ヨタの燃費と比べちゃいけませんが 80キロ走って、3.56㍑しか燃料使用しないプロボックスは偉いぞ!

最高で34から35キロ/リットルから、最高で37から38キロ/リットルを記録したことがある。

高速道路平坦路をひたすら走る。

キャブを絞り、屋根付けて窓閉めて・・・80キロで延々と、往復250キロぐらい一度も止まらず・・・

最初、高低差のある中央道で走るとダメ

高低差のあまりない東名でもダメ

ほとんど高低差のない伊勢自動車道と東名の静岡の一部区間で試したことが記録にあった。

もう27年ぐらい前の記録である。

メモが出てきて、呪文が書いてあった。

何だろうと思って、古い手帳をみた

2月下旬、寒い中、一人で継続にいそしんでいる

高速道路のSAで給油

そのままキロポストをメモしながら走る。

距離計は、タイヤのサイズが155なので、165に換算して計算していた。

キロポストを正常な数値として扱った。

距離が延びないと書いてあり、距離計とタイヤサイズに問題があるので誤差が出ると書いてある。

走るときは、ゆっくり加速、キャブは絞ってあるので回転が安定しないので負荷をかける様に、2500~3000ぐらいに回転数を一定にしてひたすら走る。

ガソリンはハイオクタンガソリンに、添加剤混入

オイルは、BPの軽いのを1回だけ入れた。

耐熱性が高いんは粘性が高いと読んだからである。

別段、変化はなかった。

寒い時期だからよかったんだと思う。

(後年のBP Classicは重かった・・・なあと)

一人で延々と夜の東名を走る

トラックが怖い

寒い寒い・・・

で出た結果はばらつきがある。

平均を出すと、大体35㎞/㍑が、最高

行き追い風の期に38㎞/㍑

帰り向かい風で、32km /㍑

無風は夜であるが、35Km/㍑

今から思うと、金曜日の夜から土曜の朝にかけて何やってんだか・・・

閑話休題

 

で、

今日、レンタカーを借りて、友人と、友人の親戚の家にものを取りに行った。

頼まれたので仕方なく・・昼飯に、つられてである。

欅の一枚板欅でできた重くて大きな文机

力仕事といわれて仕方なく・・・である

向こうは駅に来て

駅の近くのレンタカー屋でプロボックスを借りた。

最初高速で行こうかとおっもったが、下道でもそんなに変わらないことが判明して下道で片道35キロ

帰りは名古屋市内までで45キロ

11時30分には帰り着いた。

普通の車の流れで、渋滞はほとんどなし・・・

加速もよかったが、途中で息継ぎがあった。

ATだから?

エンジンが加速を学習していない感じがした。

で、お昼をいただいて…車を返しに行く前に給油

3.68㍑・・・・

80.3キロ走って・・・・うーん

重い車体の癖に、燃費良すぎ

ヨタの軽いボデイにダメダメエンジンが頑張るよりも、PCコントロールの燃費調整の方が偉大という事?

MTカローラが、大体18キロぐらい・・・次の我が家の車はプロボックス?

MTあったけ?

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菅隆俊さんについて調べている

今日友人と話をしていてこんな言葉が出てきた。
今のトヨタ車を、喜一郎さんに見せたげたいと思う。
喜一郎さんの理想の車がここにある
あなたの蒔いた種が、ここまで来ました。
社長を退いたのち、失意のうちにあった時に見せてあげたい。
そうしてもう少し長生きしてほしかった。
あえて、彼といいたいが、彼は理想に燃え、素晴らしい車を作ろうとした。
しかし、あまりうまくいかなかった。
基礎工業が存在しない日本では不可能だった。
最先端だった航空機製造、発動機製造の現場も同じだった。
航空機エンジンは、神様という名の職人が1台1台仕上げていた。
月産200台・・の増産に必要な資金は1000円(現在では、100から200億円)が必要と言われた
三菱発動機製作所は、時間管理を導入し、生産性をあようとしてもうまくいかない
海外からの工作機を輸入しても使いこなせない。
しかし当時の生産管理(三菱は、工作管理という名称を使用)自体は、源流がフォードシステムであり、その手法が発動機生産の現場に導入されていた。
当時一番進んでいた生産管理は、米国の自動車工業であった(’異論があることは十分承知であるが、フォードの生産システムは、生産管理のたまものであった。)。
米国は、その当時すそ野の広い工業生産国であった。
汎用機、専用機も、専用の工場があり、使用者側の要望ですぐに生産する体制があった。
日本はできない相談だった。
機械生産のレベルは低く、マザーマシーンが作れない。

