今日の出来事


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今日の出来事

今日も、トヨタ博物館へ行きました(w)。

昨日撮り忘れたShelby 2000GTのパート撮影と、特別展示中の2000GTの撮影のためです。

フェイスブック「いいね」記念バッチ欲しさではない(笑)

すでにコンプリートしまして。

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昨日帰宅後、撮影内容のチエックをしていると、撮影個所に漏れがあることが判明

大体、こんなところ

排気管の取り付け方法(ものすごくどうでもいい)

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キャロルシェルビーさんのサイン(きれいに映っていなかので・・・)

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左側前方のホイール(2枚しかとってなかった・・・だから何だと・・・)

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上記を頑張って撮影しました・・・360枚ほど

昨日が、700枚強なので、1000枚ほど

不足があると・・・もう日本でお目にかかる事はあるまい!

と云う事で

「これは、明日も行かねば(すでにバカ)」である

あくまでも、撮影がメインです(笑)

ピンバッチは二の次ですが・・・ここは大人なので

朝早くから行か!

で、9時5分につくと・・・もう、並んでます。

16番目(だったと思う。)

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9時半までには、ぞろぞろと・・・・・

前に待っていたおじさんはヨタ狙い

今日は、2000GTとわかると、明日も来ねばと

聴けば

以前、黒メタのヨタにお乗りだったそうな

四日市在住の方だそうで

ヨタ乗りと伝えると

いきなり

○○(三重苦)さん知らない?」

「・・・・・・昔の知りあいですなぁ」

「昔、ものすごいこと言われてね。

 あの人、オリジナル至上主義だったでしょ!

 ここに線が入ってないとかさ(フエンダーの分離線の事らしい)」

その人の友達

「そんな事、わざわざ言ってどうなる?」

わたし

「まぁねぇ、そなんこと云ったて仕方ないのねぇ」

元ヨタ乗りの人

「めちゃくちゃ言われてねぇ、好きだったから買ったけど、なんかやになっちゃんてね。」

わたし

「いやー、もう何年もお付き合いないのでねぇ」

「いやぁ、ほんとめちゃくちゃ言われてさ」

その人の友人

「そんなこと言われたら、殴っちゃうなぁ」

元ヨタ乗りのおじさん

さんて、友達いないでしょ、周りにいた人はどんどん居なくなったもんね」

そこで

「「イベント手伝っていた時に、年で俺に手伝ってもらおうと思ったのか」

て聞いたら

「使えると思った。」て云われてねぇ」と言うと

 

それを聞いた、もと、ヨタ乗りのおじさんと、その友達の方

「そんな奴、殴っちゃうな」とお友達のおじさん

元ヨタ乗りのおじさんは

「なんか、みんなに嫌われていたでしょ」

「頭がいいから、口は達者でさ、言い負かされちゃうんだよね」

「けっこう、みんなにめちゃくちゃ言うから、嫌っている人多くてさぁ」

「よくさ、気に入らない人が居るとめちゃくちゃ言うでしょ」

とまぁ・・・・でるはでるは・・・悪口が・・・

 

廿年以上前の事らしいのですが・・・私は、ちなみのこの人のことは知らんのです。

 

わたくしは、イベントの為と、奴の知識がほしかったので、打算的に14年ぐらい付き合いました。

しかし、合同展示会で、われられに対する暴言、他のクラブの関係者へのひどい態度を鑑みれば・・・

結局、付き合うべき人というか、価値の無かった人だぁと

再認識してしまいました。

 

時々、◎◎(三重苦)の話題が上がると、人間の屑みたいな面を、他人から聞かされることが有る。

強烈だったねぇ

◎◎君は・・・・。

で、ちなみに、今日の撮影は、ボンドカーとトライアイル者の撮影に燃えました。

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つまんねぇ野郎・・・(追加補足)

先日、というか この間久しぶりに書庫で本を探していたら、26年前にトヨタスポーツを購入する前後のメモ帳とでもいうべき手帳が出てきた。

そこには、思いがけない言葉が並んでいたのである。

それを読んで、思い出したというか・・怒りがふつふつと湧いて出たというのが・・・真相である。

普通、友達が増えると、さらに友達は増えることの方が多い。

でも、珍しいことの、某君と付き合いができて、一時期友達は増えたが、その後は激減の一途をたどったのも珍しい。

大体、類(るい)は、友を呼ぶのである。

だから、SNSが、発達する前は「類友」で、友人を増やすしか手がなかった・・・あとは、オーナーズクラブに入るとかね

今では付き合いのない某君

友人から、トヨタクラッシックカーフェステイバルで紹介された。

その時の第一印象は、変な「関西なまりの嫌味なデブ」であった。

あんまりいい印象はなかった。

(手帳にそう書いてある・・・・・)

