岡本工業製航空機ホイール

Dsc00136

某所の航空機用(天山?)のホイール刻印に昭和19年岡本工業株式会社と記載があった。

現物を見たことはなかったので少々うれしい。

岡本工業は、もう忘れ去られて自転車メーカーである

戦前、丸石と人気を二分したメーカーである。

 

この会社は、明治時代に、岡本兄弟商店を設立して自転車を製造していた。
 この時の自転車が、ノーリツ號である
1919(大正8)年1月22日 株式会社岡本自転車自動車製作所設立
(1919(大正8)年1月26日登記・岡本兄弟商店の 改組織
【目的】
1.自転車、自動自転車、自動車の製造販売及同付属品の製造販売
1.兵器の製造並びに飛行機の付属品の製造販売
1.自転車、自動車付属品及び原料の取次販売
改組織前の目的は、「自転車の製造販売」のみ。

資本金は50万円(1919(大正8)年4月 1日資本増加決議、100万円に増資)8)。

(合資会社岡本兄弟商店、株式会社岡本自転車製作所 登記簿謄本)

岡本自転車自動車製作所は、組織改編とともに、自動車の生産をもくろみ社名に加えた。併せて、自動車産業への足掛かりとして、利益を度外視して航空機用車輪の製造を開始。

大正8年当時陸軍航空部に、6000個の部品を納入。

(自転車万歳(ノーリツ80年の歩み)1974(昭和49)年岡戸武平 中部経済新聞社 64頁)

しかし、現実的には、自動車の製造は行っていなかった。

同社の広告には、自転車と自動車(車種不明)の絵は載っていた。

実際に自動車関係の事業を行うのは、中京工業化(通称、中京デトロイト化構想、計画)で、アツタ号のパーツの一部を生産したことに始まる。

1920(大正9)年

 岡本自転車自動車製作所

 日本最初の飛行機用車輪を完成、同年陸軍省指定工場の名を受け、「モ」式軍用飛行機車輪を生産する。

((自転車万歳(ノーリツ80年の歩み)1974(昭和49)年岡戸武平 中部経済新聞社 ノーリツ号小史 沿革及び推移5頁)

1926(大正15)年725

岡本自転車自動車製作所は、関連会社を設立

「株式会社 名古屋自動車工業所」

目的 自動車、自動自転車(オートバイ)製作売買及び修理、自動車の賃貸 

 (出典 同社商業登記簿) 

1933(昭和8)年中

 1 岡本自転車自動車製作所の製作したパーツを使用した、国産大型車アツタ号の生産開始、3月末完成

   1号(フェートン力軍テスト用)、2号車(日本車輛使用の社用車)完成

 1 岡本自転車自動車製作所、側車付自動二輪車とオートバイの製造を開始

   一般向けは「ノーリツ」号、軍用は「95式側車付自動二輪車乙」の名称で販売。

  (「名古屋工業の現勢」名古屋商工会議所 発行 1936(昭和11)年5月 64頁)

 2 「95式側車付自動二輪車乙」の発注時期は、不明、昭和初頭に陸軍の命令で始まったのではないかといわれる。

 (論文「日本内燃機”くろがね“軍用車両史95式”側車付“と”四起“の技術と歴史背景」 2004(平成16)年 坂上茂樹 第10237頁)

1934(昭和9)年

  側車付自動二輪車(サイドカー)完成し、陸軍省へ納入

  自転車万歳ノーリツ88年の歩み 岡戸武平 1974(昭和49)年刊行  

1936(昭和11)

  ダイハツ、くろがね、陸王各社と競合小型乗用車(指揮官用乗用車:岡本号)を完成、陸軍へ納入

1937(昭和12)

  岡本航空機工業株式会社を設立

  名古屋市南区笠寺に12万坪の工場設立

1941(昭和16)年

  岡本工業株式会社、岡本航空機工業株式会社を合併 

  航空機の脚柱、及び車輪の最大メーカーととなった。

  国内7か所に工場を拡充、3万人余の人を要した軍需工場として稼働

  なお岐阜県の垂井町の工場のみ国内唯一の自転車専用の軍需工場として自転車の生産を継続した。

1945(昭和20)年8月

  敗戦、生産中止

  7工場のうち、本社、笠寺、樽井工場を除いて戦時賠償指定工場として閉鎖

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シンポジュウム原稿(年表)一応、校了

11月の末に、自動車関連のシンポジュウムの原稿作成依頼をされました。
戦前の自動車工業に関する知識をかわれてのことでしたが・・・・
中京デトロイト化と豊田喜一郎氏の軌跡を文章にといわれましたが・・・論文を書くのは、卒論以来という体たらくある。
1か月不眠不休で書いたら・・・100トンぐらいのダメ出しでした。
論文の体をなしていない・・・
ただ添付資料と作製した年表が意外とご好評でした。
そこで愛知県下の自動車工業に関する事項、関係する企業、中京デトロイト化関連企業、豊田喜一郎氏、豊田自動織機製作所の設立、生産設備に関する年表を作成することにしました。
最初は、小型車の「ローランド号(みづほ号)」三輪車の水野式、ジャイアントも加えておりましたが、長いということで削除
新聞記事の記述もほとんど削除・・・でも15頁もある。
会社関係は、関係法人の商業登記簿を設立から昭和27年を目途に徴した。
1部600円である
トヨタ自動車工業、豊田自動織機製作所、豊田紡織、愛知製鋼、豊田式織機(豊和工業株式会社に合併するまで)、岡本工業、岡本自転車自動車工業、岡本兄弟商店、瑞穂工業、みづほ工業、高内自動車工業、ヒノデ自動車製作所、名古屋自動車工業、名古屋車体製作所・・・・・等々を徴した。
現存している会社は比較的簡単に…とはいえい3時間ぐらい待たされましたが、何とかその日にいただけました。
現存していない会社、商業登記簿上は現存しているが、実態はすでにない会社は非常に困難で・・・大体、2日ぐらいかかりました。
各法務局のスタッフの方々にはお世話になりました。
自分で云うのもなんであるが、豊田喜一郎という人物の偉大さを痛感した2か月であった。
調べれば調べるほど、恐るべき意志の力を持った人であったということである。
トヨタ車体の技術部長で退職されt神谷忠一さんという方の残された「私の履歴書」という私家版の履歴書は大変面白く、豊田喜一郎氏の人柄をうかがい知るのに良い記述が散見されます。
また、菅ヘッドの参考文献が記載されていたので思わず米国から取り寄せてみました。
「Hight-speed conbustion engines」P.M Heldt
本は、20ドルちょっとでしたが…・送料は…4500円ほど・・・・
売り主の米国の古本屋から、「日本に送るのか?送料は40ドルだが?それでも買うのか?」ときた
買うと即答した
必要不可欠ではないが、どんな本か見てみたいという興味は金には代えられない。
国内の本屋も探しましたがありませんでしたので、サッサと購入しました。
二週間も待たずに届きました。
ドキドキしながら頁をめくると、エンジンの高性能化に関して各論に分けて、説明をしてる本でした。
あんまり図はない
でも、エンジンヘッドの断面図がありました。
神谷さんが、参考にしたのはこれであろと想像ができてうれしいのである。
最初のヘッドの断面形状のわかる図面と菅ヘッドになった、A型エンジンヘッドの断面図があれば言うことはないのだが、長い道のりであることは想像に難くない。
一枚一枚、資料をめくり、国会図書館の蔵書を図書館のPCで、延々とあるか、ないか判らない資料を探す気分は、金鉱堀のような気分である。
問題は、探し出しても金の様に金にはならないということである。