 

中部産業遺産研究会のパネル展の今年の担当は、「菅隆俊」になった。
菅隆俊さんは、アツタ号の設計、キソコーチ号の設計製造に携わった。
豊田自動織機に入社して、豊田喜一郎さんの指示で生産機械の輸入に奔走する。
菅さんは、挙母工場の設計を任される。
戦時中、豊田工機(現在のジェイテクト)が設立すると、移籍し、工作機の生産に携わる。
戦時中、複数、工作機械に関する論文を書いている。
その内容は、労働生産性の向上、汎用機製造、それら機械の特徴を解説した論文である

 

マシナリー 4(6) 雑誌 機械製作資料社, 1941-06 <雑31-230>
多量生產單用工作機械の單位式設計に就て / 菅隆俊

 

自動車工業用工作機械に就ての一考察1942(昭和17)年

 

工作能率指導叢書 機械工作篇 第3輯 孔明および中ぐり作業
図書 陸軍省 編. 日刊工業新聞社, 昭和18

 

機械と材料 : 工業雑誌 79(985)
雑誌 工業雑誌社, 1943(昭和18)年

 

工作機械の主軸裝置 / 菅隆俊外一名 ; 豊田工機株式會社

 

今日及び将来の工作機械 : ユニット構成機械 (機械工作の進歩 ; 1944(昭和19)年

 

機械工作雑誌 7(1) 雑誌 機械製作資料社, 1944(昭和19)年

 

パワーユニツト及びそのアブリケーションに就いて / 菅隆俊

等々である
全部は読んではいないが読み込んでいる。

実に楽しい

トヨタ自動車挙母工場を建設時の記録を記載した図書があるのですがどこかで手に入りませんかなぁ

 

 

 

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新記録?

一か月に読まれたページが3900越え・・・・

ちょっとビビってます(笑)

トヨタスポーツ関係は…全然です

模型のSHS(静岡ホビーショー)がらみの記事で2000ぐらい・・・・・

しかも数頁を何人が読んだのやら・・

ツイッターでリンク張られて・・・来るわ来るわ・・・

ちょっと、ビビる私・・

大体、毎日60から多くて80頁ぐらい参照されます。

半分がヨタ、半分が検索

検索で来るのは大学が多い

企業は、関連記事を書くと来る。

デンカ号の上野製薬が来てたのには驚いた・・・

とまあ、グダグダ感あふれるブログですがよろしくお願いします

昨日は、トヨタ博物館開館30周年記念の講演会がありました

ルネ・ラリックとカースコットについての講演でしたが大変ためにになりました。

笑ったのは、最後の質問コーナーで、話のお中で時代背景でできた、バウハウスに関して、ある爺さんが

「ルネ・ラリックは、バウハウスにいたんですか?」という頓珍漢な質問をしてました。

仲間うちのみんなが、一番最初に勢いよく手を挙げて・・・それかよである。

爺さんボケてる?という感覚でした。

一番最初から並んで、整理券1番をゲットした爺さんでしたが・・

フランス人が、ドイツ人に芸術を習うか?ということであるが、バウハウス運動(芸術ではない)とルネ・ラリックの作品は、対局である。

ルネ・ラリックの宝飾品、カーマスコットは、合理主義的、機能的でないい、簡素化されない存在である。

デザインは、簡素化、キュビズム的な影響を受けたものがあるが、それは、写実主義の簡素化であって、ナチスの好んだような風合いではない。

時々、不思議な質問をする人がいる

昨年、学会で「キソコーチ号」短い発表を行った時に、エンジン搭載車と説明しているの、電気自動車?的な質問をした人がいた。

勘違いなのか、脳内転換なのかよくわからないが、時々、変な質問をする人がいる。

私は、こんな質問をした(笑)

ガラスの原料は、フランス産か否か

ガラス製造のるつぼは、どこの製品か?