その後も、友人に連れられて邂逅するようになる。

実際、ある車を買うとは思っていなかった様である。

後から聞いたら

「よく、吹かしで買いたいとか抜かす奴は、多いけど本当に買った奴はいなかった」

ここで、「吹かして」という言葉を使う時点で何となく、嫌な感じを受ける。

チンピラヤクザの様である

「本当に買った奴」、これは私の事であるが、普通「奴」なんて言い方をするかどうか・・・・・

どうも、本来的にはこの時点でアウト(ダメ)である。

手帳を読むと、「奴なんて・・・なんて失礼なことを云う人間だろう、しかもこちらの事を良くも知らないで、コイツ事人間の屑だなぁ」と書いてある。

つづいて、「これだけのデブで恥ずかしくないのか?」とも書いてある。

でも初心者だったのと、師匠一人に頼るもの何となく心もとなかったので、嫌々ついて行った。

そうして、数人の「同じ車」の友達ができた。

彼と付き合っていると、友達も増えたが、ある時期を境にドカンと減った。

某君は、性格に問題がありすぎで、深入りすると、すぐに「切られるのである。」。

外界との接触を減らす様に、気に入らない人とは付き合わなくなるので、勢いこちらもトバッチリで付き合わなくなる・・・

そうして友達が減った。

何度も、彼の事は書いているが・・・

なんと云うか、自己評価高い人だったと思う

「何様だと思ってるんだコイツ」とも書いてある。

商船学校から一般大学に転入して社会人になった。

建設会社に就職をして、営業職が嫌で転職をしていた。

知り合った頃は、官公庁への派遣職員だった。

でも、最初の時は、○○事務所に居ると、云い、まるで公務員の様な素振りであった。

平成4年ごろの記載には「○○省の◎◎◎支局×××事務所の技官の様である。」と書いてある。

ところがである、飲み会や色んな会に参加するうちうに、段々化けの皮がはがれ、ほかの人から実態を聞くと・・・実態は、単なる建設会社の派遣職員だった。

まあ、最初の5年ぐらいは楽しかったのは事実である。

正直、5年過ぎて、色々手伝いをさせられるようになると、どうなんだろうという気がしてきた。

この関係は、友達?というのではない。

そう感じたのいつごろだろう。

ある時、平成8年9月◎日の事である。

所用があり携帯電話もなかった時代であるから、○○君の勤務先のある事務所へ電話をした。

こちらが名乗って

「○○さんお見えになりますか」と聞くと

電話の向うでは

「○○?なんて居たっけ?」

「○○?」

「ああ、別室の土建屋のうっとおしいおっさん」

「ああ、あのくそオヤジか」

「あんな奴に電話、会社からか?」

「さぁ」

で、

「ちょっと待ってくださいね、今つなぎます。」

でつながった

(記憶だとあいまいだが、手帳にはそう書いてあった・・・)

この時、○○君が、別室で一人で昼飯を食っている姿を想像したらちょっと悲しくなった。

10年ぐらい付き合った時点で、実際は、付き合いきれない感があり、もうダメだった。

気分的に、「コイツプライドが高いだけ実がといもなわない。」そう感じたたらもうダメだった。

大体、批判はするが建設的な意見は言わない。

あるイベントで、トヨタ博物館のテストコース(今のP2/P3駐車場)を借りてイベントを開くときに、博物館の担当者と交渉に行った。

そうしたら、その間ほとんどしゃべらない。

で、こちらとしては、場所を借りるという事もあるので、当然おべっかのようなことも云うことになる。

申し込みが済んだ時点で、某君

「よくあれだけヨイショできるわ」であった。

ある、リゾートホテルで開催した時も同様であった。

ウチウチでは、偉そうに語るのだが、他のところでは、テンで「貝」である。

要は、「うち弁慶」ならぬ「友人うち弁慶」であった。

つまりは、社交的ではないし、他人を思いやる気持ちもないただの屑である。

段々と、辟易するようなったのは、こんなことを言うようになったからである。

自分の勤務先の業績不振で、給料が減った。

年収が、100万円も下がった、150万円も下がった。

派遣社員に保証されているはずの賞与が削られた。

賞与は、最低36万円は保証されていると契約書に書いてあるのに、30万円になった。

おまけに、郡部の小さな〇〇事務所へ通うので会社から貸与されていたバンを取り上げられた。

(これは、ガソリンが会社持ちだったので、よく遠方に行く時に使っていた。)