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あつた号撮影の場所は何処?

中京デトロイト化(一応通称)の関する記事、論文を読んでいていつも不思議に思うのは、位置の特定があまりされていないという事である。

試作車1号2号車の完成時の写真は何処で撮られたのか?

試作型1号、2号のアツタ號の背景に写る建物が何かを知りたいのである。

当初は、名古屋市庁舎をくまなく探して、同じ位置はないかと観察したが、どうも市庁舎ではない様子である。

時期的にも、市廳舎は存在しない

日本車輛構内かとも考えたが、日本車輛の本社の写真が出てこない。

おまけに出てきても俯瞰図で、西洋風の建物はない。

昭和6年6月で、車番が27番

昭和8年で、車番が80(90)番・・・名古屋市内の登録台数が少ないのか、東京の様に、車の100番以下は売買ができたのか不明

新聞記事の車番「27」の掲載のある車両

日本車輛の所有と思われる。

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陸軍型フェートン

Photo

セダン民生用

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背景の建物を見てほしい、名古屋市庁舎はこのころ存在していない。

でこの建物がどこの建物なのか探しているのである。

昭和初期の名古屋市内の洋風建築の写真を探してみても適合する建物はない

で、キソコーチ號の関係記事で、名古屋銀行集会所(現名古屋市銀行協会)から市廳舎試走したという記事を見つけた。

昭和5年の地図を見ると・・・・名古屋銀行集会所近くには、八重垣劇場、八勝倶楽部の名称が見られる。

肩書地の南側には、伊藤次郎左衛門、伊藤商会、伊藤銀行並ぶ。

そこで、名古屋銀行集会所(現在の名古屋銀行協会)の写真を探しているのであるが・・・

出てこない・・・よくわからないのである。アツタ號の関係ではある。...

名古屋市の納品車された車番「80」(90かもしれない)

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上記2枚の試作車とは窓の幅が違い、これは名古屋市新廳舎(現市庁舎)であると判断できる。

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合資会社 ヒノデ自動車製造所

大正9年の名古屋市内の工業案内の本を読んでいると、こんな広告があった。

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合資会社ヒノデ自動車製造所と云う会社の広告があった自動車(架装?)を製造していた会社があったようである。

ちなみに、この会社の関する資料(現時点、2018.10.26)ではは、この表裏2枚の広告しかない。

名古屋の企業関係の一覧にさえ記載がない。

次のページにはこんなことが書いてある。

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合資會社 ヒノデ自動車製作所HINODE MOTOR WORKS MANUFACYURER & INPORTERS

名古屋市南区熱田櫻田

専売局停車 東へ入る

電話

本局6061番

℡ №6061

営業種目

自動車製造販売

自動車輸入販売

自動車修理改造

自動車付属品販売

自動車ボデー塗替

ガソリン発動機製作

位置は、「名古屋市南区熱田櫻田 専売公社電停東入る。」とのみ記載がある。

そこで、まず位置を探そうと思いました。

戦前の名古屋で「専売公社前」電停とはなにか?

電停とは、路面電車の駅である。

当時、名古屋電氣鉄道(後に名古屋市営となる)の路面電車の駅このとである

いわゆる熱田線専売局とは、現在の金山総合駅から市民会館までの広範囲にあったタバコの専売公社の工場の事です。

戦後、現在の名古屋ドームの北側へ移転しました。

「専売局停留所」とは、「専売局前電停」の事である。

古沢町から金山橋までの間にあった電停の様である。

東別院→東雲町電停→古沢町電停→専売局前前電停→金山橋電停→金山橋中央線金山駅)路面電車)

下の地図では、真ん中の点線が、路面電車

路面電車の左横の赤い四角の部分

「専売支局 税務管理局 税務署」と記載

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つまり、現在の金山の市民会館の東辺りにあったと目星をつけた。

地名の熱田櫻田この地名は、現在はない

ちなみに、名古屋市の地名の変遷を確認したが、熱田櫻田と云う地名はなかった。

わざわざ、熱田をつけるという事は、他にも「櫻田」と云う地名があった可能性がある。

電停前東へという事は、地域的には、金山から東へ坂を下る(名古屋台地から下った)ところになる。

寫眞を見ると、のこぎり屋根があり正門がある。

戦前の南区全図(熱田区はまだない時期のもの)

を見ると確かに、専売局のを東手に「櫻田町」の北端が見える

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そこで、当時の電話帳を探してみた。

大正9年の電話番号帳

すると、あったのである

長距離電話加入者 本局6061

合資会社ヒノデ自動車製作所 南 熱田東 櫻田57 業種記載なし

ところがである、地番が57である

戦前の土地法典を見ると、57番は、非常に狭い。

件の工場の写真がのノコギリ屋根の工場、正門のセットの外観から類推するに、正門は、北向きという事になる。

ノコギリ屋根の採光部は、北向きである。

すると、57番は、事務所があった場所と推定ができるのである。

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 しかしがら、昭和5・6・9・12・16・19年の電話番号帳には、