島津のキリコのるつぼが、最初は英国から輸入され、後には、ベルギー(オランダだったかもしれない)から輸入されてるので、どこのるつぼを使ったのか興味がありました。

ご回答は、原料はフランス産

ガラス原料は自社で製造、猫坩堝(一般的にはクローズドポット)を使っているとのことであった。

ルネのカーマスコットは、金属プレス加工品であった。

ガラスの鉛の含有量は少なくプレスに適した材料という事であった。

鉛の量が増えれば確かに、柔らかくなるなぁと

減ると柔らかくなりますかと聞いてしまったのは勘違いである。

流動性が低くないと、プレス向きではないですよねぇ。

伊勢丹で、マスコット買えます。

前に、伊勢丹ではないが、有名なモデルを買おうと思ったことがある。

当時13万円ほどで、逡巡して買わなかった・・・今は16万ほどである。

何かほしい気がする。

まぁ、この手の講演会は好きなので、次回に?期待したいですね。

 

 

  

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戸畑鋳物、戸畑鋳物自動車部、自動製造株式会社、日産自動車

よく、日産自動車の方々は、自分たちのルーツは、ダット自動車という言い方をする。

しかし、現実的には

1910(明治43)年 

 戸畑鋳物製造設立(鮎川義介の設立法人)

1911(明治44)年

 「快進社自動車工場」設立(東京府渋谷村麻布広尾)

1914(大正3)年 

 脱兎號(V型二気筒10馬力エンジン) 完成

1917(大正7)年 

 「快進社株式会社」設立(東京府北豊島郡長崎町)

 資本金 60万円

 DAT41型製造開始(小型車 四気筒15馬力エンジン 5人乗り)

 D: 男爵 田健次郎

 A:青山録郎(安中電機製作所設立、現アンリツ)

 T:竹内明太郎(コマツの創業者)

1919(大正8)年

 実用自動車製造株式会社(久保田権四郎)設立 三輪車製造開始(大阪)

1923(大正13)年 

 快進社 6万円に減資

1925(大正14)年 

 株式会社 快進社を解散し、合資会社ダット自動車商会設立

1926(大正15)年 

 合資会社ダット自動車製造設立(実用自動車製造と合併)、本社は大阪

1930(昭和5)年 

 DATSON完成

1931(昭和6)年4月1日

 自動車交通事業法公布

1931(昭和6)年5月 

 商工省に国産自動車工業法確立調査委員会設立

1931(昭和6)年 

 戸畑鋳物は、合資会社ダット自動車を買収、子会社化、ダツトソン発売 

 ダット自動車を得ることで、日本産業は、自動車生産の端緒を得る。

(私感、白楊社を何故買収しなかったのか不思議である。

 豊川氏の様な意思を持った者を鮎川は嫌った可能性がある。)

1932(昭和7)年 

 ダットサンに改名し、小型車を発売

1933(昭和8)年 

 戸畑鋳物株式会社は、自動車部を設立

1933(昭和8)年 

 合資会社ダット自動車は、株式会社 東京石川島製造所(石川島播磨重工業:IHI)の子会社「石川島自動車製造所」

 と合併自動車工業株式会社設立

 石川島自動車とダット自動車は、軍用自動車製造保護法対象法人

1933(昭和8)年12月23日 

 自動車製造㈱設立 資本金500万円
 戸畑鋳物、日本産業(鮎川儀介の持ち株会社、後の満州重工業母体)の出資で、自動製造株式会社設立

 合資会社ダット自動車の所有していた小型車部門と商標のDATSUNは、自動車製造株式会社が取得

 トラック生産部門が、石川島に残る。

1934(昭和9)年3月

 陸軍省、商工省を中心にして陸軍省整備局に国産自動車型式決定委員会設置


1934(昭和9)3月22日
   同和自動車工業㈱設立 資本金1000万円

 (国産主要メーカー7社と満州国、満州鉄道の合弁事業で設立された国策会社)