小さな◎◎事務所から、県の中心部の事務所に移ると、通勤で駅まで車で通勤しなければならない。

そこで、軽自動車を買う羽目になり、ボーナス30万円がなくなったとこぼす。

当然ガソリン代は自分持ち

使える金が減る・・・・

そんな愚痴を滔々と語り

最後は、「俺は、金にはきれいだから」と云う。

実際は、金払いが異様に悪い。

「武士は食わねど高楊枝」

これはプライドを持っているれば・・・という事である。

持っているプライドを維持するためには、多少でも高楊枝をする必要性はある。

口で言うのは易(やす)い。

でも現実的には厳しいと思う。

基本的には、不言実行も、有言実行も厳しい道である。

わたしの基本的な考えは、自分で選べはその道は険しくとも進むのが、「人の道」であると信じている。

そんな自分とは、彼が基本的に合うわけがない。

最初から、ボタンは掛け違っていた。

「なんだこの野郎」という気分は最後まで抜けなかった。

ある友人だったおじいさんが、緩衝材だった頃はよかった。

ほかの友人(もう下りてしまいました)も、羽振りがよかったころはよかった。

ほかの友人が減り、緩衝材もなくなると、ダイレクト感が強く、自己中心であるから、もうダメだと思った。

だいたい同時期、某君の地元で、親密そうにみえた彼の友達もいなくなった。

人の批判ばかりををする。

それも、旧車を1年ごとに買い替える人を見て、その行為を批判する。

その人は、いろんなイベントに奥さん子供連れでいつも参加して楽しそうだった。

こちらとしては、「いろんな車に乗りたいのではない?」という感覚である意味うらやましかった。

ところが、その人が居ない所で強烈に批判する。

どうも、奥さんがいて、子供がいて、楽しそうというのは最初から批判の対象だったようにも思う。

だって、人の離婚を喜んで報告するような「奴」である。

これは、いかがなものかと思う。

彼は、基本的なスタンスはこうであった。

自分に膝(ひざ)まづかない人、

自分だけが気持ちよく活動できるような状態でないと気に入らない。

自分の感覚とは相いれない方法をとると許さない。

結婚している奴も許せない、ましてや、2回も結婚するなんて許せない。

自分を、非難、揶揄すると人間は許さない。

これでは、友達は居なくなる。

もっとも、こちらも偏狭なところがあるので、いわゆる同じく車の趣味の方はヘリに減った。

で、残ったは、静岡の友達だけで・・・・

師匠と、静岡の友達以外は、いつの間にか「同じ車」のクラブからは退場していった。

ほかの車に移って、古い車クラブを続けている人もいますが・・

師匠も、僕しか残らなかったといった。

そう、誰でも、いつからいなくなる

その何時かはいつなんだろう?

でも、私は、現在、多くのほかの車の友人知人が増えました。

たくさんの人が、支えてくれていることをよく理解しています。

ちなみに、その嫌な奴は、まだ同じ車には乗っているらしい。

相も変わらず車検を切ったりしているのだろうとと思うが。

最近、見たのは、あるの車◎◎周年記念の会場だった。

ほとんど、一人でいたのを見た。

以前のバーコードハゲは、毛沢東ハゲの毛のモット少ない、白髪バージョンになっていた。

以前は、ランチャの帽子であったが、ハンチングであった。

20170430 初出

20170501 補足

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つまんねぇ奴 (補足しました)

今日、赤いトヨタスポーツを見掛けたが、本当にフエラーリレッド系の暗色系の赤の似合わない車だなぁと思った。

一時期、赤い車が多かったですが・・・

元々、ジャーマンシルバーがよいというコンセプトだった

赤は元々は入っていない。

パブリカスポーツも、白とシルバーである。

販売のために、赤が追加されたという事である。

赤って色は、非常に難しい。

フェラーリレットも、フランスで見た色と、カリフォルニアで見た色目は、同じ275でも、全然違って見えた。

いずれもノンレストレーションという事であったのでオリジナルのカラーであろう。

なぜか、フェラーリレッドを塗りたがる人が居る。

あの色が一番と思い込んでいる。

デモである、あの色の良さは、車の造形に生きると思うのですが・・・ねぇ

トヨタスポーツの赤は、販売のために入れ込まれた色である。

コンセプトとしての飛行機ぽい車からは遊離している

当時、真っ赤の飛行機の塗装はなかった。

あっても、アクロバット飛行の飛行機ぐらいにしか塗られていなかった。

だから、飛行機のコンセプト、メルセデス大好きな設計者の意思としては、基本色は「シルバー」であった。

でも、ギラついたシルバーではなくて、アメジストシルーバー(紫水晶系のカラーの入ったシルバー)にしたのは差異化であった。

普通と違う車を目指したことは確かである。

(ただし、1968.1969年式のトヨタスポーツのアメジストシルバーは、赤系統の補色が無くなり、ブルー系のシルバーになった。)

でである、トヨタスポーツの赤は、赤と云いながら、その実、柿ぽいオレンジ系の赤である。

オリジナルはセミノールレットである。

その実、オリジナルのカラーに戻そうとするときに一番困るカラーである。

明るいところで見ると変な赤

街灯の下で見ると、綺麗な柿ぽいオレンジ系の赤

セミノールなので、柑橘系のオレンジっぽい赤がオリジナルである。

ご参考までに1968/1969年の調合表です。

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ロックラッカー配合兼職比率表より

R9-117

セミノールレッド

35-0040 シンクレッド 56.6

35-0038 モノライトレッド 37.6

30-0203 ホワイト 5.6

R9-118 T-1306

アメジストシルバー(M)

