戸畑鋳物、戸畑鋳物自動車部、自動製造株式会社、日産自動車

よく、日産自動車の方々は、自分たちのルーツは、ダット自動車という言い方をする。

しかし、現実的には

1910(明治43)年 

 戸畑鋳物製造設立(鮎川義介の設立法人)

1911(明治44)年

 「快進社自動車工場」設立(東京府渋谷村麻布広尾)

1914(大正3)年 

 脱兎號(V型二気筒10馬力エンジン) 完成

1917(大正7)年 

 「快進社株式会社」設立(東京府北豊島郡長崎町)

 資本金 60万円

 DAT41型製造開始(小型車 四気筒15馬力エンジン 5人乗り)

 D: 男爵 田健次郎

 A:青山録郎(安中電機製作所設立、現アンリツ)

 T:竹内明太郎(コマツの創業者)

1919(大正8)年

 実用自動車製造株式会社(久保田権四郎)設立 三輪車製造開始(大阪)

1923(大正13)年 

 快進社 6万円に減資

1925(大正14)年 

 株式会社 快進社を解散し、合資会社ダット自動車商会設立

1926(大正15)年 

 合資会社ダット自動車製造設立(実用自動車製造と合併)、本社は大阪

1930(昭和5)年 

 DATSON完成

1931(昭和6)年4月1日

 自動車交通事業法公布

1931(昭和6)年5月 

 商工省に国産自動車工業法確立調査委員会設立

1931(昭和6)年 

 戸畑鋳物は、合資会社ダット自動車を買収、子会社化、ダツトソン発売 

 ダット自動車を得ることで、日本産業は、自動車生産の端緒を得る。

(私感、白楊社を何故買収しなかったのか不思議である。

 豊川氏の様な意思を持った者を鮎川は嫌った可能性がある。)

1932(昭和7)年 

 ダットサンに改名し、小型車を発売

1933(昭和8)年 

 戸畑鋳物株式会社は、自動車部を設立

1933(昭和8)年 

 合資会社ダット自動車は、株式会社 東京石川島製造所(石川島播磨重工業:IHI)の子会社「石川島自動車製造所」

 と合併自動車工業株式会社設立

 石川島自動車とダット自動車は、軍用自動車製造保護法対象法人

1933(昭和8)年12月23日 

 自動車製造㈱設立 資本金500万円
 戸畑鋳物、日本産業(鮎川儀介の持ち株会社、後の満州重工業母体)の出資で、自動製造株式会社設立

 合資会社ダット自動車の所有していた小型車部門と商標のDATSUNは、自動車製造株式会社が取得

 トラック生産部門が、石川島に残る。

1934(昭和9)年3月

 陸軍省、商工省を中心にして陸軍省整備局に国産自動車型式決定委員会設置


1934(昭和9)3月22日
   同和自動車工業㈱設立 資本金1000万円

 (国産主要メーカー7社と満州国、満州鉄道の合弁事業で設立された国策会社)

    昭和17年満州自動車と合併    

    後の満州重工業は、同和自動車を買収し、満州での自動車生産をえる。

  現実的には、輸入したパーツのノックダウン、シャーシに荷台を乗せる程度の工場の域を出なかった。           

1934(昭和9)年6月 

     自動車製造株式会社を社名変更し、日産自動車株式会社に変更

1934(昭和9)年8月20日  

      陸軍省 軍用自動車標準型設計案を完成、試作に着手

      商工省標準型式自動車正式名称が、「いすゞ」と決まる。

1934(昭和9)年10月1日 
      陸軍省「国防の本義とその強化の提唱」で、国内の政治経済機構の改革を示唆

1934(昭和9)年10月9日
        政府各省委員会 国産自動車工業確立大綱を決定

1935(昭和10)年4月12日
   日産自動車横浜工場で、組立一貫作業を開始第一号車「ダットサン・セダン」完成

1935(昭和10)年8月9日 
   政府は、国産自動車工業確立要綱を決定(翌年自動車製造事業法として立法化)
    同時に商工省通達で、各種自動車製造会社に対し、その工場・設備の増設停止を命令

1936(昭和11)年4月
    豊田自動織機製作所
    AA型乗用車の生産を開始

1936(昭和11)年4月20日 
    日産自動車, アメリカのグラハムページ・モーターの機械設備、エ 具、型、ゲージなどを譲り受ける契約に調印

1936(昭和11)年5月 29 日 
    自動車製造事業法が公布
1936(昭和11)年 6月
    ドイツのフォルクスワーゲン(VW)の試作第1号車完成

1936(昭和11)年7月 10日
   自動車製造事業法が施行

1936(昭和11)年7月15日
  満州国の同和自動車との間に代理店契約を締結
 同和自動車は、昭和17年6月に、満州重工業(日産)の関係会社の満州自動車製造に吸収された。