    昭和17年満州自動車と合併    

    後の満州重工業は、同和自動車を買収し、満州での自動車生産をえる。

  現実的には、輸入したパーツのノックダウン、シャーシに荷台を乗せる程度の工場の域を出なかった。           

1934(昭和9)年6月 

     自動車製造株式会社を社名変更し、日産自動車株式会社に変更

1934(昭和9)年8月20日  

      陸軍省 軍用自動車標準型設計案を完成、試作に着手

      商工省標準型式自動車正式名称が、「いすゞ」と決まる。

1934(昭和9)年10月1日 
      陸軍省「国防の本義とその強化の提唱」で、国内の政治経済機構の改革を示唆

1934(昭和9)年10月9日
        政府各省委員会 国産自動車工業確立大綱を決定

1935(昭和10)年4月12日
   日産自動車横浜工場で、組立一貫作業を開始第一号車「ダットサン・セダン」完成

1935(昭和10)年8月9日 
   政府は、国産自動車工業確立要綱を決定(翌年自動車製造事業法として立法化)
    同時に商工省通達で、各種自動車製造会社に対し、その工場・設備の増設停止を命令

1936(昭和11)年4月
    豊田自動織機製作所
    AA型乗用車の生産を開始

1936(昭和11)年4月20日 
    日産自動車, アメリカのグラハムページ・モーターの機械設備、エ 具、型、ゲージなどを譲り受ける契約に調印

1936(昭和11)年5月 29 日 
    自動車製造事業法が公布
1936(昭和11)年 6月
    ドイツのフォルクスワーゲン(VW)の試作第1号車完成

1936(昭和11)年7月 10日
   自動車製造事業法が施行

1936(昭和11)年7月15日
  満州国の同和自動車との間に代理店契約を締結
 同和自動車は、昭和17年6月に、満州重工業(日産)の関係会社の満州自動車製造に吸収された。

 満州重工業の拡張で、豊田自動織機は、同和自動車を通じての満州国への進出をあきらめた。

1936(昭和11)年9月19日
 1 豊田自動織機製作所の 「自動車製造事業の許可申請」は、7月23日付商工省指令11工第6890号で、許可さた。

  自動車製造事業の許可会社となる。 

  同時 に工務局長通達「自動車製造事業に使用 する材料および部分品は、やむをえざる 場合の外、これを輸入せざることとし、昭和13年以降においては、すべて国産品を使用するよう努力されたし」
  

2 「自動車製造事業の許可申請書」軍用自動車補助法適用の以下の法人は生産(予定)台数「が3000台以下のために不許可

  「東京瓦斯電気工業株式会社(ちよだ号)」

  「株式会社石川島 自動車製作所のちの自動車工業株式会社(スミダ号)」

  「協同国産自動車株式会社(いすゞ号)」

  後に、3社合併して東京自動車工業株式会社を設立、のちにジーゼル自動車工業株式会社に改称した。

  1941(昭和16)年4月9日、許可会社となった。

1937(昭和12)年6月 

 日産70型(グラハムページの乗用車そのもの)、同時に80型トラック、90型バスを発売

1966(昭和41)年 

 プリンス自動車工業を吸収合併、これにより、トヨタ自動車工業へに販売台数で互角になると踏んだ。

 日産は、ここで、プリンスのG型エンジンの技術を得る。

 G型エンジンは、メルセデスベンツのエンジンコピーである。

 RB系のエンジンは、このG型の発展形である。

 ボア、ストローク配置等が同一である点から発展形と判断する。

 スカイライン、スカイラインGTRのブランドを得る。

 