35-0087 メタリックベースコース 32.0

30-0234 ブラック 0.7

35-0064 オーリックブラウン 0.3

35-0081 パーマネントブルー 0.3

30-0203 ホワイト 0.2

28-0150 オートクリヤー 66.5

R9-119

ジルコンブルー(Ⅿ)

35-0087 メタリックベースコース 26.4

35-0083 インダンスレンブルー 15.1

30-02023 ホワイト 3.2

35-0030 チンチグブラック 2.2

35-0081 パーマメネントブルー 1.4

21-0150 オートクリヤー 51.7

まあ、そこで思うのは、なぜか、フェラーリ系の赤(とはいえ1980年代以降の明るい赤である)で塗装をすると、何となく安っぽく感じるのである。

要は、安っぽく見えるという事である。

今日見た車も安っぽい感じがした。

ま、それは置いておいて

今日、久しぶりにトヨタ博物館で、某F君親子に会った、というか遭遇した。

(自動車名)◎◎の会場での以来の邂逅である。

彼は、以前は、ツーリングに参加していた。

(自動車名)◎◎周年開催の年から不参加となった。

不参加の理由は、よくわからなかった。

でもそこは、何となく、勘づいては居た。

が、今日確信が出来た。

何となくとは、

一時期、(自動車名)◎◎周年の記念について協力を求められたことがあった。

向うは、体(てい)よく利用しようと思っただけだった事はよくわかっている。

ブツ切れで入って来る情報にいろいろな意見が集まって来たのは事実である。

そこで、私としては、このブログ、ファイスブックで上で(自動車名)◎◎年記念の時の主催者側の対応、安全対策が不十分なこと、交通遺児への寄付金の強制への疑問を呈した事に対する、

「嫌悪感だったかな?」

という感覚である。

大体、交通遺児への寄付金の強制徴収に関しては、善意の押し売りを求めるのは如何なものか?という意見であった。

主催者からは、夜の夜中(11時過ぎ)に、友人を通して電話があった。

 これは、この強制徴収に関して、フェイスブック、ブログに書いた内容が、批判的である判断して、焦って電話をした体(テイ)であるが、

 やり方が、薄ぎたない。

 まず、友人へ、この記事を読んだかと?聞き

(友人は、フェイスブックは行っていないので当然読めない。

 でもその辺の事情は斟酌しないで、電話をした。)

 そこで、友人から、私の、個人の電話番号を聞いて、電話をしてきたという事である。

(まず友人からは、電話番号を聞いて来たけど教えていいかという問いであった。

 これは普通の反応である。)

 しかしながら、この主催者には、名刺を渡してあり、電話番号も教えてあった。

 フェイスブックもつながっているので、そちらからでも連絡はできたはずである。

 私を紹介した、友人をわざわざ通すところが

 「あざとらしく」

 「嫌味な感じ」

 を受けた。

要は、紹介した友人に対して、暗に批判的なメッセージを込めたんだろうと思う。

それは、「こんな野郎を紹介しやがって・・」であろう

考えすぎかもしれないが、ここで、この主催者の性格で、悪い点としてあげられる部分で

「政治的に動くきらいがある」

という言葉を思い起こした。

まぁ、批判を許さないという体質は、言わゆる、ゴーイングマイウエーである。

日本人の特質で、談合体質と云うのがある

簡単に云えば

「協力してほしい。」といいながら、その実は「協力の強制である」

「意見を述べてほしい。」といいながら、その実は「俺の方針には逆らうな」という底意がある。

実例をあげれば、「協力」とは、すべてについて無条件での協力を求めるものである。

最初の会合で、ツーリングの参加の名簿を出せと云って来た。

自前のすり合わせもない。

いきなり、出せである

名簿の管理の厳しい昨今有り得ない申し出である。

意見を述べてほしいと云いながら、その実は、自分の意見への賛同しか求めていないのである。

それは、「意見」を述べて欲しいというのではなく、「賛同だけをして欲しい」という事でしかない。

それは、無理である。

いろいろな、(自動車名)のオーナーから、こんなことを言っているけど、どう思うといわれたので、自分お意見と、数人の人の意見を述べたら、

意見に対する反応というよりも、「反対する理由は何か」という詰問が来たのである。

ここには、良くしようとい気持ちはないと感じた。

現実的には、強制徴収はなくなったし、軌道修正は行われたので、それはそれで、慶賀に属することではある。

よく修正したなと思った。

しかし、考えてみれば、(某自動車のオーナーが意外と来ている当)ブログで公然と批判されて、そう感じている人が居ると感じたことでゴリ押しは拙い(まずい)と感じたのかもしれない。

彼は、元は大企業の自販に居て、多少極楽蜻蛉的なところがあるからかもしれないが、法律的にどうだという気はないようである。

突き詰めれば、どうだ?