 ヒノデ自動車製作所は無くて、

 「ヒノデ紡機製作所 瑞穂73-0601 熱田 櫻田 47」となっている

 土地宝典で確認すると、47は北向きに接道している可能性がある。

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このヒノデ紡績製作所の事は、工業系の、いわゆる会社案内に記載がある

昭和2.5.9年の工業案内には、上記の織機関係のスピンドル製造会社が、熱田区櫻田にあることが分かった。

ヒノデ紡機製作所の代表は、長谷川さんと云う。

名古屋工業会の会員名簿に氏名がないので、名古屋工業専門学校(現 名工大)の関係者ではないようである

昭和11年5月の地図

品川製作所、渡邊伸銅と云う名称は記載がある(ただしこれは。広告なので、広告を出すような会社でなかった可能性もある。)

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参考に、明治43年の地図には、桜田町の記載はない見るからに農地である。

大正以降の新開地であることがわかる。

明治時代から、現在の東邦ガスがある。

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ヒノデ紡績製作所は、工業系の案内を読むと大正9年2月の創業の様である。

しかしながら、大正9年12月の電話帳には記載がない。

ヒノデ自動車製作所=ヒノデ織機製作所かどうかはわからない

南区櫻田47番 名古屋市の土地台帳によれば、

櫻田57番は、個人所有 代表の方とは名字が違いました。

櫻田48番は、個人所有 代表の方とは名字が違いました。

付近で、ヒノデ製作所の所有の記載はありません。

:昭和34年の住宅地図(住宅地図は、昭和34年から)を見ると、まだありました。

同じ場所に、規模は小さくなり、名称も変わっていましたが。

「ヒノデ織機製作所」は、「ヒノデ製作所」に替わっていました。

専売局(現市民会館)から真っすぐ降りてくる道の近くに。

規模は、4分の1程度です。

このころは、熱田區桜田町ではなく 中区桜田町となっていました。

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現在の地図(掲載できませんが)を見ると

東邦ガス本社の北の同じ場所に

ヒノデ製作所があります。

ちょっと、びっくり。

20181026初出

20181027加筆訂正抹消

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アツタ号と中京デトロイト化からの離脱企業のについて。

アツタ號の戦前の新聞書籍類の表示は、「アツタ号」である。

日本車輛の表記は一貫して「アツタ號(号)」である。

しかしながら、大隈鐡工所(現オークマ)の表記は、いつからかわからないが、ひらがなで「あつた号」と云う表記をしているである。

オークマの社史では「あつた号」と云う表記である。

「アツタ號」と「あつた号」、一時期、別物ではないかと疑ったこともある。

しかしである、「アツタ號」を、「あつた号」と最初に記載したと思われる本が発見できた。

オークマ創業100年史、創業70周年記念製品沿革写真集には、参考文献として「大隈栄一伝」が挙げられている。

その本は、大隈鐵工所の創始者である大隈栄一氏の自伝である。

自伝と云いながら他人が書いているので正確な意味での自伝ではない。

戦後、1950(昭和25)年に非売品として著述された「大隈栄一伝」(昭和25年2月10日発行 著者 中谷秀 発行所 大隈興行株式會社 名古屋市北区辻町一丁目32番地 非売品)である。

大隈栄一氏の死去が、25年2月5日であるから、計画的な出版であり、かつ、称揚するべき存在としての創業者である。

発行元は大隈興行株式会社である。

文中には、大隈興行の部長が検閲をしたように記述があるので、都合の悪いことは書かないという当時としては至極まっとうな伝記に仕上げてある。

著者の中谷秀氏は、内務省の元官員であった。

過去には、愛知縣内務部長を務めていたこともある者で、著述当時は、大隈鐵工所、大隈の関係会社東洋組網工業の顧問であった。

つまりは、創業者の自伝を、関係者が、雇用している者を使って書かせたという事である。

つまりは、悪いことは一切書くことはできないのである。

この自伝を読むと、非常面白い。

製麺機を引っ提げて、地方から名古屋に出てきた人である。

結局、大隈は、現在の機械メ―カーのイメージからは程遠い会社であった。

大正時代の工業館駅の本を読むと、製麺機の製造メーカーである。

自社の広告、大正3年ごろのものは、製麺機しか出てこない。

製網機も製造しているが、その製造にいたるくだりは、今なら訴えらえるような噴飯ものである。

途中で、中京デトロイト化について記述があり、そこで「アツタ號」の事を「あつた号」と記載している。

この記載が、不勉強なのか、単なる勘違いなのか、当時の占領軍に対する嫌味でわざわざ、カタカタ表記を、ひらがなにしたのかは判らない。

この所為であろうか、大隈鐵工所(オークマ)関係の社史等には「あつた号」と表記するようになった。

この書が、後のオークマの社史の対外的には間違った記録を記載する原因となった。

この本には、いわゆる、中京デトロイト化(中京自動車工業化)の枠組から最初に離脱したのは、大隈鐵工所であるにも関わらず、最後まで製造を主張し、製造を継続したように記載する。

萩野工場を、アツタ號の生産用に作ったと記載がある。

しかし、大隈鐡工は、岡本自転車自動車工業(のちの岡本工業)とほぼ同時(昭和10年)に、中京デトロイト化自事業から離脱している。

どちらが先に言い出したことかは不明である。

ある資料によれば、

「日本車輛製造株式会社、大隈鐵工所、岡本工業の共同製作による中型乗用自動車は、すでにアツタ號と名付けられ30台市場に出ている。

 昭和10年にアツタ號を10台製造したる後は共同製作を廃止、日本車輛製造株式会社が単独にてアツタ號の製作を置こう那う事となった。

が、車輪は、岡本工業所、機関、変速機はいずれも大隈鐡工所へ注文する方式をとってゐる。

 しかし、日本車輛においてもその生産設備だけは準備して既に試作して市場に出したものもあると云う事である。

 今後は、大隈鐵工所でも単独で、アツタA號を生産すべく研究計画をすすめつつあるからその市場にデビュウする日も遠くない。」

 と記載があった。

 