しかし、日産は、プリンスを得たことで、プリンスの過激な労働組合も得ることになる。

総評系の強欲な組合は、会社の屋台骨をむしばんでいく。

上記年表を見ると、日産自動車は、常に、どこかから何かを持っ來る姿勢である。

戸畑鋳物は、ダットのパーツを製作をしていた。

つまり下請けが、元請の資金難に乗じて買収(乗っ取り)する。

米国の倒産しそうな会社の機材、金型から生産設備、図面委一式、技術指導を含めたすべてを、購入した。

(この時の購入は、頓当たりいくらという交渉であったいわれている。)

ここで、大衆車(普通車)の自動車生産を開始する。

当時の基準は、高級、中級、大衆車、小型車の区分けである。

トヨタAA,日産70型は、大衆車の区分である。

ダットサンは、小型車の範疇で、現在の軽自動車の祖先である。

日産70型は、グラハムクルセイダーの国産型である。

また日産は、戦前、鋼材等の生産を進めることなく、米国からに輸入に頼っていた。

おかげで、戦時中は、日産が輸入した鋼材は、戦略物資指定を受けた。

メタルも輸入、大同メタルが生産を開始したときに、営業を行ったが、断られ、後に、納品するように要求があったということであった。

ここで、豊田喜一郎氏が、昭和初期から、人材の確保、設備投資、自動車製造への研究、莫大な資金を投入していった経緯をつぶさに研究していくと、「豊田喜一郎の執念」の結果できたトヨダAA型と、日産自動車の70型は、根本的に大きな差がある。

日産がいくら、日産自動車の歴史の根本はは、「ダット自動車(ダットサン)」といっても、その主張は弱い。

米国日産の成功を危うんだ、当時の社長は、ダットサンブランドを捨てた。

日産とダットサンのブランド統一という言いながらその実、片山豊氏への強烈な敵愾心があったといわれる。

ブランドをあっサリと捨てた会社の根なし草的な体質が見て取れる。

現在、東亜地域で、ダットサンブランドを復活させているが、1%以下の販売状況では先行きは危うい。

日産の言い分は、打倒トヨタである。

むかしの日産の人に聞いたことがあるが、「トヨタさえ抜けばよい」という掛け声のもとに自動車会社の吸収、子会社化を進めたが、進めれば進めるほどダメになっていく。

つまり、最初から企業の統治ができていないということである。

吸収し、吸収された側の人事をないがしろにする。

無能な社員を、姥捨て山にように吸収した会社へ送り込む。

現場は疲弊する

組合は、過激な方流れる。

日産の組合と、プリンスの組合が合併した結果、日産は、各工場の自動化を進めることが遅れた。

旧プリンスの村山工場は、最低の工場で、昭和35年の操業開始以降、設備の更新が進まなかった。

設備の更新を行うと、労働強化になる。

労働強化には反対する。

新しい車種の生産を始めると、労働強化になる

生産性を上げるの方法は、昔からの方法で、労働者が楽をできる生産方法はOK

販売店や、一般ユーザーの利便性は後回しである。

販売店、ユーザーは置き去りであった。

しかし、そんなことは意に介さない。

労働者の権利を守ることだけが目的である。

こうして、ゆがんだ組合会社の関係が出来上がり、幹部は、特権化していく。

皆は、この特権化を望むようになる。

そうして、日産の組合幹部は、労働貴族化した。

これは、会社を食い物にするのを目的にしている。

残念ながら、その昔、日産の組合幹部を「労働貴族」と呼んで批判したが、その精神は現在も存在している。

その精神は、日産関係会社の組合にも伝搬していく。

日産は、もともと、無責任体質で、幹部社員は会社を食い物にしている者が多かった、そこへ、組合も加わったから、会社が持つわけがない。

結果、不正な検査なんてことを平気で行うようになる。

ゴーンが強権で、村山工場を廃止したのは、設備古く更新もできず、効率が最低だった点と、旧プリンス系の組合つぶしだったともいわれる。

ススキ自動車(鈴木自動車工業)は、会社の代表者一族の身勝手な判断が、末端に悪影響を与えていた事例であろう。

日産、三菱は基本的に、ルノーの子会社の範疇である。

その意味を理解していない。

日産も三菱も、ルノーグループの範疇でその生産台数は、グループではカウントされている。

 

