漱石 夏目金之助 著 「こころ」について 考察1

教科書に、漱石夏目金之助著述の「こころ」という作品が載っていることが多い。

原題は、「心 先生の遺書」であった。

元々は、朝日新聞に、漱石が新聞に連載した、新聞小説である。

当時、夏目金之助氏は、朝日新聞社の社員であった(当時は、そのような専属契約が普通であった。)

 後年の諸説はあるが、当初の考えでは、漱石夏目金之助は、「こころ」を主題にした複数の短編を書いて、それを後日「心」という題で、短編集として出版する予定であった。

 「先生の遺書」も、当初は短編として書く予定であったが、朝日新聞の新聞小説という体(てい)取った結果、「先生の遺書」が長編となってしまった。

 「先生の遺書」一編を、三部構成として、題名は『心』と元のままにしておいたとの事である。

 岩波単行本の序文に記されている。

以下の通り(読み仮名は、小生が添付)

「「心」(「こころ」)

心」は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。
 
 当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠(かんせ)らせる積(つもり)だと読者に断わつたのであるが、其(その)短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈(だけ)を単行本に纏(まと)めて公けにする方針に模様がへをした。
 
 然(しか)し此(この)「先生の遺書」も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを「先生と私」、「両親と私」、「先生と遺書」とに区別して、全体に「心」といふ見出しを付けて差支(さしつかえ)ないやうに思つたので、題は元の儘(まま)にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈(だけ)が、新聞に出た時との相違である。
 
 装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣(や)つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉(ことごと)く自分で考案して自分で描いた。
 
 木版の刻は伊上凡骨氏を煩(わずら)はした。夫(それ)から校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。

 

大正三年九月」

 

悪く言えば、短編三部作と考えれば、それほど嫌な作品ではない。

「門」、「それから」も関連があると考える向きがるが、「こころ」は、別枠感がある。

形式的には、秘密のある夫婦、それを見る他者の目、これは、「門」でも同じある

つまり、「門」「それから」には、夫婦の間の共通の「罪悪感がある」

しかし、「こころ」にはそれがない。

先生の奥さんには、罪悪感は、微塵も感じられない。

罪悪感を持っているのは。自殺した(自殺をしようといしてる)先生だけである。

「先生と私」「両親と私」には、主人公の私が出てくる。

しかし、「先生と遺書」には主人公の私は出てこない。

終わりは、先生の遺書で終わるのである。

「両親と私」の最後には、遺書を受け取り三等客車の汽車に乗ったとある。

本来的には、先生と遺書に何か書くべきであったと思うが、記載はなく、何とも尻切れトンボ感がある。

本文は以下の通りである。

「私は停車場の壁へ紙片(かみきれ)を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。 

 手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅(うち)へ届けるように車夫(しゃふ)に頼んだ。

 そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂(たもと)から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。」

 この文で、「両親と私」は終わり、「先生と遺書」が始まる。

 先生と遺書は、いわゆる「懺悔」というか「告解」をしている様に見える。

 しかし、私に対する「懺悔」「告解」であるとすると、いずれも、仏、神、大師、神父の前で、許しを乞うているわけではない点から、救いはない。

 救いを求めていないと考えれば、罰を受けなければならないと考えていたとう推論は成り立つ。

 罪悪感が大きくなり、救いを求めるようになったのかもしれない。

 救いを求めるためには、罪を受けなければならいという気持ちがある。

 罪を償わなければ、仏の救済はないと考えるのは、明治の人間にとっては普通の事であった。

 先生は、自殺によって救われたのであろうか。

 小説中に、先生の年齢は出てこないが、30歳前後であろう。

 奥さんは、それよりも若い。

 私は、二十歳前後であろう(旧制高校を出てからの大学生と考えればである)。

 ある大学の先生が、「先生」の奥さんを、主人公の「わたし」、貰った(結婚をした)のではないかという推論を立てていた。

 私が、この作品を通読したときには、何となく、主人公の「わたし」と先生の「おくさん」は徒(ただ)ならぬ関係を持ったように感じたことはある。

 それは、肉体的な姦通ではなくて、精神的な姦通とでもいうべき状態ではある。

 そこで、私が、東京に着いたときに、先生が亡くなっていた場合に、「おくさん」は、誰を頼るのか?