法律的にどうだ?

そう云ったことは考えないらしい。

(すべてを考えたら、何もできないと云うのも事実ではある。)

だからこそ、途中から、関わり合いにならない方がよいと判断したのは事実である。

問題があつた時に責任だけ取らされるのは嫌なのでね。

主催者の方については、ある自動車ジャーナリストの方の言を取れば

「政治的に動く」

「政治的に動きすぎる」

「だから嫌う人も多いよね」

まぁ、だから嫌う人も多いよねという点いは肯首したいと思う。

現に、某自動車会社時代の事を知る人、上司だった方、部下だった方、同期、同僚だった方の言では、

「ずるい」

「手柄の横取り」

「人に責任を押し付けるのが上手い」

「絶対に、誤りを認めない」

そう云った言葉が聞こえて来た

その反面、

「活動・行動的ではある」

という言葉の聞こえた。

つまりは、私の様な人間から見ると、好ましいとは思えない人物という事である。

F君は、この人物について行き(つき合わされて)、色々な交渉に参加したようである。

その過程で、イベントの運営等について批判的という事で、嫌われたんだろうと思った。

意見を言えと云いながら、意見を言うと

それを批判と受け取る人が多い

ウエットな日本人的な発想である

自分の事が嫌いだから、批判をすると思うのは、度量が狭いというか、議論ができない体質だと思う。

CGクラブで、ミーテングを開催するときは、スタッフという名前のボランティアの方々のご尽力で開催している。

何度か、打ち合わせをして、自由な意見を述べることで、多くの展開が見られる。

自分が気が附かないことを教えてくれる

自分の知らないことを、

忘れてはいけないようなことを思い出させてくれる。

そう云った事は、自由な意見交換の場所からしか生まれないと思う。

自分がワンマンで、俺が、俺がという人は、自分の度量の狭さに気が附いていないと思う

まぁ、歳が、年なので治りはしないと思う。

ちなみに、今日のF君の態度は、こうだった。

丁度、本館から新館前の駐車場へ行く途中での出来事だった。

場所は、駐車場への誘導路の横の歩廊

本館から新館の駐車場へ向かって歩いていると、新館駐車場の方から

F君とその息子?が歩いて来た

見た瞬間に、F君の顔は歪んで、戸惑いでもしているような顔だった。

けれども、こちらも大人げないのは嫌なので、2メート―程前で、軽く頭を下げた。

顔を見ながらね。

すると、F君は、顔をそむけながら軽く頭を下げた。

その時、そんなに「厭か?」

と思い

声に出して「そんなに嫌いか、バカ野郎」と云ってみた。

50周年の年に、彼宛にも、ツーリングのお誘いのPCのメールへ連絡をしました。

ぎりぎりまで待っても、返事がありませんでした。

そこで、フェイスブックのメッセンジャーを使いメールを送るとこんな返事が来た

「こちらに可否連絡するように記載がありませんのでそのままにしていましたが」
という、舐めたメッセージが返って来た。
それまでは、可否の連絡の記載がなくとも返事は来ていた。
この回答には、「社会人としてどうだ?」という気がした。
(ちなみに、フェイスブックで知り合った人宛に、お誘いメールを送っても返事ない方は、もう送りません。)
今日の態度には、腹が立つというよりも、何となく
「つまんねぇ野郎だなぁ」と感じた。
つまんねぇ野郎と云えば、三重苦ですが
某三重苦の場合はすっかりスルーで、路傍の石モードで対応している。
合同展示会では、うちのブース前で、ハンチング姿で目を泳がせながら移動していく姿が笑いを誘っている。
201704022
20170423大幅加筆