 

この年表無断転用禁止

 

 

 

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ちまちまと、調査・・・主に戦前のトヨタ自動車工業

2月末以降のシンポジュウムの資料作成と見学会の終了で、少々、気分が落ち着いています(バカ・・)
去年11月開催だった、産業遺産研究会のパネル展示は来年1月となったので、少々余裕がある。
今年は、中部地区の技術者、経営者を中心にしたパネル展示になるようです。
私が、試案で上げた人物は、
全部自動車、航空機・・・の技術者経営者・・・・お里がばれるな・・・というか、あんまり自動車の事を調べている居る人いません。
横断的に調べてる人もあまりいません
一応守備範囲は1907年から1952年までの自動車工業、主に、中京(名古屋)地区を中心としたである。
1906年までは、佐々木さんという大先輩がお見えになりますので、追い越すには無理です。
ついでに言うなら、1947年から1970年までのトヨタ自動車工業の技術史も含めたいと思う。
主にパブリカトヨタスポーツ・・というか、U型エンジンについての研究・・・BMW,ツエンダップ、シトロエンの2気筒も調べないといけませんが・・・
そこで、「トヨタを作った技術者たち」、「主査中村健也」トヨタ自動車株式会社さんの本が欲しいのだが手に入らん・・・・
とりあえず、撮影、読み込み、文字起こしをしている。

先日、自動車界(昭和12年)の雑誌4冊3万円買いそこなって以来、、技術系の思考が沈没気味。
ほしい古本が、国会図書館、県図書館、市図書館にもない・・・・どうしようか・・と、悩みつつ。
トヨタ博物館に一部収蔵されてはいるが、ホイホイ見せてくれるものではないし、肝心の号がない・・・

ある分だけ資料を採取
TOYODA G1の新車紹介記事は入手
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トヨダのボデイ設計公募は、都新聞、東京朝日、東京日日新聞に掲載されているのは発見したが、関西の新聞社、名古屋の新聞社にはその広告がないことが判明。
東京の在野の技術者を引き込むことを考えての広告と思われるが、戦略的に誤りはない。
アジア号の完成時写真(川崎車輛)の複写もできましたが・・・
Photo
肝心の広告に対する優秀賞の発表記事が見つからない
新聞3紙、9か月分読んだが出てない・・・

色々検索しながら本を探してるとこんな本(冊子)があった。
昭和3年の、FORDが頒布した、会社の案内の冊子である。
各地の販売店を経由して頒布したようである。
FORDという会社の解説である。
表題
「Ford フォードの産業
 フォード自動車会社と関係事業の梗概
 米国 フォード自動車会社」
 奥付は、昭和2年10月31日印刷
 昭和2年11月5日発行(非売品)
 原文版権所有者 
   米國ミシガン州デトロイト市 
    フォード自動車會社
 譯文發行者 
    横浜市中区緑町四番地
    日本フォード自動車株式會社

名古屋地区の頒布は、
   フォード自動車特約販賣
  フランクケー、宮崎商店

これを見つけて、読んでいて、ハタと気が付いたことがある。
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「トヨタ自動車躍進譜」という小冊子を、会社設立時に頒布してる(後年、再頒布している。)。
これが、このFORDの冊子によく似てるということである。