 名古屋の財界では、離脱したのは、大隈、岡本

 大隈は、別途、車両を生産しようとしていたという事であろう、それを拡大解釈しての、単独で継続としたのかもしれない。

 大隈は、ライセンス生産を目論んでいたという記述もあるが、昭和10年前後の情勢では、非常に厳しかったと思われる。

共同事業としての出資金100万円を実際に出資したのかどうかは、不明である。

岡本自転車自動車工業は、当該、自動車製造計画に参加時み、自転車の生産、軍需関係(航空機の部品等)の生産に追われて、不況知らずの体質であった。

岡本は、先進的なフォードシステムを自転車の生産販売に取り入れたことで、すさまじい量の自転車を生産し、販売、輸出さえしていたのある。

これは、単一車種の大量生産である。

しかも全国くまなく販売網を敷いて成功した。

岡本の目算は、自転車ができたのだから、利幅の大きい自動車も同じように生産すればいいと考えて、将来への投資と考えての参入であった。

日本車輛は、機関車、客車、ガソリンカーの受注生産が順調であったので、さほど深刻ではなかった。

ガソリンカー(ガソリン気動車)の成功もあって、同じ機関を搭載した自動車の生産を考えることは別段おかしくもない。

車體の生産もおこなっていたので、自動車の車体も製造できると踏んだのは間違いがない。

では大隈鐡工所の状況はどうであったか。

不況で青息吐息であった。

各種機械製品は売れず、新しい事業を考えなければ生き残れないと考えていた。

ちなみに、大隈、岡本は、生粋の愛知県民ではない。

いわゆる「来たり人」である。

つまりは、地元系の金融機関は当てにはできない。

(名古屋商工会議所作成の「中京要覧(昭和2(1927)年)」と云う冊子がある。

 

 この要覧には、120ページほどの小冊子で、名古屋地区の地勢、経済状況を対外的意宣伝するものである。

 ここの後半は広告である。

 この広告には、大隈鐵工所、岡本自転車自動車工業はない。

 つまりは、昭和2年当時は、工業部会のメンバーではあるが、主要な参加者とはみなされていなかったという事である。

 三菱内燃機製造所名古屋支社は、広告があるし、製造品目に「芝浦分工場 自動車」とある。

 日本車輛製造株式会社の製造品目に自動車はない。)

 

 大隈としては、新事業をと云うか、継続的に況不況に関係ない業種を社業にに組み込む必要性を感じていた。

そこで、自動車の製造をすべきと云う、大岩名古屋市長の口車に乗るようにして、中京デトロイト化への参加を決めた。

 大隈は、車体に類したものの製造実績はない。

 大隈は、初めて手掛けることなるエンジンの製造にまい進した。

 と云えば聞こえはいいが、現実は非常に厳しく、エンジンブロックのニッケル鋳造が出来なかった。

 仕方なく、豊田式織機外注に出したのである。

 大隈の当時の技術力ではエンジンの生産は至難の業であったと思われる。

 

 織機の製造もおこなってはいたが、残念ながら、織機のプレーンメタルベアリングで、摺動部分を回転させたことしかない者には、転がり軸受のベアリングは難物であったと思われる。

 国産の転がり軸受型のベアリングでは、エンジン用としては非常に不都合であった。

 試作と云いながら、売る気は満々であった。

 

 日本車輛はとしては、基本的に、アツタ號は受注生産を目論んでいた。

 日本車輛の生産方式はすべからく受注生産であった。

 生産した商品を売る方式ではない。

 機関車、客車等々の大きな、単価の高いものであれば当然受注生産となる。

 それらの商品は、買い手も決まっているし、売り手も限定されてはいる。

 自動車はどうかと云えば、買い手は沢山いる、売り手は、山のようにいる。

 しかも、車のサイズはより取り見取りである。

 その状態で、国産の自動車を買うい人がいたのかという事になる。

 ある記述によれば、バイクなどでは、国産車は、外車の半額でなければ売れない。

 信頼性もないので、わざわざ買う人はおかしな人としか言えないのである。

 試作車を生産後ほどなくして岡本、大隈は生産協定から離脱をしている。

 岡本、大隈は、それぞれ軍需が多忙になり生産自体に余剰もなくなり、かつ、受注生産の車の生産が余り売れないことに気が付いたのではないかと思うのである。

 軍需生産は甘い蜜である。

 昭和10年の新愛知新聞によるとキソコーチ号に付随した形で記載されている記事ではで、大隈は副社長と、その息子が自動車の生産に血道をあげていたように書いてある。

 キソコーチ号の生産時は、豊田式織機からの自動車生産へ参入の回答であった。

 豊田自動織機、愛知時計、岡本工業の動向も併せて記載がされている。

 しかし、豊田式織機(現豊和工業)に新設された自動車が、専用工場で生産したバスが、12台で生産が打ち切りになった時点で、国産自動車への希望は絶たれたのだと思う。

 当時、大隈は積極的に中京デトロイト化の覚書(協約があったと言われ、それぞれがその様に主張するのだからあったと感がられる)に積極的に参加した。

 大隈の生産したコピーエンジンはがどの程度あったかは伺い知ることはできないが、一台一台の一品生産だった思われるので、工業製品としては量産できないのだから致し方ない状態だった。

 日本車輛は、当時ガソリンカーを生産しており、エンジンは自社で作れたのであるがざわざわ、門外漢の大隈に任せた姿勢が理解できない。

 無理やり頼み込んで押し込んだのではなかと思う。

 だからこそ、協約から離脱するときに、多分ものすごく後ろ暗い感じがしたのではないかと思う。

 書かれたのは、1950(昭和25)年であるから、関係者の多くは存命中であった。

でも、その様に書く。

 (岡本工業:岡本自転車自動車工業の代表者は、戦中に病没している。)