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小さく手を振り、何か言った

ある時、といっても、もう10年も前の事である。

夕方、久しぶりに、早めに帰れることがあった。

改札を出て、バス停に行こうとすると、出しなの柱により掛かって出てくる乗客を見つめている瞳と出会った。

古い友人Bの射すくめる様な眼だった。

元の職業柄しかたがないのだろうが、怖い目である。

ヤクザの下から見上げる気取った三白眼ではない。

白眼の部分が大きく、瞳が小さい

瞳が小さいのは、殺人者という記事を読んだ事があった。

笑うと細い目が、糸のようになる。

屈託なのない目はここ10年ほど見たことがなかった。

荒んだ(すさんだ)人生を歩んでいたから仕方がない。

彼は、子供がいなかった

なぜか、彼の男親は、42歳で亡くなった

彼の兄も、42歳で亡くなった。

その家は、直系の長男しか結婚をしない。

しかも、男の子しか生まれない。

彼の兄弟は2人

ひと月ほど早くで生まれた所為か、お兄さんは、ちょっと病気がちだった。

非常に頭は良かったのであるが、病気で休学をしていたこともある。

その兄さんは、大学院を出て、ある役所に入ったが、突然40歳で辞めてしまい、2年間放浪生活をしていた。

貧乏ではなかったので、気ままに、バイクで旅をして、帰って来ては、いろんな写真を見せてくれた。

旅の途中で現像できないので、ある程度溜まると、家に送って来て現像を頼む生活であった。

そうして、42歳になった翌日に、「生きてはいられない事情が出来たので。」と云って自殺した。

誕生日に、兄さんは、「俺は結婚しないから、というかもう出来ないから、◎◎君(弟の名前)が、継いでくれよな。」と云ったそうであろう。

弟の友人Bは、同棲している彼女は居たが、お互いに結婚なんて考えたこともなかったので、一瞬、言われて、意味がわからないと思った。

そこの家は、1年前に、お母さんはなくなっていた。

兄の42歳の誕生日の翌々日、手紙が届いた。

手紙には、丹精な字で、上記のようなことが書き綴ってあった。

手紙を見たのは、夜中だった。

弟の友人が、矢も楯もたまらなくなり、遠国から急いで帰宅した。

ガレージを開けると、そこで兄は首を括っていた。

冬だったので、あまり匂わなかった。

現場検証が済んでみて、家の中を見ると、家財道具がほとんどなくなっていた。

残っていたのは、

茶道具

宗教関係の本

古い手帳、

大福帳の様な古いとじ紐でくくった冊子

古い戸籍

彼は、落ち着いてから読んでみた。

すると、戸籍を見ていて気が付いた。

男しか生まれていない

長男以外は、早世している。

そうして、奥さんは長生きをしている。

そうして、家を継いだ長男は、42歳になると死んでいる。

古い戸籍には、生まれた住所、死んだ場所の詳細が書いてある。

連綿と、同じ場所で生まれて、同じ場所で死んでいる。

少し、めまいがしたと云っていた。

友人Bは彼は、遺書と書いてある封筒は開封せずに警察へ、墨書した遺言と書いた巻紙は弁護士の預けた。

とはいえ、相続人は、彼氏かいない。

一族郎党すでに誰も生きてはいない。

母は、戦災孤児だった。

その孤児を、彼らの祖父が引き取り、養育して自分の息子の嫁にしたのである。

遺書には、病気で余命3か月であるから迷惑を掛けたくないので死ぬと書いてあった。

遺言状には、家、土地、貸地、借家を処分するように書いてあった。

彼らの生活を支えた、借家、貸地を手放せば、お前は長生きできるかもしれないとも書いてあった。

なんの因縁かわからない。

でも、彼の家は、男親は、40代で死に、事後の生活は、持っていた借家、貸地で維持できたのである。

でもそのいくつもの財産の因縁か、男は長生きができない。

名古屋の実家は売り、税金払ったらあんまり残らないねぇともいった。

3年ほどかけて、徐々に貸家、貸地も処分した。

そうして、友人Bは、38歳で、仕事を辞めた。

彼は、4年間、いろんなところへ行ったらしい。

お金を湯水のごとく使った。

で、41歳と11か月のある日、私の前に現れた。

そうして

「少し時間ある?」と聞いて来た

早く帰りたい気持ちもあったが、何となくそんなことが言える雰囲気ではなかったので、

30分ぐらいなら

というと、知り合ったころの様な笑顔で、ニコッとわらい

すまんね

といった

たわいもない話を一時間ほどした。

名古屋に用事があったので来たと云った。

ちょうど、ここの駅の近くに来たから少し待っていたといった。

で、小一時間も過ぎると

彼は、もう帰ると云った。

僕は、改札まで見送った。

階段の方に消えた彼を見送り、踵を返して帰ろうと思った。

何となく気になって

振り返ると、

改札まで彼は戻っていた。

僕も、戻ると

「忘れもの?」

と聞いた。

「いいや、今までありがとう」

そう言った。

そうして、階段へ向かった。

彼は、手を振りながら、何か言った様に見えた。

駅の構内放送でかき消された。

僕も、年甲斐もなく、手を振った。

彼は、42歳なった翌日、縊死した。

その細かい事情は、後日、死後の持参の管理を任された弁護士から渡された手紙に書いてあった。

手を振った。

手を振っていた彼の嬉しそうな顔、

高校生の頃、某塾で知り合った頃の屈託のない顔

彼の姿は忘れられない。

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ちょっと思い出したこと。