 満州重工業の拡張で、豊田自動織機は、同和自動車を通じての満州国への進出をあきらめた。

1936(昭和11)年9月19日
 1 豊田自動織機製作所の 「自動車製造事業の許可申請」は、7月23日付商工省指令11工第6890号で、許可さた。

  自動車製造事業の許可会社となる。 

  同時 に工務局長通達「自動車製造事業に使用 する材料および部分品は、やむをえざる 場合の外、これを輸入せざることとし、昭和13年以降においては、すべて国産品を使用するよう努力されたし」
  

2 「自動車製造事業の許可申請書」軍用自動車補助法適用の以下の法人は生産(予定)台数「が3000台以下のために不許可

  「東京瓦斯電気工業株式会社(ちよだ号)」

  「株式会社石川島 自動車製作所のちの自動車工業株式会社(スミダ号)」

  「協同国産自動車株式会社(いすゞ号)」

  後に、3社合併して東京自動車工業株式会社を設立、のちにジーゼル自動車工業株式会社に改称した。

  1941(昭和16)年4月9日、許可会社となった。

1937(昭和12)年6月 

 日産70型(グラハムページの乗用車そのもの)、同時に80型トラック、90型バスを発売

1966(昭和41)年 

 プリンス自動車工業を吸収合併、これにより、トヨタ自動車工業へに販売台数で互角になると踏んだ。

 日産は、ここで、プリンスのG型エンジンの技術を得る。

 G型エンジンは、メルセデスベンツのエンジンコピーである。

 RB系のエンジンは、このG型の発展形である。

 ボア、ストローク配置等が同一である点から発展形と判断する。

 スカイライン、スカイラインGTRのブランドを得る。

 

しかし、日産は、プリンスを得たことで、プリンスの過激な労働組合も得ることになる。

総評系の強欲な組合は、会社の屋台骨をむしばんでいく。

上記年表を見ると、日産自動車は、常に、どこかから何かを持っ來る姿勢である。

戸畑鋳物は、ダットのパーツを製作をしていた。

つまり下請けが、元請の資金難に乗じて買収(乗っ取り)する。

米国の倒産しそうな会社の機材、金型から生産設備、図面委一式、技術指導を含めたすべてを、購入した。

(この時の購入は、頓当たりいくらという交渉であったいわれている。)

ここで、大衆車(普通車)の自動車生産を開始する。

当時の基準は、高級、中級、大衆車、小型車の区分けである。

トヨタAA,日産70型は、大衆車の区分である。

ダットサンは、小型車の範疇で、現在の軽自動車の祖先である。

日産70型は、グラハムクルセイダーの国産型である。

また日産は、戦前、鋼材等の生産を進めることなく、米国からに輸入に頼っていた。

おかげで、戦時中は、日産が輸入した鋼材は、戦略物資指定を受けた。

メタルも輸入、大同メタルが生産を開始したときに、営業を行ったが、断られ、後に、納品するように要求があったということであった。

ここで、豊田喜一郎氏が、昭和初期から、人材の確保、設備投資、自動車製造への研究、莫大な資金を投入していった経緯をつぶさに研究していくと、「豊田喜一郎の執念」の結果できたトヨダAA型と、日産自動車の70型は、根本的に大きな差がある。

