウルス祭を見て帰るという。

 

 1時間半で戻ると母親に言う。

 

 それから、牛乳屋(牧場)に行き、店の人が不在で、牛乳屋(牧場)の裏の丘に登って横になり眠る。

 

 眠ってからの時間は長いようで短い

 

 ジョバンニが、銀河鉄道に、乗ったところから、カムパネルラの死を知るまでの時間は45分以下である。

 

 なぜなら。カムパネルラは、銀河鉄道(死んだ人が乗る軽便鉄道)に、始発駅「銀河ステイション」から乗ることができたからだ。

 

ジョバンニが銀河鉄道に乗った時点で、客車に乗っていたカンムパネルラは、もう死んでいる訳である。

 

 そうして、ジョバンニが、目が覚めて、再び丘を下り、牛乳屋(牧場)へ行き、牛乳をもらい、帰宅する。

 

 その時間は10分から15分ぐらいだろう。

 

 そうして、途中でカムパネルラの死を知る。

 

 カムパネルラのお父さんが時計を見ながら、「落ちてから45分が過たからもう助からない」と判断する。

 

 カムパネルラの死んだ時間を、O時間とすればお父さんが計った45分を終着とする。

 

 カムパネルラが乗った時間は、45分前。

 

 死んだと判断されたのは、45分後

 

 ジョバンニの夢の時間は、牛乳屋で牛乳をもらい川の近くへ向かい、川に押したことを知るまでの間を15分程度と考えれば、ジョバンニがカムパネルラと旅した時間は長くて30分である。

 

 ブルカニル博士の回りくどい説明の時間を10分程度と考えれば、銀河鉄道の旅の時間は20分以下ということになる。

 

 まさに一炊の夢である。

 

 

銀河鉄道の夜の時間間隔

 

①銀河ステーションからカムパネルラは乗っている

 

 途中 で、ジョバンニが乗り込んでくる(突然乗っている)

 

 北十字(駅ではなくて、十字架がそびえている島)

 

 ここでは、車中からバイブル、水晶の数珠をもって祈っている人が沢山いる。

 

ここは駅ではないので、誰も降りない。

 

  白鳥と書いた停車場:

 

ここで時間が表示される

 

さわやかな秋の時計の盤面には、11時きっかりの到着

 

11時について、1120分まで停車

 

 鳥取りが乗ってくる。

 

 灯台看守は乗っている。

 

 途中で、鳥取りが居なくなる

 

  鷲の停車場

 

  船の遭難で天上へ行く「家庭教師」「かおる(かおる子)」「ただし」が乗り込んでくる。

 

 灯台看守がリンゴを空中から取り出す。

 

 小さな停車場につく。

 

青白い時計は第2時を示している

 

 ここで新世界交響曲が流れ出す。

 

 川沿いの線路は、崖から水面まで降りていく

 

 (この時、一方通行の機関車だと聞かされる。)

 

  南十字星第3時ごろに到着

 

 「家庭教師」「かおる(かおる子)」「ただし」と大半の乗客が降りていく。南十字は、まさに十字架のもとに、多くの人が集まり天井へと昇る場所である。

 

ここで思ったことがある、第1稿から第3稿までは北十字は出てきません。

 

第4稿で登場する北十字は、岡の上にあり、南十字は「見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青白い雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。」と書いてあり水中にあることになる

 

 キリスト教の天国へ向かう人たちはどのようにして向かうのかは記載がない。

 

 

 

  石炭袋が見える

 

 カンムパネルラが、突然、居なくなる。振り返るといない。永遠い会えないと感じる。大きな悲しみがに襲われる。

 

 こうしてみると、銀河ステーションあら白鳥停車場までの時間はわからない。

 

しかし、白鳥の停車場から南十字星までの旅程時間は4時間とわかる。

 

 そうして、列車は北から南へと進んでいく。

 

 銀河の川沿いを、南へ下っていく。

 

しかも一方通行である。

 

 帰ることはできない。

 

 南へ向かう。

 

 死んだ人が向かうのは?仏教的には西である。

 

 しかし江戸時代の思想では、南の方に向かうという思想もあった。

 