 私感ではあるが、いくら、創業者の自伝とはいえ、あまりにも事実を無視した事を書くことはいかがなものかと思う。

 中谷秀氏の著述である自伝は、とても長きにわたり官員であった者とも思えないほどのひどい文章構成であるが、大隈の指導があればうなずけるものである。

 しかし、大隈鉄工所が、一時期アツタ號に非常に入れ込んで、夢を見たかった心情は理解はできる。

 自社の機械製造は世の中の景気に非常に左右されやすい業種である。

 しかも、戦前から戦後(昭和50年代後半まで)は、日本の機械工業は不遇であった。

 その点から、平時でも、安定的な生産収入が得られる事業を必要としたのは、切実な感覚であった。

 不安定な機械受注生産であれば、機を見るに敏なる性質は滋養される。

 1936(昭和11)年からは軍需産業の急激な進展がある、その予兆は1635(昭和10)年には感じることができていたはずである。

 

 中国戦線は不安定ある。

 軍需の受注は急伸している。

 銃弾の製造機械はほぼ一手専売だったのではないだろうか。

 戦後も、大隈鐡工所のこの機を見るは、敏という性質は継承されていく。

 如実に表れたのは、トヨタ自動車工業が危機の時である。

 危ないと聞いて、最初に機械を引き揚げたのは大隈である。

(この時に、トヨタ自動車の多くの人は、非常に恨んだという事を当時の人から聞いたことがある。

 

 おかげで、トヨタのアンチ大隈DNAは、その恨みをいまだに忘れないので、大隈の機械は極力使用しないと現実がのしかかっている。)

 つまりは、敏感であったがゆえに、アツタ号が、商売として、工業として成り立たないと思った時点で、大隈栄一氏は手を引いたのである。

 

 経営者の判断として、手を引いたのは英断であったと思うのだが、それを否定的にとらえて、自社の歴史を改ざんする精神が、非常に愚かな感じを受ける。

 大隈の系の会社は、トヨタよりも先に車を作っていたから恨まれているなど云う妄言をまき散らしている人がいる。

 しかし現実には、トヨタが危機の時、自動車を発売した時に買ってくださった方々、倒産の危機にある時にお互いに耐え忍んで支援をしてくれた企業をトヨタは忘れていないという事である。

 つまりは、その逆もしかりである。

 大隈系の会社は、トヨタの傍系も、傍系のような取引でもものすごく大切にしているが、根っこの部分では、なぜか、トヨタよりも俺たちは偉いという気があるようである。

 トヨタ自動車より歴史は古いが、製麺機の会社の古い歴史を誇る方がおかしい気もする。

 

20181010初出

20181011補足追記

20181013訂正、削除

20181014加筆

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ちょっと考えている

またまた、台風到来である。
で、何となく家の雑用・・・正直、資料読むの飽きました。
ここ1か月ほど、戦前の資料ばかり読んでいるので脳味噌が旧字に慣れ親しんでしまい・・・現行の当用漢字を忘れそうです
で、先週から読んでいるのが、「日本自動車史(昭和17年 自研社)」
途中まで読んで…法令関係無視しても、長いので疲れた・・・・
「豊田喜一郎(昭和30年 自研社)」も読んでいるのだが、肝心の事は書いてない・・・
現在の仮説は、中京デトロイト計画は存在していないという仮説である。
現在は、「中京デトロイト計画」、「中京デトロイト構想」と云う言葉が、いつから文章に出てきたのかを検証中
中京地区のデトロイト化と云う言葉は、戦前の文書の若干ではあるが、現出している。
「計画」「構想」という文言は出てこない。
で、戦前の昭和10年以降の自動車史関係をしらみつぶしに読んでいる。
きまった項目を見るので、全部読む若ではないのですが、一日2から3冊が限度・・・・
で、関係ないのですが、自研社の出版物に、豊田喜一郎氏の電気自動車研究を批判する記事があるのは驚いた・・・表紙が日産ばかりなので、日産にべったりだったことがわかる。
読んでいて気が付いたのであるが、昭和10年から17年までに出版された自動車歴史関係の書籍には、「中京地区自動車工業化」「中京地区ののデトロイト」と云う言葉が出てくるのみである。
戦後は、昭和25から30年には、多くの書籍が発刊されるのであるが、25年ぐらいまでは、戦前の重版が多いが、ここにも記載がない。
大体、アツタ號の完成の記事は、新愛知、名古屋新聞紙、(毎日新聞も記事があるとに記載があるが、当時の名古屋版の確認ができていない、大阪版は記載なしに)にしか記載がない。
キソコーチ号も、同二社の記事しか確認できない。
在京新聞、都新聞(当時の新聞には珍しく2週間に一度自動車の記事があった)等にも記載はない。
愛知県史に、新愛知のキソコーチ号の記事の上にある、昨今の中京地区の自動工業の動向の記事はある。
肝心のキソコーチ号の記事はオミットされている。
よく、愛知県史や、名古屋市史に、中京のデトロイト化という事が議会で昭和11年に報告されているという記載がある。
名古屋市市政資料館収蔵の議会報告の綴りに確かに現物はあった。
がである。
報告は「秘」報告である。
アツタ號とみづほ(瑞穂、旧ローランド号)の2台を以て中京のデトロイト化と云う記載がある。
しかしである。
名古屋での自動車工業を志向したのは、昭和5年ごろである。
中央(東京)で話題になるほどの指向があったようである。
当時、自動車を製造したいと思っていた川越庸一氏(のちの大同メタルの創設者、キソコーチ号の設計者)をそのうわさを聞きつけて名古屋へ移住したぐらいである。
思考した理由は、第一次大戦後の不況、大恐慌による全産業の存続への危機感からである。
(軍需産業は、まだ勃興していないというか、不安な発注状況で、軍縮もあり、軍需よりも民需を当て込んだ方がよいという判断があったと思われる。
名古屋市、市役所、市長が、アツタ號、みづほ号についての製造に直接的な援助をしたという事実はない。
財政状況が厳しので、資金援助はなかった。
議会議事録を、昭和5年から12年まで読んでみたが、自動車振興に関する討議はなされていない。
つまり、議会を通した資金協力はなかったという事は判然としている。
各企業を周旋したという記事は散見せらるるが、当時の大岩市長は、名古屋の名だたる企業の役員に就任していた。
それに、企業間の横の連関を使い、自動車を生産できないかとと云う検討をし、かつ、すそ野の広い産業を興し、軍需に頼らない、中京地区(当時の感覚では名古屋市のみ)の安定的な工業生産地域へ脱皮を図ろうと画策くしたことは事実でああろう。
現実問題として、市長が、各企業の首脳を説いたとしても、当時の邦貨で100万円(現在換算で30億~40億円)を投資する気なるかという事である。
資本金100万円の会社の、100万円出せというのはいかにも無理難題である。と云うようなことを考えながら・・・資料を読んでる。