死んでしまった友人を思い起こした。

先日、電気屋にコーヒーメ-カーを見に行った時の事だった。

1回分の用の小さなコーヒーミルが売っていた。

赤い色のミルだった、その横に黒と白もあった。

その小さな赤いミルを見て、友人だったA君の事を、ふと思い出した。

A君は、結構、珈琲が好きで豆で買い、自分で挽いていた。

ある時、Aの家に寄った。

東京に来る用事はないか?と聞かれて

丁度、その日は、朝から東京にいた。

そこで、そう云うと、来てるなら、時間が許すのならば、寄ってほしいといわれたので、寄った。

その時、がらんとしたマンションの部屋の中に、妙に赤いミルがあった。

フェラーリのシールが貼ってあった。

ミルには見えなかった。

なんだか、貰ったものだそうである。

丁度店頭のミルとよく似ていた。

そうして、その時のことを思いだした。

彼は、「よく来てくれたなぁ」と云いながら、部屋に案内してくれた。

日向の白いテーブルの上に、緑色の豆が散らばっていた。

「何をしてるんだい?」と聞くと

「うん、豆をよってるんだ、いろんな豆があるだろう?

不出来なのがあると、豆が上手くローストできなからな」

「これ、コーヒー豆?」

「そう、生だから、ロースとしなきゃいけない」

「聞いていいか?

今から、豆を選んで、ロースとして、挽いて、飲むのか?」

「そうだよ」

屈託なく笑った。

「暇でね、こうしているといろんの事を忘れるから、ちょうどいいんだ」

それに、楽しいことも思い出すから。

嫌なこともついでに出てくるけど・・・」

そう云いながら、豆を選んだ。

私も手伝った。

途中で、私の選んだのを見て、

「まあ、いいか」

であった。

そうして、金網でできた豆を挟むような器具を出してきてた。

ベランダに出て、積み上げらえた耐火レンガの上に乗った「七輪(ひちりん)」に、練炭を入れて火をつけた。

その間、炭酸を出されて飲んだ。

椅子に座って、手元の高さにある「七輪」の上の微妙な位置に金網に入った生豆を入れてころころを廻るようにローストを始めた。

20分ぐらいローストしたら、見慣れたコーヒー豆になった。

ロースト豆はな、冷やさないといけない。

そう言って彼は、ローストした豆を扇風機の前に置いた。

こもった熱で、ローストが進むから冷やすんだ。

こころの中では「へー」「知らなかった」を連発していた。

20分ほど冷やすと、手で持てるぐらいに冷えていた。

古びたミルを持ってきた。

「そういえば、あげたミルはどうした?」

「ああ、これだけど、まだ使っているよ。

もっとも、5年ぐらい前に壊れたんだ。

そうして、修理に出したら、買いなおした方が安いですよと言われたけどな。

でも、直して使ってるんだ。」

その時、ミルがなくて、会社で、その話をしていたら、部下の子が、あれをくれたんだ。

指さした先には、フェラーリのシールを張った、茶筒のようなものだった。

「ミルなんだ」

「見えないだろう」

「なんでフェラーリ?」

「うーん、くれた子に、前、フェラーリ欲しいっていったからかな?」

「くれた子って?、彼女??」

「うーん、ご飯は、何度か行ったけど、そうゆう関係ではないな」

「見せて」

といいながら手に取ると確かに蓋を取ると、かすかにコーヒーの匂いがした。

そうして、ミルで豆を挽きながらこんなことを言い出した。

ミルの取っ手をもちながら

「結婚た時、何か祝いをを言われて、ミルがほしいと云ったら、これくれただろう?」

ちょっと、考えてから、ああと思いだした。

「ちょっと奮発したんだけどね」

「結婚してから、今まで、ずーと使ってるのはこれだけなんだ。

 うちの家族が、奥さん二人の時から。

 奥さんとチビ助がいたころ。

 何時も、このお祝いでもらったこのミルでゴリゴリと豆を挽いていた。

 チビが死んでしまった後は、奥さんのために挽いていた。

 ゆっくりと、幸せだったころを思い出す様に挽いていた。」

彼は、珍しく、嬉しそうに

「ミルをひくとな、チビがよってきて

「おーしゃん、ごりごり、こーしー

にがーに、こーしー

コーシー」て云いながらテーブルの周りを、廻るんだよ。」

そう言って、すこし寂しそうに笑った。

そうして、少し上目づかいして

「妻がね、ガテマラが好きでねぇ」

一息置いて

「おかしくなる前にさ。

 久しぶりにガテマラを挽いたら、良い匂いねえと云ったんだ。

 その時は、楽しそうに二人で飲んださ。

 でも、段々おかしくなって。

 病院へ入って。

 でも時々見ない行くときは、ガテマラを挽いて持って行くとさ、嬉しそうに飲んでた。

 良くなっからと言って、家に帰ると。

 コーヒーが飲みたいわねぇ。

 そういったんだ。

 だから、コーヒーを入れて、二人で飲んださ。

 何となく新婚時代みたいな感じがしてな。

 でも、コーヒー飲んでるとき以外は地獄の様な生活だった。

 高村光太郎の「智恵子抄」を読むと、切なくてなぁ。

 治ったといっても、感情の起伏は激しくて。

 そうして、どうにもならないことを悟った。

 すると、向うの親、離婚届をもって来た。

 病院にいるうちに話合って書いたそうだ。

 震える様な手痕だった。

 彼女はね、楷書のできるきれいな字を書く人だったんだ。

 知っているだろう。」

 「ああ、まるで、印刷したみたいな綺麗字だったなぁ」

 「あれだけきれいな字を書く人を見たことがなかったんだ、だろ?」

 「ああ、きれいな字だったなぁ」

 部屋の中には、豆を擂(す)る音がする。

 