 話の流れとしては、東から西では、北十字島から、天国への門の南十字星の関連性がなくなるので、南北としたのではないかと思う。

 

20161025初出

20161026加筆

20161027補正

20161030修正加筆

| | コメント (2)

銀河鉄道の夜 (宮沢賢治 著)への考察 その1

 

銀河鉄道の夜

 

正直言って、昔読んだとき・・・とはいえ小学生のころ短編集を読んだのが初めてだったのではないかと思います。

 

ほかの作品は楽しかったのですが・・・・、この「銀河鉄道の夜」なんだか嫌な感じを受けた記憶ように記憶している。

 

つまりは、童話的な話を期待して読むと裏切られるという感覚です。

 

つまり、セロ弾きゴーシュの様な楽しさはありません。

 

読んだ後で、漱石夏目金助風に云うのであれば、「へちまが戸惑いをしたような顔」になる感覚である。

 

丁度、その昔、夏目漱石全集で「坊ちゃん」読んで、次の「草枕」を読んだ後の感覚に近かった、つまりは、読むのが苦痛だったのである。。

 

これは、作品の内容、雰囲気のともに、楽しさがないという点である。

 

読了後の感じは、夢野久作のドグラマグラを読んだ後で感じた「なんとなく不快な」感じがした作品だった。

 

文章の不ぞろい感、言葉つきの異様さ、つながりの悪さ。

 

こうして、ジジイになって、よく言えば、歳を取ってから、何となく読んでみても、その感覚は去らず、何となく不快な感じの残る作品でした。

 

全体を貫く「つじつまの合わない感じ。」

 

心持ちが悪いので、・・・・というか、不快感を解消するためには、読み込んで(普通の人はしないと思う・・・・)、何所にひっかかったのかを考えて(調べて)みることにした。

 

宮沢賢治はあまり好きな作家ではないので、今までよく読むという事をしてこなかった。

 

ものの本を読むと、「銀河鉄道の夜」自体は、完成された作品ではなくて、未完成の作品だという事です。

 

悪く言えば、死んでしまった宮沢賢治の草稿段階の作品を、一番長くなるように編集者が切り貼りをしてでっち上げた作品だったのです。

 

(草稿には、宮沢賢治の字ではない書き込みが複数あります)

 

要は、宮沢賢治によっての完成された作品ではないという事です。

 

多分、推敲の途中で、彼が亡くなってしまい未完成のまま残されたもの、もしかしたら、草稿の段階で完成をあきらめた作品かもしれません。

 

つまりは、作家宮沢賢治が練り上げ、推敲し、苦悩の末に生み出された完成作品はないという事です。

 

草稿しか残っていないので、いろんな話があります。

 

わたしが読んだのは、4稿にブルカニル博士の話が付いたものでした。

 

推敲を重ねたようで、第1234の四つの原稿があります。

 

最後の4は、異質ですが、一番話がすっきりします。

 

第四稿は、ブルカニル博士が出てきません。

登場人物について

 

ジョバンニ:主人公

 

現在は、母親と二人暮らし。

 

嫁に行った?姉がいる。

 

姉が昼間来て、食事を作り置いてくれる。

 

学校では、いじめられている。

 

父親が、次に帰ってくる時には、ラッコの上着を持ってきてくれると吹聴していた。

 

プライドは高い。

 

窮屈な上着を着ている(新しい上着を買ってもらえない。)

 

もしかしたら、普段着のことで揶揄されて、ラッコの上着を持ってきてくれると吹聴したのかもしれない。

 

良く科学の事を知っている。

 

でも読みたい本も読む本もない。

 

生活費を稼ぐために、活版印刷所で、字を拾い、1ページ銀貨1枚をもらう。

 

1稿から第3稿では、以下のような記述がある

 

「ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままで」「きゅうくつな上着」を着て、ケンタウルス祭の日、祭り見物ではなく、牛乳屋へ向かう。

 

街中では、「子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て」と対比させられる。

 

また、父親への感情をあらわしている言葉がある。

 

この感情を、絆とみるか、信じなくてはいけないという強迫観念とみるかは意見が分かれるところであろう。

 

「ぼくのお父さんは、悪くて監獄にはひっているのではない。」

 

なぜみんながジョバンニと遊ばなくなりいじめの対象になったのか?