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中京デトロイト構想の終焉である キソコーチ號について

学会の関係でせっせと資料を調べる日々が続いています。

で、他の本の引き写し的な記述の多い本には辟易としています。

昔、トヨタスポーツの事を調べていたころ、昔に書かれたものは間違いが少ない。

当時25年ぐらい経過していた時点で、その時点の記述にはやたらと誤りが多いことに気が付いたことがある。

ルーフが、プラスチック・・・と云うのが結構多かったかな。

まぁ、どうでもいい事なのだが、雑誌に書いてあるとそれが本当だと思う人が多くて困るという事である。

ここ数か月は、電気バス、電気自動車、アツタ(あつた)號関係と、キソコーチ号について調べを進めている。

キソコーチ号とは、本邦初の乗合自動車専用シャーシで作られたバスの事である。

「キソ・コーチ」(「キソコーチ」「キソ」と云う記載もある)号である。

コーチは、バスの意味である。

製造元は、豊田式自動織機(現在の豊和工業)である。

このキソコーチ号は、「アツタ號」「みずほ號」に続く「中京デトロイト構想」の仕上げと云うか終焉を飾った車輛である。

中京デトロイト構想自体は、当時の名古屋市長の大岩氏が、市議会の演説で、中京地区における、次の産業として軍需ではない民生の産業をどう興していくのかを訴え、次の中京地区の産業として自動車工業の設立提言したと言われている。

大岩市長自身が、自動車に造詣が深かったわけでも、自動車が好きだったわけではないようである。

あくまでも、政治家の地域の産業振興とと云う点で尽力をしたと云えるのだと思う。

名古屋市公報で、昭和4年から7年までの年頭の所感では一切触れられていない。

(ちなみに、中京とは、現在の感覚の中京地域ではなくて、東の京、東京に対抗して、京都と東京の間に位置する中間の「京」という意味合いである。名古屋イコール中京である。)

当時の名古屋地区は、主たる産業は、繊維、木工、時計、自転車のような軽工業に毛の生えた程度の産業であり、世の中の好不況に直接的に打撃を受ける工業であった。

大岩市長は、裾野の広い自動車の製造で、軍需ではなくてはなくて、民需の産業を興すべきであると訴えたのである。

その民需の目玉として登場したのが、自動車工業であった。

 大岩市長の演説(昭和7年)よりも以前の昭和5年に、中京地域の当時の大企業(資本金 当時の100万円、現在換算すれば30億円の規模の企業)は、自動車産業への参入を計画していた。

 そうして、昭和5年ごろ名古屋地区での多くの企業の自動車工業への進出がうわさされ、川越庸一氏(大同メタルの創業者)に、自動車産業が興りつつある工業都市というイメージを植えてけ、呼び寄せるまでにもなっていた。

名古屋市は、自動車工業への具体的な支援は何もしていない。

と云うか、予算的にできなかったというべきである。

単に、市長が、産構振興の一端としての希望を演説で行ったのみである。

自動車工業が金がかかることは誰もが衆目した意見である。

三井合名会社は、大正10年以降、自動車工業への進出を考えてはいたが、現実的には、三井グループの資金融通が厳しかったので、進出を断念したという経緯がある。

当然の様に、中京地区でも、一社では資金的に厳しいと判断して、四社が集まってとりあえずコピーを作ってみようという事で完成したのが、アツタ號である。

アメリカのナッシュの1931年型(8か、10なのかよくわからい)完全コピーを目指したのである。

よくわからには、すべてを自家製、と云うか国産品で生産をするという発想なのか、主要部品は輸入品を使用すると考えていたのかひょく判らない。

(原型のナッシュは、一部で撓(たわ)みベアリングを使用していたので、日本車輛は、日本精工に撓みベアリングを発注している。日本精工では、注文に応じて試作と云う位置づけで作成納品している。

 この点から考えれば、多くの部品を国産品で賄おうとしていたという推論は成り立つ。

 謎なのは、気化器はどうしたのかという素朴な疑問である。

 気化器を生産していたのは、戦前は数社(指定業者は、3社)しかない。

 社史等で、調べきれていないので何とも言えないが気化器は輸入品を使用した可能性が高い様に思われる。)

 アツタ(あつた)號の製造に関する運転資金は、一社当たりで、100万円づつの出資で、400万円(120億円)である。

 大体現在の価値で3000倍と考えればよい。

 明確に答えれば、400万(120億))円ではでは、自動車製造はおぼつかなったというのが正直な処ではないかと思うのである。

 日本産業(日産)の資本金は、1000万(300億)円である。

 しかも当初の計画は、FORD、GMへの部品供給、GMとの合弁による自動車製造がが目的であった。

 日産は、結局、つぶれたグラハムページの工場設備(図面一切、移設後の技術指導も含む)を、瓲いくらでで購入して自動車製造に入る。

 だた、トラックの80型は試作さえない図面の状態であった。

 工場設備、金型もすべて輸入し、50トンプレス機さえも輸入した。

 (この50瓲プレス機を移送前に、日産から許可をもらいスケッチし、後の某社の自家製の50瓲プレス機が出来上がる。)