 そう考えれば、その時点で近しかった主人公の「わたし」は、良き相談相手になったかもしれない。

 しかし、若い男にそれほどの信服を寄せるかという点だけを取らまえれば、問題があると思う。

 しかし、時は、明治の末年である。

 男尊女卑の精神の色濃かった点を考えれば、手近な主人公の「わたし」を頼りにする可能性はある。

 それに、「先生」の罪悪感の源泉であった「K」の自殺。

 これは、もともとは「先生」が、親から勘当されて困っていた「K」を自身の下宿に連れて来た事から始まるのである。

 そこには、下宿の女主人と、その娘「お嬢さん」がいいた。

 帝国大学の生徒であった「先生」は、今は先生の奥さんである下宿先の「お譲さん」を、琴、生け花の下手な女性」と捉えていた。

 この「お譲さん」(後年の先生の奥さん)は、毎日、先生の部屋に、下手な生け花を飾っていた。

 この時点で、先生は、「お譲さん」にどれほどの好意を寄せていたのか判然としない。

 しかし、下宿先の「戦争未亡人」(おくさんのお母さん)は、当時の超エリートとでもいうような帝大生である「先生」に娘(」おじょうさん)を、財産目当てで嫁がせようとしていると疑っている。

 小説の文中では「お嬢さん」の底意も見えない。

 そこへ、「先生」が連れて来た、親に勘当されて学費もままならない寺の小倅である「K」が、「お嬢さん」を好きになる。

 そうして「お嬢さん」と結婚したいとまで考える。

 その事を、「先生」に伝えた。

 しかし、「お譲さん」の事を考えて煩悶する「K」は、苦しい現実がある。

 養家には嘘を言って、文科へ入学していた。

(本当は、医科へ入学しなければならなかった。)

 それがバレて、養家からは離縁され、実家から勘当されている。

 養家からは、実家の寺へ莫大な養育費、学費の返済を請求されている。

 その点を鑑みれば、天涯孤独であり、徒手空拳である。

 もし、下宿のお嬢さん婚姻を成したとしても、新生活を営むべき金はない。

 学費さえままならない。

 学費を、生活費を稼ぐために、夜学校の教師をしている。

 そうして、昼間は通学している。

 このような状況下にあるKは、「戦争未亡人のお母さん」へ結婚したいという事を切り出せない。

 でもよく考えれば、先生の世話で、「先生の下宿」に、転がり込んだ「K」は、「戦争未亡人の妻」から見て、ひとり娘の夫して見たときに、「夫君として、ふさわし」と思えるか。

 「戦争未亡人の奥さん」から見れば、自分お一人娘が、結婚しても苦労することは目に見えている点から、自分の娘を、「K夫人」とすることに同意したかといえば、答えは「否」であろう。

 親から勘当を受けて無一文に近い帝大生「K」と、親の財産が潤沢にあり面倒な係累もなさそうな帝大生「先生」を比較検討した場合どのような結論を下すのか?

今の時代であれば、「お嬢さん」の意向は大いに尊重されるべきとの意見もまかり通るかもしれないが、時は明治末年である。

 その点を十分承知していていたからこそ、「K」は、煩悶していたのだと思う。

 明治25年、北村透谷は、「女学雑誌」に 恋愛至上論とでもいうべき評論「厭世詩家と女性」を発表している。

 これは、キリスト教的思想と、西洋の一部の先鋭的な考えを、西洋全般の男女の思想、行動様式と誤認して書かれた「近代的な恋愛観」である。

 翻ってみれば、西洋で、特に欧州においては、自由恋愛が主流であったとは言えない。

 西洋といっても、米国と欧州では根本的な家族の形成方法に、差異がありました。

 それは、江戸時代から近代でも日常的にあったであろう、「好きなもの同士が結婚する」という事象にお墨付きを与えたに過ぎない。 

 大家の商家の子供は、親の決めた、伝統的に決まった筋から婚姻の相手を居探す。

 武家であれば、それぞれの家の格式等から選ぶのである。

 農村部でも、ある程度の農民であれば、見合いという名の婚姻は良く行われていた。

 それは、基本的には西洋でも同じである。

 欧州では、結婚イコール家同士の結び付という考えはどこにでもあった。

 だからこそ、國は違えども、王族同氏は、親戚という状況が起こったのである。」

 しかし、都市部では、都市部へ流入した跡継ぎではない人たちは、ある意味、故郷からは切り離された人々である。

 彼らの婚姻は、当時の言葉を借りるのであれば「野合(やごう)」と言われてさげすまれた様に、なんの係累も顧慮しない、本人同士のお互いを思う気持ち(「これを恋愛」と云うのかどうかは微妙ではあるが)を重要と考えた。