その理由は、皆と遊ぶ時間が無くなったこと、それは、ジョバンニが、勤労をしなければ、家族(母親と二人)が、生活、というか、食べてゆけないという現実のせいである。

 

第4稿で「朝暗いうちから二時間もしんぶんを折ってまわしに歩いたり」

 

「学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったり」

 

しなけれならい状況が描き出されている。

そうして、この様な勤労に対してジョバンニは不満を鳴らしている。

 

「学校でも前のようにもっとおもしろくて、人馬だって球投げだって、誰にも負けないで、一生懸命やれたんだ。」

 

遊ぶ時間がないから、友達が離れていったと不満を鳴らす。

 

しかし、現実は、ジョバンニのお父さんが、人にけがをさせて監獄にいるという話が流れて、そうして、犯罪者の息子として敬遠されているという感覚はない。

 

そうした噂と、働いているから遊ぶ時間がないという現実、だからこそ

 

「それがもう今は、誰も僕とあそばない。」ということになる。

 

4稿では、どうして働かなければならいのかという事が薄められて抜けている。

 

理由付けがないので、「本当の幸せを希求する」感情を起こすには弱い気がする。

 

4稿では、ジョバンニは、学校でもいじめられていることが明白になる。

 

ついでに、働く先でもなぜかいじめられている感覚がある。

 

それで、いじめられてる不幸な子供なった感覚として、「ぼくはたったひとりになってしまった。」という嘆息が流れる。

それは、以前は、一人ではなかったという事の裏返しである。

ジョバンニの「お父さん」:

 

北の方へ漁に出かけて居る。

 

何かで捕まったという噂が流れている。

 

次に帰ってくる時には、ラッコの上着を持ってきてくれると言っていた。吹聴していた。

 

カムパネルラのお父さんとは小さいころから友人。

 

物語の終盤、ジョバンニは、カンムパネルらのお父さんから、北の方の漁場?から間もなく帰ることを聞かされる。

 

3稿では、「ジョバンニのお父さんは、そんなラッコや海豹をとる、それも密猟船に乗っていて、それになにかひとを怪我させたために、遠くのさびしい海峡の町の監獄に入っているというのでした。」

 

「ぼくのお父さんは、悪くて監獄にはいっているのではない。わるいことなど、お父さんがする筈ないんだ。去年の夏、帰ってきたときだって、ちょっと見たときはびっくりしたけれども」

 

カムパネルラの「姉さん」:

 

カムパネルラが、学校、活版印刷場に行っている間に、母が臥せっている家に来てご飯を作ったりしている。

結婚しているのかどうか分からないが、別のところに住んでいてる。

昼間家に来ては家事の手伝いをしている。

 

カンムパネルラの「おっかさん」:

病身で家にいる。

常識的で、自分の夫が北の漁場で捕まっているかもしれないとわざわざ子供に云う。

 

昔は元気だったのか、病状が軽かったのかもう少し元気だった様である。

3稿では、おっかさんの病気の経過が描かれている。

 

(お母さんは、本当にだ。

毎日あんまり心配して、それでも無理に外へ出て、キャペヂのクサをとったり、燕麦を刈ったりはたらいたのだ。

 あの晩、おっかさんは、あんまり動悸がするからジョバンニ、起きてお湯をわかしてお呉れと云ってぼくをおこした。

 おっかさんが、ぼんやり辛そうに息をして、唇のいろまで変ってゐたんだ。ぼくはたったひとり、まるで馬鹿の様に、火を吹きつけてお湯をわかした。

 手をあたためてあげたり、胸に湿布をしたり、頭を冷やしたり、いろいろしても、おっかさんはただだるそうに、もう良いよと云うきりだった。

 ぼくはどんなに、つらかったかわからない。)

 

 動けるような状態ではないらしい。

 布(毛布?)を、かぶっいてねている。

 

「カムパネルラ」:準主人公

 