 中京地区の4社の出資400万円は、昭和9年までに2台のアツタ號を生産したに過ぎない。

 豊田自動織機は、豊田喜一郎氏の頑張りと、多くの人の助力で自動車部に対して1200万円(現在の金額で360億円)の投資ができた。

そうしてようやく、自動車ができた程度であった。

 昭和10年、豊田式自動織(現在の豊和工業)は、戦前、キャブオーバーの國産バス製造した

 製造台数は、12台である。

 豊田式自動織機の株主は三井系が90%を占めていたので、三井合名会社の自動車工業への意思を感じることができる。

 12台と云うのは、当時自動車部に主任設計者川越庸一氏の半生を取材した自伝とも云うべき書物と、大同メタルの10年史に記載されている。

1ダース分のパーツの一括購入して生産を行った。

エンジン、足回りは米国製

シャーシボデイは日本製とした。

豊田式自動織機は、シャーシと足回りをくみ上げて、販売したものである。

試作は、車体まで製造してのテストであった。

車体は、名古屋車體(日本車輛の子会社、昭和20年の空襲で、すべて焼けてしまい消滅した会社)で生産していた。

名古屋市のバスの車体は、シボレーを大量導入した時にから、名古屋車體で生産しをしていた。7

しかし、名古屋市交通局「30年史」、「50年史」には、シャーシを5台購入と記載がある。

後段で、キソコーチ後の使用台数が表に記載されている。

昭和10年5台

昭和11年11台

昭和12年12台

昭和13年12台

昭和14年12台

昭和15年10台

昭和16年10台

昭和17年10台

昭和18年10台

昭和19年 0台

つまりは、生産台数は12台で、名古屋市電氣局(市營乗合自動車)は、最大で12台運用していたという事になる。

生産台数12台の全量を、名古屋市が購入していたことになる。

ところがである、ある博物館の作成した資料「中京デトロイト計画」の項には、5台を名古屋市営バスが購入と記載してある。

これは、資料のつまみ食いから生ずる間違いである。

名古屋市電氣局(のちの交通局)の三十年史資料を参考している。

五十年史も、のちの70年記念誌、77年尾記念誌も三十年史の劣化版だから参考にはならない。

後段に使用事績があるので、よく読めば、使用台数は判明する。

しかし、つまみ食いなので気が付かない。

川越庸一氏の自伝的文章と、大同メタルの10年史には、1ダース分(12台)のパーツを輸入し生産と書いてある。

 今回は、某博物館の古い企画展のパンフレットを読み直して・・・気が付いたのであるが、沢山の資料を調べていると、ここ20年間ぐらいの自動車工業の歴史に関する著作で明らかに間違っている記述を多数見つける。

 大阪の大学教授で、機関車と自動車工業を論じた本は、事実誤認が多数あり、出典にも書いてないようなことが書いてるのを見てなんだか読むのが嫌になってしまい。

 最終的には、一小節で、2か所ほど間違に気が付いた時点で、僭越ではあるが

 「書いてある内容は本当に正しいのかと?」と云う疑問が沸き起こり

 ベアリングの話だったので、日本精工の周年史に記載があるというので、わざわざ、古本屋で探してその本を購入して確認をしたりもしている。

 しかも、出典の記載がいい加減な書き方で、何冊も閲覧をすは目になったので、出典ぐらいきちんと書けよと云いたい。

 結局、当事者が書いたものか、当時の雑誌(専門誌)を探して読むしかないという結論に達しつつある。

 楽しいんですけどね。

 時々、素晴らしいくよく知らべてある本に出合うと、目を皿のようにして読み込むのである。

 

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ノーリツ号 岡本自動車自転車工業

ある年齢以上の人は、ノーリツ号を、覚えているだろうか?

(給湯器のノーリツとは、関係がない。)

自転車のノーリツ号である。

戦前の名古屋の軽工業の基礎を担った自転車のメーカーである。

明治時代に、日本で最初に自転車を生産した会社です・・・知らないよね・・・

ちなみに、大正時代から航空機の車輪を作ってました。

サムエルソンを生産していた熱田の陸軍工廠は、隣接した地域であり、スポークを利用した車輪だったので、生産に関与したようです。

当時、熱田陸軍工廠では、飛行機の生産も行っていました。

途中から、兵器の生産に特化します(資料の名古屋陸軍工廠史が出てこん・・・・)

自転車を製造するといっても、部品はそれなりに多く、堀田近辺に強大な工場群を有していたました、大規模工場であった。

日本車輛に隣接して存在した工場もあった。

が、名古屋市内のほとんどの工場は、戦災によって消滅した。

終戦間際に、創業者の急死も戦後の復興には暗い影を投げてしまっていた。

戦前の名古屋商工会議所の輸出に関する資料を読むと、膨大な量の自転車を、アジア、中東、アフリカに輸出している。

その主体は、西ノーリツと呼ばれた、岡本自転車工業(後に、岡本自動車自転車工業、岡本工業と社名を変更する。)の製造する自転車であった

戦前は、自転車、軍用側車、航空機の脚関係の製造を行っていた。

私が興味を持ったのは、アツタ号の足回り関係を製造していたことからである。

戦後は、労働争議で会社が傾き、紆余曲折を経て、倒産しそうになる。

しかしながら、トヨタ自動車販売の神谷正太郎氏の協力の元、トヨタノーリツ号(折り畳み自転車)を製造販売する。

トヨタ自販と自動車工業が合併した時に、会社をたたんでいる。

ノーリツ財団がその後衛である。

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アツタ号?の写真(ではありませんでした。)

これもアツタ号?
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(出所が,よくわからない写真ですすが、あるインチキ臭い自動車メーカー本に「アツタ号」として掲載されている。)

外見上の検討
正面には陸軍の立体体型★章が付ている。

これで陸軍の使用車両だとわかる。

グリルの上端部に段差が付けある。

ボンネットはフラットではなく中央部分が盛り上がったものである。

正月飾りの様なものをラジエターキャップにつけている。.

サイドグリルはよく見えないが、ドアタイプ(1930年代までよく見られた形式)

ホイールには何かマークのようなものが見える。

日本車輛のマーク入り?