 これは、全世界的な都市部における、係累の薄い人たちの婚姻への一歩と考えた一部の人の感覚であったと考えるのが至当であろう。

 そうして、北村透谷は、自分の思い込みを世に問うた。

 冒頭の一文は、「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり(鑰は鍵の意味)」である。

 この一文は、当時の作家連中の因襲に縛られたくないと思っていた人の理論武装の根幹をなした。

 姪に手を出して、子供アまで産ませた島崎藤村に衝撃を与えたといいう。

 そうして、近代的な(西洋的な)恋愛として、いわゆる「自由恋愛至上主義」が、一部の階級で敷衍流布されていた。

 その考えは素敵であるという思いは、当時の帝国大学、女学生の間で謳歌されてもいた。

 当時の小説を読めば、女子学生のあこがれは、自由恋愛であることがよくわかる。

 しかしである。

 下宿のお嬢さんは、旧態依然とした家庭で生活していた。

 どちらかと云えば、江戸時代の延長としての「家」の感覚が見て取れる。

 「お嬢さん」が、「K」に対して「好いた」感情を持ったとしても、それを押し通するような状況ではなかった。

 まだ、「お嬢さん」が、女学校でも出て、洋装の女性と描かれていれば、「恋愛至上主義」の感化を受けたと感じる事は可能である。

 残念ながらそうではない。

 でも、「先生」は、恋愛至上主義の感化を受けている。

 「先生」は、中学の頃から、「K」には、ある意味の尊敬を持っていた。

それは、「K」について記された部分を読めばよくわかる。

「我々は実際偉くなるつもりでいたのです。

 ことにKは強かったのです。

 寺に生れた彼は、常に精進

しょうじんという言葉を使いました。

そうして彼の行為動作は悉(ことごとく)

くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。

 私は心のうちで常にKを畏敬(いけい)していました。

 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。

 これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解りません。

と もかくも彼は普通の坊さんよりははるかに坊さんらしい性格を持っていたように見受けられます。」

尊敬ではなくて、恐れのようなものを受けていたと感じるのである。

 そうして、先生にしてみれば、勘当されても、自身の道を曲げない「K」を助けようという気持ちが働く。

 これは親切心と、手元で観察をして、自身より偉くなることを監視する意味のあったのだと思う。

 途中で、勘当後に、神経衰弱に向かった「K」を見て、堕落を進めるのである。

 自分が、「K」の精神の高みに登れない点を、自身の努力ではなくて、「K」が堕落することで、同じ精神レベルになろうとする意識があったのではないか。

 丁度、シャカ族のゴーダマシッダルダの修行の邪魔をする「マーラ」のような存在である。

 考えてみれば、マーラは、仏陀の修行の邪魔をする魔王である。

 「K」は、ある意味「偉くなる」という極めて即物的な目標を持っている。

 その為には、生活、学問のすべてが、目標のための精進と考えられはしないか?

 修行僧の様な「K」の生活、それを堕落させようとする「先生」。

 しかし、「K」は、「下宿先のお嬢さん」の誘惑に負けてしまいそうである。

 マーラは、性欲の魔王でもある。

 その点を考えれば、「K」は、物理的、金銭的な点から婚姻の申込はできない。

 精神的な点で云えば、婚姻は、「偉くなるという点」での修行の妨げになる。

 大学をとりあえず卒業できれば、その先には、別の道が開けるとかんげていたのでは無かろうか?

 だからこそ、現状維持を望んで、「結婚」を申し込めなかったとも判断できる。

 「先生」には、その深い悩みは想像が出来かった、というか理解できなかったのだと思う。

 「先生」には、人の堕落を見て笑う。

 そんな卑屈な精神を感じずにはいれれない。

 「先生」は、堕落させて、精神的高みからの転落を望んでい「K」の懊悩は理解できない。

 自分が庇護しているはずの「k」が、下宿先の「お嬢さん」を奪うかもしれないかと恐れている気持ちがあった。

 人間的な優位さを「財産」に置き換えている「先生」。

 極めて、封建的である。

 近代とは、人間の精神性の向上が望まれた時代ではなかろうかと思う。

 本来の精神的な優秀さでかなわないと思っている「K」に、「お嬢さんをとられる」ことは、許しがたい敗北を得ることになることに気が付く。

 単純化してみれば、「お嬢さん」を、「K」にとられることへの反発があり、そうして、自身の精神的優位を得るために「戦争未亡人の奥さん」に、「お嬢さん」くださいと、申込むのである。

 そうして、快諾を得るのである。

 そうして、「先生」は、「K」が、落胆して思いのままないならないことを思い悩むところを見たかったのかもしれない。 

 しかし、「K」は、自殺してしまう。 

 先生にとっては、思いがけない結末であったに違ない。

 先生は、本当は、打ちひしがれて、大学を辞めることを期待したのかもしれない。

 望外の結末。

 だからこそ、先生は、想い悩むのことになる。

 「取り返しの出来ないことをしてしまった。」と感じ、いわゆる「後悔」をしたのである。

そこで、「K」の口癖である

「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ。」

という言葉の真の意味が分かるのである。

 

 

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漱石 夏目金之助 「こころ」 考察2

「作品の構成」

 

「こころ」の三部の短編の構成は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」である

 

 

「先生と私」「両親と私」の視点は、主人公の私の目である。

 

 

しかし、「先生と遺書」には、主人公であった筈の私は出てこない。

 