ジョバンニの友人

(第2稿では、ジョバンニは、カンムパネルラと友達になりたい思っている。第2稿の段階では、友達ではないことがわかる。)

ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供

 

 

腕時計を持っている。

 

博士の息子

 

銀河鉄道の同行者

 

お父さん同士が小さいころからの友人の同級生、背が高い。

 

博識。

 

「おっかさん」は、死んでいる。

 

(銀河鉄道に乗った時に「おっかさんは、許してくださるだろうか?」という問いは、明らかに生きているであろう母親に向けられている。

 

しかし、カンムパネルが消える直前に石炭袋の近くで、「本当の天上」に「おっかさん」を見る。

 

ここで、天井にいる人は、死んでいる人である。)

 

ケンタウルス祭の夜の川で、「ザネリ」が川に落ちたのを助るために、川に飛び込んで、そのまま浮かんでこない。

 

(友人のマルソは、「カムパネルラは、川にはいった」という。)

 

キリスト教的に云えば、他人に尽くし、人を助けるために、自分の命を投げ出した点を考えれば、聖人に推挙されるべき立場であろう。

だからこそ、カンムパネルラという聖人の名前を持ってきたのかとも思う。

「ザネリ」:

 

いじめの主犯

走るときはまるで鼠の様な同級生

授業中バカにした態度を取る。

 

「ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。」 

 

そうして、会話せずに

「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。

という言葉を投げつけます

 

「ジョバンニ、ラッコの上着がくるよ」という言葉をいじめの道具に使う子供である。

 赤ら顔(3稿)

投げつけるような言葉を、云う反面、反応が怖いので、観察をする。

「町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。」

 

「マルソ」:同級生

 いじめの仲間

 「カムパネルラ」が、川に落ちたザネリを助けるために川に入り流されたことを伝える友人。

 

 「大学士(学者)」:途中下車したプリシオン海岸近くで出会った発掘を指揮している学者 

 

一人のせいの高い

 ひどい近眼鏡をかけ

 長靴をはいた学者らしい人

 ボスという、ウシの祖先の化石を発掘している人。

 

 丁寧な態度で接していることから紳士的な人物として描かれている。

 

 大学士という人への尊敬の念がうかがわれる。

 

 発掘に不慣れな助手(学生?)に対しては、荒い叱責の言葉を投げている。

 

「鳥捕り」:軽便鉄道の常客の一人。

 

銀河で、雁やさぎなどの鳥を空中で捕まえ袋に入れて持ち帰る。

 袋に入ると、鳥は、自分で押し葉なってしまう。

 この押し葉は、食用でお菓子の様な味わい。

 

「燈台看守」(燈台守):銀河鉄道の乗客の一人。

 向うの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人

 

 灯台の明かりを規則どおりに間歇させるのが仕事。

 

 リンゴを持っている。

 (途中からリンゴを持ち出す。)

「かおる(かおる子)」:女の子12歳ぐらい、本国に父親、姉がいる

 

乗っていた船が氷河にぶつかり沈んでしまい亡くなった子の一人

 

「ただし(たーちゃん)」の姉

 

言葉つきは、上品ではあるが、山の手言葉ではない。

 

 父親は、2か月ほど前に急用で先に帰国した。

 

 母親は、2年ほど前に亡くなっている。

 

「タダシ」:男の子 かおる(かおる子)の弟、本国に姉(大姉)さんがいる。

 

 銀河鉄道に乗った時は、はだしで、赤いジャケツ(ジャケット)のボタンも留めてなかった。

 

(子供の赤いジャケットと云えば、英国の貴族の学校の様な感じを受ける。)

 

 乗っていた船が氷河にぶつかり沈んでしまい亡くなった子の一人。

 

 父親は、2か月ほど前に急用で先に帰国した。

 

 母親は、2年ほど前に亡くなっている。

 

 「船にのらなきゃよかったなぁ」という

 

言葉使いは、悪い。

 

 「ぼくしってらぁ」と下町の子供様なしゃべり方をするときがある。

 

「風に吹かれた欅の様な青年」:大学生

 