日産がいくら、日産自動車の歴史の根本はは、「ダット自動車(ダットサン)」といっても、その主張は弱い。

米国日産の成功を危うんだ、当時の社長は、ダットサンブランドを捨てた。

日産とダットサンのブランド統一という言いながらその実、片山豊氏への強烈な敵愾心があったといわれる。

ブランドをあっサリと捨てた会社の根なし草的な体質が見て取れる。

現在、東亜地域で、ダットサンブランドを復活させているが、1%以下の販売状況では先行きは危うい。

日産の言い分は、打倒トヨタである。

むかしの日産の人に聞いたことがあるが、「トヨタさえ抜けばよい」という掛け声のもとに自動車会社の吸収、子会社化を進めたが、進めれば進めるほどダメになっていく。

つまり、最初から企業の統治ができていないということである。

吸収し、吸収された側の人事をないがしろにする。

無能な社員を、姥捨て山にように吸収した会社へ送り込む。

現場は疲弊する

組合は、過激な方流れる。

日産の組合と、プリンスの組合が合併した結果、日産は、各工場の自動化を進めることが遅れた。

旧プリンスの村山工場は、最低の工場で、昭和35年の操業開始以降、設備の更新が進まなかった。

設備の更新を行うと、労働強化になる。

労働強化には反対する。

新しい車種の生産を始めると、労働強化になる

生産性を上げるの方法は、昔からの方法で、労働者が楽をできる生産方法はOK

販売店や、一般ユーザーの利便性は後回しである。

販売店、ユーザーは置き去りであった。

しかし、そんなことは意に介さない。

労働者の権利を守ることだけが目的である。

こうして、ゆがんだ組合会社の関係が出来上がり、幹部は、特権化していく。

皆は、この特権化を望むようになる。

そうして、日産の組合幹部は、労働貴族化した。

これは、会社を食い物にするのを目的にしている。

残念ながら、その昔、日産の組合幹部を「労働貴族」と呼んで批判したが、その精神は現在も存在している。

その精神は、日産関係会社の組合にも伝搬していく。

日産は、もともと、無責任体質で、幹部社員は会社を食い物にしている者が多かった、そこへ、組合も加わったから、会社が持つわけがない。

結果、不正な検査なんてことを平気で行うようになる。

ゴーンが強権で、村山工場を廃止したのは、設備古く更新もできず、効率が最低だった点と、旧プリンス系の組合つぶしだったともいわれる。

ススキ自動車(鈴木自動車工業)は、会社の代表者一族の身勝手な判断が、末端に悪影響を与えていた事例であろう。

日産、三菱は基本的に、ルノーの子会社の範疇である。

その意味を理解していない。

日産も三菱も、ルノーグループの範疇でその生産台数は、グループではカウントされている。

 

 

この年表無断転用禁止

 

 

 

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ちまちまと、調査・・・主に戦前のトヨタ自動車工業

2月末以降のシンポジュウムの資料作成と見学会の終了で、少々、気分が落ち着いています(バカ・・)
去年11月開催だった、産業遺産研究会のパネル展示は来年1月となったので、少々余裕がある。
今年は、中部地区の技術者、経営者を中心にしたパネル展示になるようです。
私が、試案で上げた人物は、
全部自動車、航空機・・・の技術者経営者・・・・お里がばれるな・・・というか、あんまり自動車の事を調べている居る人いません。
横断的に調べてる人もあまりいません
一応守備範囲は1907年から1952年までの自動車工業、主に、中京(名古屋)地区を中心としたである。
1906年までは、佐々木さんという大先輩がお見えになりますので、追い越すには無理です。
ついでに言うなら、1947年から1970年までのトヨタ自動車工業の技術史も含めたいと思う。
主にパブリカトヨタスポーツ・・というか、U型エンジンについての研究・・・BMW,ツエンダップ、シトロエンの2気筒も調べないといけませんが・・・
そこで、「トヨタを作った技術者たち」、「主査中村健也」トヨタ自動車株式会社さんの本が欲しいのだが手に入らん・・・・
とりあえず、撮影、読み込み、文字起こしをしている。

先日、自動車界(昭和12年)の雑誌4冊3万円買いそこなって以来、、技術系の思考が沈没気味。
ほしい古本が、国会図書館、県図書館、市図書館にもない・・・・どうしようか・・と、悩みつつ。
トヨタ博物館に一部収蔵されてはいるが、ホイホイ見せてくれるものではないし、肝心の号がない・・・

ある分だけ資料を採取
TOYODA G1の新車紹介記事は入手
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トヨダのボデイ設計公募は、都新聞、東京朝日、東京日日新聞に掲載されているのは発見したが、関西の新聞社、名古屋の新聞社にはその広告がないことが判明。
東京の在野の技術者を引き込むことを考えての広告と思われるが、戦略的に誤りはない。
アジア号の完成時写真(川崎車輛)の複写もできましたが・・・
Photo
肝心の広告に対する優秀賞の発表記事が見つからない
新聞3紙、9か月分読んだが出てない・・・

色々検索しながら本を探してるとこんな本(冊子)があった。
昭和3年の、FORDが頒布した、会社の案内の冊子である。
各地の販売店を経由して頒布したようである。
FORDという会社の解説である。
表題
「Ford フォードの産業
 フォード自動車会社と関係事業の梗概
 米国 フォード自動車会社」
 奥付は、昭和2年10月31日印刷
 昭和2年11月5日発行(非売品)
 原文版権所有者 
   米國ミシガン州デトロイト市 
    フォード自動車會社
 譯文發行者 
    横浜市中区緑町四番地
    日本フォード自動車株式會社

名古屋地区の頒布は、
   フォード自動車特約販賣
  フランクケー、宮崎商店

これを見つけて、読んでいて、ハタと気が付いたことがある。
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「トヨタ自動車躍進譜」という小冊子を、会社設立時に頒布してる(後年、再頒布している。)。
これが、このFORDの冊子によく似てるということである。

豊田喜一郎氏は、非常に現実主義者であり、まずは、できることを行う。
今できないことは後回しでもよいというスタンスであった。
市販のAA型にしても、内製化できないパーツは、すべて、FORD,シボレーのパーツを利用した。
トヨタAA型と、FORD シボレーのパーツ互換表があるぐらいである。
後年此の内製化で大いに悩むことになるのであるが・・・。だが車をつくるという目的のためには、それらの事実には目をつぶり、車を完成させたことは素晴らしいことだと思う。
この躍進譜を作ったのは、販売系統の神谷正太郎氏か、GMの販売店から移転した者の入知恵か、判りかねるが、豊田喜一郎氏は、この冊子を出すことで、「トヨタ自動車」とは、ほかのメーカーとは違いますよという意思表示だったと思われる。
トヨダ自動車躍進譜は、トヨダ自動車工業の会社案内としては、時節にあったと考える事ができる。

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