「そうだ、忘れるところだった。

 Sくん、僕の家に飾ってあった彼女の写真覚えてる?

 ロングヘア―ので、少しえくぼの出来た顔の、

 あれ、君が撮ったんだろう?

 違うか?」

結構真面目な顔で聞いて来た。

一息おいて

 「なんでそう思う」

そう聞くと

 ミルから、挽いた豆を取り出しながら

 「何となくさ、彼女は、プロにとってもらったて言ってたけどな。

 チビ助の写真もあったよなぁ。

 みかんを持って、うれしそうな顔してる。

 あれも、おまえだろう?」

「まあ、頼まれたから撮ったけど。

 あの写真は、結婚する前に日比谷公園で撮ったかな?

 神宮だったか?

 いや、宮城(きゅうじょう)前の公園だったかな?」

「写真を撮ったことは、黙ってろと言われた?」

「まあね」

「今でもな、毎日、見てても飽きないんだ」

また黙った

「実は、来月、実家へ帰える。

このマンションは、買い手がついた。

貸そうかと思ったけど、マンションの組合が面倒なんで売ることにした。

うちの両親が二人とも調子が悪くなってきて、要は、面倒見るために帰るんだ。

結婚した時に、ウチのと相談して、丁度、同居する予定の時期というのが痛い。

同居は同居でも、俺が家に帰るだけで、チビ助もあいつもいない。

実は、家を片付けていて、写真の入った額を落としてわれちゃってなぁ。

写真が、破れてしまってな。

もう一度、プリントしてくれないか?

ネガがあればだが?」

「探してみる」

「頼むよ、費用は出すから」

「少し、時間をもらえるとありがたいけど」

「いいよ、でも、なるべく早くおねがいしたな」

そう言って、ようやく布のフィルターに挽いた豆を入れて、湯を、細く、細く注ぎ込んだ。

家についてから、約2時間後のコーヒーであった。

20170107初出

20170128 補筆

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生きていれば何かいいことがあるかねぇ

死んでしまった友人某が、「生きてりゃいいことがあるかねぇ」と言っていたことを突然思いだした。

朝ご飯を作っていて思いだした。

彼のうちに泊まった朝の事を思い出したからだ.

お母さんが亡くなり、1周忌の時だった思う。

お父さんと、二人暮らしだった。

それは、薄い味噌汁で、聴けば、「だしの入っていない味噌汁」だった。

お父さんは、我慢して食べていた。

友人は、慣れない家事で、不満たらたらだった。

でも、親一人、子一人だからではないが、表面上は仲良くしていた。

彼は、二十代後半には、糖尿で入院を繰り返して、結局、仕事を辞めていた。

彼が働けない体になった時に、親と家にいくら金があるのかを計算したことがある。

預金が、4000万円、土地家屋が5000万円、貸している工場の家賃が毎月15万円、貸している駐車場の入金が14万円、お父さんお年金が10万円、障がい者年金が12万円。

今後、40年間生きていられるだろうか?

と真剣に聞かれた。

そうして、「生きていればいいことがあるのかねぇ」と、深い息とともに漏らした。

そのあと、整体師の試験を受ける準備をしていたが結局何ともならず、病状が悪化して左足を切断した。

一時期、なんだかよくわかない女性が二人住み込んでいた。

聴けば、母娘

娘は、元ホステス

何となく怪しい

追いだした方がいいのでは?いいとうと、意外と肯首して、

「うん」なんか怪しいと思うと言って追いだした。

そうして、5・6年経った頃に、お父さんが亡くなったと聞いた。

お父さんの葬式には出られず、後日、訪れると大義そうだった。

義足があわなくなって、大変ということを聞いた。

いろいろと相談に乗り、なんやかと、半日ほどいて帰った。

すると、ほどなく、本人もある会場で倒れて不帰の人となった。

急死してしまったのだ。

もう10年も前の事だ。

東京光学の近くに住んでいた。

お母さんとお父さんはいい人だった。

苦労人ではあったと思う。

三代続いてないから、「江戸っ子とは言えないね」と真剣に云っていた。

何となく、あさ、ふと、思いだした。

気持ちは、会いたいなぁ

である。

会えなくなるとさみしい、何となく、寂しい。

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