12歳くらいの姉、6歳くらいの弟と、その家庭教師。

 

「乗っていた船が氷山に衝突して沈み、気がつくと銀河鉄道に乗っていた」と語る。

 

回想の話から現世ではすでに死亡していることがわかる。

 

この青年の話から、この人たちは死んでいることがわかる。

この「ただし」「かおる」「家庭教師の青年」の登場で、「銀河鉄道」とは、単に、銀河の横を運航される鉄道はないことがわかる。

「その他の乗客」:「ただし」「かおる」「家庭教師の青年」が、天上への入り口で降りた後で、車内にはほとんど人が居なくなると書いているから、登場人物以外にも複数の人が乗って居たことがわかる。

 

「ブルカニロ博士」:初稿から第3次稿まで登場したが、第4次稿では全てのシーンがカットされた。

 銀河鉄道に乗った時点で、軽便鉄道の動力に疑問を持ったジョバンニがカンムパネルらと話をしていると「セロ様なゴーゴーした声」で答える。

しかし、カンパネルラが車内から消えた後に聞こえた声は「やさしいセロのような声」と表現される。

ほかの乗客

 北の十字の前を通るときに出てくる乗客

 キリスト教徒?

「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。

 ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。

 

 

通常読まれている作品の流れは、こん感じです。

 

ケンタウルス祭、当日の昼間から夜半にかけての話です。

 

ジョバンニの学校風景、

 

ここで少し、ジョバンニ(主人公)がいじめの対象であることがなんとなくわかります。

 

ジョバンニの生活のために、課後、活版印刷所の活字拾いのバイトに行く。

 

賃金をもらい、買い物をして帰宅。

 

乳(牛乳)が配達されていないので、病身の母に、取りに行ってくると言って出かける。

 

最初は、「乳」という表現であるが、終盤では「牛乳」という表現になる。

 

牛乳屋(牧場?)へ牛乳を、再度取りに行くと、「子牛」がという表現が出てくるので、「乳」は、「牛乳」になった可能性がある。

 

そこで途中で、いじめっこの主犯「ザネリ」に会います。

 

もう少し行くと、「ザネリ」とほかの同級生(その中には背の高い「カムパネルラ」もいる)の集団に出会いからかわれます。

 

同級生はめいめいに、「らっこの上着が来るよ」とはやし立てる。

 

親同士が友達の「カムパネルラ」寂しそうに笑っていきます。

 

牛乳屋さんへ行く、判る人がおらず、後から来てくれと言われて、草原で休んでいる。

 

いつの間にか、銀河鉄道に乗る(眠って夢を見だした)。

 

軽便鉄道の様な、小さな機関車にけん引された汽車に乗る。

 

車内で、カンパネルラと車内で出会う。

 

鳥を取る人、灯台守に、沈没船の遭難者、神の国へ去る人たちと出会う。

 

プリシオン海岸で、発掘作業を参観(見学)する。

 

ただし、かおる(子)、家庭教師の青年(遭難者)や多くの乗客が、南十字のある川べりから天上(神の国)へ行くために降車して行く。

 

カムパネルラが、自分の「おっかさん」を見つける。

 

(ジョバンニには見えない)

 

ジョバンニは「本当の幸福」を探すと誓う。

 

そうして決意を、カムパネルラに伝えると、暗黒点に吸い込まれたように、カムパネルらがいなくなる。

 

草原での転寝(うたたね)から起きる。

 

寝ている間の事はブルカニ博士の実験だと教えられる。

 

本当の幸福を探すと誓う。

 

草原で起きて気が付く、牛乳屋へ行き、牛乳をもらい帰る。

 

カンパネルらの死を知る。

 

カンムパネルのお父さんから、ジョバンニのお父さんがもう一両日で帰ってくると伝えられた。

 

希望と使命感を抱いて、お父さんが帰ってくるという朗報をもって、家に帰る。

 

そんなお話である。

 

NEXT 続きは⇓

http://flattwin.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-28bc.html

20161022初出

20161023訂正

20161024加筆訂正

20161030大幅加筆

20161123加筆訂正

 

 

| | コメント (0)