 

遺書だと言いつつも、先生の告白の体(てい)であるである。

 

 

懺悔とも、告解とも取れない、救いを求めている節(ふし)がない。

 

 

「こころ」は、この先生の遺書で終わるのである。

 

 

主人公の気持ち、行動が現れるのは、第2部の「両親と私」までである。

 

しかも、感情の発露はない。

 

主人公の私が、遺書を受け取り三等客車の汽車に乗ったとある。

 

先生の遺書を受け取り、すべてを投げ捨てて「先生のもとに駆け付ける」という行動の発露は、強い意志を感じるが、止めに行きたいのか、事後の面倒を見に行きたいのか、それはわからない。

 

もうよくもって、23日の親の危篤を見捨ててまで行くようなことか?という気がする。

 

このことで、主人公の「私」と家族の関係は悪くなることは明白である。

 

手紙を書いて、車夫に渡して、家に持っていってもらうようにした、とある。

 

この時代、家父である父親の臨終の待たずに、よくわからない「先生」のために東京へ帰る心持は、誰にも理解されないであろうことは理解されるべきである。

 

東京へ戻る(帰るのではない。)理由としては希薄である。

 

しかし、先生への関心というよりも、先生の奥さんへの関心と、先生の死の後始末をすることを目的として、戻ると考えるのは至当ではないかと思う。

 

 

 

本来的には、「先生と遺書」の後に、先生は自殺して、残された「奥さん」に何か書くべきであったと思うが、記載はなく、何とも尻切れトンボ感がある。

 

 

 

若い頃に読んだときに、この話の結末には何か納得ができない感じがした。

 

 

 

「いわゆるこれで終わり?」という感じである。

 

 

 

「両親と私」の最後の本文は以下の通りである。

 

 

 

「私は停車場の壁へ紙片(かみきれ)を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。

 

 

 

 手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅(うち)へ届けるように車夫(しゃふ)に頼んだ。

 

 

 そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂(たもと)から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。」

この文で、「両親と私」は終わったのである。

 

 

「先生と私」

 

「先生と私」には、鎌倉での先生との出会、なぜ、「先生」の本宅へ伺う気になったのかが事と細やかに書かれている。

 

 

最初の訪問で、先生は不在、その外出先を「美しい奥さん」に教えてもらう。

 

そうして、先生とは墓地の近くで逢うことができた。

 

しかし、「先生」に近づいて、だしぬけに「先生」と声を掛けると

 

 

文中はでは、以下の様に「先生」異様な反応をする。

 

 

先生は、突然立ち留まって私の顔を見た。

 

 「どうして……、どうして……」

 

先生は同じ言葉を二編(にへん)繰り返した。その言葉は森閑(しんかん)とした昼の中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応えられなくなった。

 

「私の後をつけて来たのですか。どうして……」先生の態度はむしろ落ち付いていた。

 

 声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中には判然(はっきり)いえないような一種の曇りがあった。

 

私は、私がどうしてここへ来たかを先生に話した。

 

 「誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名をいいましたか」

 

 「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」

 

 「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」

 

その時の先生の表情は、後に語られる。

 

「落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。

 

私が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは雑司が谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。」

 

眉間に暗い曇りを見せた理由は、他者への、秘密の暴露を恐れてれているような風であろう。

そうして墓地中を歩きながら私は、「先生」に、

 

「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。

 

「いいえ」

 

「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」

 

「いいえ」

先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町(いっちょ)ほど歩いた後で、先生が不意にそこへ戻って来た。

 

 「あすこには私の友達の墓があるんです」

 

「お友達のお墓へ毎月(まいげつ)お参りをなさるんですか」

 

「そうです」

 

先生はその日これ以外を語らなかった。

 

ここで、「私」は、先生の友人「K」(この時点では、名前を知らない)と邂逅したのである。

 

そうして、先生の宅に、足しげく通うになった。

しかし、「先生」の「私」への態度には親近感が増すとった感じの付き合いには発展しなかった。

 

ある時、私は、先生に、雑司が谷の墓地にあった銀杏の木を見るために、墓参のついでで、「銀杏の木を見る」散歩を追加しましょうと訴えたが、「先生」、散歩を追加することを拒絶する。

 

その拒絶は、日本の巡礼とでもいうべき伊勢参り、高野詣でがその実、観光旅行に過ぎなかったこを批判しているようにも聞こえる。

 

神聖な贖罪のための墓参には、「遊び」を加えてはならないという姿勢が明確である。

 

だいたい、「先生の奥さん:元下宿のお嬢さん」は墓参には付き合いわない。

 

この点に於いても、「奥さん:元下宿のお嬢さん」には、罪悪感はないし、かつ、「K」への贖罪の感情もないということになる。

 

 つづく

20161229

20161230 加筆 訂正

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