テールは、クリフカットの様な形状

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フェートン(コンパ―チブル)である。


車体の塗色は、明るい系統ではないようである。

比較的暗い

兵隊の服の色(緑系のカーキ色)からするとかなり暗い色である。

(蛇足、陸軍のカーキ色は中国大陸の土地の色か巌流である。

大正時代の陸軍の戦闘服は、黄土系のカーキである)

当時のカーキ色(昭和5年制式と思われるが?)は比較的暗いカーキ色である。

トヨタ博物館のAB型(灰櫻色)、日産80型(カーキ色:とはいえ、茶系のカーキ色である。)とも色目は違うようである。

グリル形状について

初期型(と云うか昭和7年型)、最終型(昭和10年型)とも違う。

これは、昭和8年の陸軍の納車のフェートンである

Photo

Photo


ラジエター部分はフラットである

上記の車体は、丁度、メルセデスの500Kの様に上から見ると逆V字型である。

中央部分が突き出している。

どちらかと云えば、Fordのハートグリルの前段階のデザインではあるは、傾斜がなく直立型である。

1934年型の4ドアセダン型のナッシュに似ている。

ラジエターグリルは、ほぼ垂直である。

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すると、昭和9年(1934年)の生産車かもしれない。

よく流布されているアツタ号と金鯱城(名古屋城)の写真にある車体は、昭和10年(1935年)式ということになるのではないだろうか?

こちらのサイドグリルには飾りはつかない。

グリルの形状はどちらかと云えば、フォードにに似ている。

Dsc00168


1935年のナッシュは、1934年型とは違い、傾斜のついたハート型に近い形になる。

Nashambassador19352

量産型と云われるアツタ号(日本車両が所有したのはこのタイプと思われる。)

Photo_2

残っているフェートンの側面図は、グリルが傾斜している。




ちなみにこの図面は、昭和10年刊行の書籍に掲載されている

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_dsc0888

陸軍の兵士は、昭和5年制式(大正11年式?かもしれない)の服にゲートル、銃剣を吊っている。
兵科色は、白(憲兵)ではない。

某自動車会社勤務の方から、、1933式のBUICKではない?とのご連絡がいただけました。

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当時のカタログです(サイトから拾いました。)


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コンパーチブルは、前席のドアハンドルは前についている。

後ろヒンジということになる。



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セダンは、前ヒンジである。

件の写真と比較検討してみると・・・

1505877425744

運転席のドアハンドルは、前にはないので、前席のドアは、前ヒンジと考えられる。

そう判断した理由は、後席のドアハンドルの位置から類推してみると、兵士の手がかぶさって見えないわけではない。

1933buick3388cconvertiblephaetonthe

アメリカの博物館所蔵の車両は、後ろヒンジで、Bビラーの部分で、前後のドアを支える構造である。

当時の米国車のコンパーチブルは、ドアが大きい。

国産のコンパーチブルは、基本的にドアは、セダン型に比べて、小型している。

リアのボート形状は、セダン型と同じ様に荷台があったのではないかと想像しています。

結論は、これはアツタ号の写真ではなく、1933年式のBUICKであると云事です。

(ビュイックは、1934年になると、サイドルーバーは、スリット形式になり、横断するタイプのモールが付きます。

1932年までのビュイックのラジエターグリルは、これまた、平面型で、このころクルマノデザインはママぐるしく変わっていたことが判ります。

20171128初出

20171129訂正、抹消、加筆

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アツタ号の写真、スタイル

アツタ号の写真について

完成時の新聞記事

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箱型で、27番と記載がある

昭和7年8月完成で、この年の全国のアツタ号の登録台数は2台である。

いずれも愛知縣内の登録である。

1台は、テストに供されたもので、日本車輛の所有であったと思うわれる。

Dsc_0899

名古屋新聞の記事上の個体

名古屋市への納入車輛

Dsc00139

当時の新聞に記載の名古屋への納車した車両

登録番号は「80」(「90」の様にも見える)が付いている。

Dsc01146


こちらは、後年中日新聞社提供した鮮明な写真ではある。

登録番号がないので、名古屋市への納品車ではない可能性がある。

これは、完成1号車ではないかと踏んでいる。

背後は、旧名古屋市庁舎と言われている

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日本車輛がかって持っていた初期型の写真

ただし、上記の写真と同じ場所で撮影されている。

もしかすると、日本車輛の構内の可能性が高いようにも思われる。

当時の日本車輛構内の写真がないのが残念である。

Photo


初期型からフェートンが生産されていたことが判る

ちなみに帝国陸軍のマークがついている。

塗色は、黒であろうか?

以下はアツタ号のパンフレットの表紙である

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熱田神宮で撮影されたというアツタ号

宮家に納品されたものとも云われている。

何年撮影か不明ではある。

_dsc3844

場所は特定できる

熱田神宮の東門か南門の前であろう。

西門には壮麗な国宝の門があったからである。

背後の右手の車はアツタ号である

豊田式自動織機製作所(現 豊和工業)に、海軍 大角海軍大将が視察時に撮影されたものである。(昭和10年以前の撮影である。)

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日本車輛のほか写真

以下の写真は、日本車輛の社印の凸印が印画紙に押されたものである。

以前は、ネガが日本車輛に保存されていたと思われる。

名古屋城の前での撮影

云わゆる量産型

_dsc0884

これはいわゆる日本車輛が所有していた2台のうちの1台ではないかと思うのである

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この車両の別の方向から撮影した写真がある

気が付くのだが、パンフレットの写真と同じである

パンフレットの写真には、うっすらと背景が写り込んでいる。

これは上記と同じ風景である。

その点から同時に撮影されたものであると判断するのである。

Photo

昭和12年秩父殿下の日本車輛への行幸時に撮影された写真に同じ車両が写っている。

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何度も掲載しているフェートンである。

_dsc0888


下はナッシュの1926から35年までの写真

1931年型をモデルにという記事が多いが、1930年型が近い様な気もするのだが

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Dsc_11441

Dsc_11451

32年からは、グリルのデザインに新しい潮流が出てくる。

流線型の走りとでもいうべき、グルル中央部の鋭角的に突出した形状が出現してくる。


1930年式の広告、ランプの形状が、アツタ号とは明らかに違う。

どちらかと云えば、量産型に近い砲弾型である。

当時の日本の板金(プレス加工)技術を考えると、深絞りはできなかったので、筒状のライトになったのでないかと考える。

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31年のナッシュの広告(新聞広告)

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スタイル的には、1930年31年は、試作型のアツタ号の車体形状は非常に一般的であったことが判る

都新聞に記載のシボレー自動車の新型も側面形状はほぼ同じである。


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