豊田喜一郎氏は、非常に現実主義者であり、まずは、できることを行う。
今できないことは後回しでもよいというスタンスであった。
市販のAA型にしても、内製化できないパーツは、すべて、FORD,シボレーのパーツを利用した。
トヨタAA型と、FORD シボレーのパーツ互換表があるぐらいである。
後年此の内製化で大いに悩むことになるのであるが・・・。だが車をつくるという目的のためには、それらの事実には目をつぶり、車を完成させたことは素晴らしいことだと思う。
この躍進譜を作ったのは、販売系統の神谷正太郎氏か、GMの販売店から移転した者の入知恵か、判りかねるが、豊田喜一郎氏は、この冊子を出すことで、「トヨタ自動車」とは、ほかのメーカーとは違いますよという意思表示だったと思われる。
トヨダ自動車躍進譜は、トヨダ自動車工業の会社案内としては、時節にあったと考える事ができる。

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帝国自動車保護協会 出版部 発行 「全国自動車所有者名簿」

全国自動車所有者名簿

帝国自動車保護協会 出版部

東京市麹町區内幸町1-5

大正13年11月5日印刷

大正13年11月10日発行

この本は、東京府から外地の朝鮮総督府、関東州も含めた車両の所有者の名簿である。

有名どころでは以下の通りである

1番から10番までで、貨物は、3台しか登録がない。

1番 明治屋合名改社    自家用 貨物

2番 舟橋英雄        自家用

3番 三越呉服店      自家用

4番 凸版印刷株式會社 自家用貨物

5番 三ッ引商事株式會社 自家用貨物

6番 山本鎌太郎       自家用

7番 坂田鶴松        自家用

8番 凸版印刷株式會社 井上源之助 自家用

9番 大蔵省         自家用

10番 渡辺治右エ門    自家用

11番 岩崎輝彌       自家用

12番 山本権兵衛     自家用

26番、87番東京府    自家用 乗用

30番、31番、79番 内務省

37番,321番、425番、星製薬

47番、104番 岩崎俊彌 

63番 三井物産株式會社

77番 渋澤栄一

81番、210番 岩崎小彌太

86番、190番、353番 日の出タクシィ株式會社

99番 三井八郎右衛門

100番、134番 三井物産株式会社 代表 手塚謙吾 

117番 東京乗合自動車株式会社 営業車

230番 幣原喜重郎

233番 徳川義親

251番 近衛文麿

280番 中村座 田村壽三郎

284番 北里柴三郎

286番 大倉喜七郎

366番 木戸幸一

380番 有栖川宮家

400番 團 琢磨

全部の記載はムリである。

 

でも楽しい

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94年前の本

大正13年の発行のある本には、当時の全国の自動車登録番号と所有者の氏名名称住所が書いたものがある。

多くの府県は、登録番号の記載がある。

残念ながら愛知県の登録番号は記載がないが、所有者一覧はある。

豊田佐吉、豊田利三郎、豊田喜一郎、豊田平吉(佐吉氏の長兄)の名前で登録がないかを探したのである。

豊田佐吉の関係の展示で頒布された本にこんなことが記載してあったからである。

豊田平吉(豊田佐吉氏の兄、後のトヨタ自動車工業、監査役)氏は、大正12年から13年にかけて、欧米視察旅行に出ている。

その折、ドイツ製電気自動車を土産として購入

(「研究と創造の生涯 佐吉の志と、それを支えた人々」トヨタ産業技術記念館)

つまりは、13年の全国自動車所有車の一覧を見れば登録の有無が判ると考えたのである。

残念ながら、愛知県内では、上記の者の登録はなかった。

豊田自動織機は、車両の所有をしているとの記載があった。

何を調べているかと云えば・・・デンソー号の関係をチマチマと読み込んでいます。

現在、TOYOPET SD型の関係で、荒川車体、関東電気自動車工業、三菱名古屋航空機製作所の製造、製造していた車両に関することまで深い入りしています。

蛇足ながら

東京府の所有者一覧を見ていて少々驚いた

東郷平八郎

山本権兵衛

鳩山一郎

のお三方の所有緒記載があった。

 

 

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